礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年3月11日

ヤコブ書連講〔8〕

「愛の勝利」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書2章1−13節

中心聖句

8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。

9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。

(8節)


始めに:

前回は、「差別することの罪」とその根本にある自己中心、それを解決するものとしてのキリストの救いについてお話しました。

今回はその続きで、その罪が愛の原則に反するというヤコブの主張を述べます。


A  差別vs愛の律法(8,9)

8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。

9 
しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます

1.隣人愛は最高の律法

この文節でヤコブは、私達の行為を評価する基準として、基礎的なクリスチャンの法則、隣人愛に戻ります。レビ19:18に命じられ、主によって確認された律法です(マタイ22:39)。

1)「最高の律法」とは、文字通りには「王様の」バシリコス(王の)と言うことで、律法の由来を示します。この律法は王である主キリストに由来したものです。

主はヨハネ15:12に「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」そしてそれが主イエスの私達に与えて下さった「新しい戒め」である、とヨハネ13:34で語られました。王様の命令ならば、逆らえません。というより、最高の敬意をもって尊重されねばなりません。

2)勿論新しい戒めですが、旧約の律法の総まとめとして主イエスが強調されたのもこの句です。

レビ19:18では、非常に具体的な愛の行いの勧め(賃金を払え、弱い者を侮るな、公正な裁判をせよ、他人を中傷するな、憎むな、戒めよ、復讐するな:13ー18節)の文脈で語られていることに留意しましょう。

マタイ22:39では律法の最高のものとして主イエスが語られました。

ローマ13:8、ガラテヤ5:14ではパウロが律法の全ての戒めを要約したものとして強調しています。

3)「守るなら」(テレイテ)「テレイン」とは「成就する」全うするとの意味で、単に遵守する、守るより強い意味です。あれも守った、これも守ったという何か受身、消極的な姿勢ではなく、積極的な攻めの姿勢で自発的に実行しましょう、との意味です。

2.差別は隣人愛に反する(9)

9節の論理は、「えこひいきなんて誰でもしている。何でそんなに目くじらをたてるの?」といった疑問への応答です。

1)依怙贔屓は罪です。私達は差別的な行動は、人間のテイストから来るやむを得ないもの、と言う風に自分で赦してしまっている面がありますが、ヤコブははっきりとこれは罪である、と断言します

2)「罪を犯して」エルガゼステ)とは、「罪を働いて」と言う意味です。犯すより強い言葉です。段々気を着ければ良い欠点とは言わず、ヤコブは「あなた方がやっているのは神に対しても、差別された人に対しても罪なのです。」と厳しく言っています。

3)「違反者として責められ」エレンホメノイ)罪過ちについて叱られる。こんな程度の罪でも、他の強盗や、殺人と同じ基準で、きびしくさばかれるのです。厳粛ですね。


B  一つの違反=全体の違反(10,11)

10 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

11 なぜなら、『姦淫してはならない。』と言われた方は、『殺してはならない。』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

1.罪は、律法賦与者への反逆

1)「すべてを犯した」(ゲゴネン ヘノホス=有罪となる)

2)一つの小さな(様に見える)罪は何故深刻なのでしょうか?それは私達の神との生命的な関係を破壊するからです。一点の罪が神の御心を痛めるからです。

3)同じ神が『姦淫してはならない。』と言われ、また『殺してはならない。』とも言われたのです。つまり、律法の賦与者は神なのです。

4)この論理は、山上の垂訓で主イエスが律法の外側の遵守ではなく、動機を問題にしていることにも呼応しています。外側の遵守ではなく、内側の動機が更に重大です。

2.従って、一つの違反は律法全体の違反

1) ですから、他のどんな律法を完全に守っていたとしても、一点の罪を犯すなら、神の満足を得られないと言う点では、おなじことです。例えの話なのですが、安息日を守る為には、39箇条もの規定があるのですが、その一つを破ったら、38を守っていても全体を破ったことと同じになる言われています。

2)その結果、私達は律法全体の「違反者」(パラバテース=パラはbeyond バイノーはgo go beyond (the line) 線を越えたもの)となるのです。厳しいように響きますが、これが律法というものなのです。


C  憐れみ>裁き(12,13)

12 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。

13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

1.自由な律法=キリストの愛のおきて

1)自由と律法とは矛盾する言葉です。ヤコブは他にも1:25でこの言葉を使っていますが、どういう意味なのでしょうか。

2)そもそも、クリスチャンはモーセの律法の下にはありません。従って私達は掟の細かい規定からは自由です。

3)しかし私達はキリストの律法によって裁かれます。その律法とは

そこで、イエスは彼に言われた。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』・・・『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:37,39)

です。

4)実はモーセの律法より厳しいとも言えるし、緩やかとも言えます。これは個々の行為の外側ではなく、一つ一つの行為の動機や気分が裁かれるからです。神と人とに対する真の愛かあるかどうかだけが裁きの基準なのです。

2.憐れみなきもの->憐れみ無き審判(マタイ5:7)

1)「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。」憐れみを示さなかった者への裁きは憐れみがありません。

この言葉は、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」(マタイ6:14)という言葉を反映しています。

また、私達が周りにいる人々に何の関心も示さず、具体的な助けもせず、心を閉ざした状態であるならば、やがての日に、主イエスの言葉を聞くでしょう、「なぜ私が飢えた時に食べさせ、何故私が渇いた時に飲ませ、病気の時に見舞い、牢屋にいたときに訪問してくれなかったのか。」と。

私達の周りにいる何かの必要を持っている人々は、主イエスの代表者なのだということを覚えたい者です。

2)もっと言えば、「憐れみ深いものは幸いです。その人は憐れみを受ける。」 (マタイ5:7)のです。

3.憐れみは裁きに勝ち誇る

1)「勝ち誇る」カタカウハータイ、カウハオマイとは大声で喋る、誇る、と言う意味)。

憐れみとは私達が持つ憐れみの心というよりも、神の憐れみと見る方が自然でしょう。ヤコブは、キリストによって示された神の憐れみが、私達の直面しなければならない審判に対して勝利を収める根拠となる、と言おうとしています。

2)これを人格化して見ますと、ミスター・ジャスティスが断罪の可能性を脅迫しているけれども、憐れみが干渉して裁きに勝利する姿です。ミス・マーシーは神の栄光を纏って神の御座の脇に立っています。私達罪人が裁かれようとするとき、ミス・マーシーが立ち上がって私達を弁護します。そして彼女の弁護の翼をもって私達を覆うのです。

3)神のみがその憐れみによって私達の罪を赦しうるのです。私達は他の人を赦すことによって赦しを獲得することはできません。しかし私達が赦しを頂いた後で他の人への赦しを控えたならば、私達は神の憐れみを感謝しないことを表わしてしまいます。


D  私達への適用

1.隣人愛:何をすべきか?

全ての人を分け隔てなく、丁度主イエスが取税人や遊女も含めてすべての人を愛の目をもってご覧になり、その価値を見、愛を注いだように、私達もそのような人を見る目、人を理解する心、人の必要に答える行動を求められています。

2.隣人愛:何をすべきでないか?

私達はどうしても役立ちそうな人を大切にし、役に立ちそうもない人を無視したり、軽視したりする傾向があります。人を外見、生い立ち、人種、性別、貧富、学歴、地位などで裁いて、差別してしまいやすいものでしょうか。それが、どんなに人々を傷つけ、社会に不和の種を蒔く結果となることでしょうか。

3.私達の心は?

詩篇139:23,24の祈りが私達の祈りとなりましょう。

「どうか私が富める人を依怙贔屓し、貧しい人を卑しめるというような罪を、いかなる美名をもってしてもする事のないようにお祈りします。

私の行為を聖言の光において吟味することを教えて下さい。

私が住んでいる時代の偏見や恐れによって私が動かされることのありませんように。私の為すべき道筋に導いて下さい。

その時私はあなたのみまえに恐れなく立つことが出来ましょう。」


Written by I. Saoshiro and Edited by K. Ohta on March.11, 2001