礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年3月18日

「仕上げの一筆を加える」

井川 正一郎 牧師

ピリピ書1章1〜12節

中心聖句

1:6  あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

(6節)


はじめに

 讃美歌53番『たれかは述べうる、み神の愛をば』を歌いました。

 英語の3節には、「神の愛を絵に描こうとして、大空をキャンバスにし、海をインクとして描いてみます。描ききれるでしょうか。いや、神の愛はこちらの端の空から、あちらの端の空までの広さをキャンバスにしても描ききれません。もっと紙が必要です。しかもインクとなる海の水はなくなってしまい、乾ききってしまうでしょう。それでも描ききれないのが、神の愛の広さ、偉大さ、大きさなのです」とあります。

 この讃美を歌うたびに、人間の小ささ、乏しさ。特に言葉等に表わす表現の足りなさを痛く教えられます。神の愛の大きさとは、表現しがたいもの、それほど、素晴らしいものなのです。

 この讃美は、筆をもって絵を描くということが背景となっています。で、この歌を歌うたびに思い起こすのが、きょうのメッセージとなる聖言、ピリピ書1章6節です。

ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

 「完成させてくださる」とは、ギリシャ語では「いよいよ仕上げの一筆を加える」との意味を持つことばです。

 福音にあずかり、福音を広めるに大いに役立っているピリピ教会。その働きがいよいよ仕上げの一筆を加えるまでになっているのです。そして、神が完成させてくださるというのです。

 詩篇138篇に「主は、我に係わることを全うしてくださる」との聖言がありますが、神は福音経験、あるいは与えられた使命目的について完成してくださるお方なのです。

 「いよいよ仕上げの一筆を加える」、これが今日のメッセージです。年会を直前にし、年度の締括りに相応しい聖言だと思います。また新しい年度、ステップに向かう我らにとっても相応しい聖言なのです。


 メッセージの思い巡らしに入る前にピリピの町、教会、手紙について簡単に触れたいと思います。神学生時代、任地に派遣されたら、まずその町の一番高い所に登って、町をよく見なさいと教えられました。「煙と何とかは、高い所が好き」と言われます。牧師になって何度か地方の教会の特伝に招かれましたが、それを実行している先生もおられます。

 まず、ピリピという町ですが、マケドニア地方の東の境界線近くに位置し、最初はクレニデスと呼ばれていましたが、紀元前356年にフィリッポス2世(アレクサンドリア大王の父)がこの町を拡張、強化し、彼の名前に因んで「ピリピ」と変更されました。マケドニア地方の中心地で、商用都市というよりも、軍用都市でありました。ヨーロッパ最初に教会ができた町として名前を残しています。

 ピリピ書は、パウロがローマ獄中からピリピ教会宛てに記した手紙です。この頃のピリピの教会は、福音にあずかり、確かな霊的変貌があり、証詞、伝道、結実がありました。また、パウロの必要に貢献し、よく捧げる教会でした。


本論

 今日のメッセージは、「いよいよ仕上げの一筆を加える」です。

 直接的な文脈としては、財的物質的な事柄なのでしょうが、福音体験や霊的祝福に適用しても間違いではないでしょう。

 なぜ、「神が完成してくださる(仕上げの一筆を加えてくださる)」のでしょう。理由は、2つあります。

1.完成に向かって、スタートしたから

 書き始め、デッサンのスタートがあったからです。「良き働きを始められたから」です。良い働きとは、聖書では「神の御旨に適うわざ」のことです。福音を広める、福音にあずかる。

 さきほど、学んだ通りピリピの教会の人々は創設当時より、しっかりとした霊的変貌がありました。証詞と伝道、また結実もあったのです。そして、捧げもののご奉仕においても類にない献身的なご奉仕をしています。どこかで若干、そのスピリットが失いかけていましたが、それが今また、見事によみがえったのです。

 財的物質的奉仕はもとより、ピリピ教会の人々の霊的祝福、福音にあずかる経験の完成について、神はそれをキリストの日までに完成してくださるというのです。神の御旨に相応しいみわざは必ず完成されるのです。一筆、一筆と描き続けてきたものが、ついにはその絵、作品が完成されていくのです。神様には「弘法も筆のあやまり」ということはありません。

2.どうしても、完成させたいと思っておられるから

 「いよいよ」仕上げの一筆を加える。制作中ではありますが、ほとんど出来上がりに近づいているのです。それを何としても完成させたい。出来上がらせたい。「どうしても」という思いが、そこにあるのです。

 では、なぜ、「どうしても」、なのでしょう。もう少し細かく分析すると、

 @神の愛情が注がれているから

 神様のほとばしる愛情、愛を感じざるを得ません。

 A時間と忍耐をかけてきたから

 ピリピの教会については、最初の日からパウロのこの手紙の日まで、少なくとも10年という歳月が費やされています。その間、順調にきたわけではないでしょう。試練があり、反対もありました。そして捧げものの奉仕のスピリットが薄らいだときもあったでしょう。今、小さな課題かも知れませんが、一致の課題が教会の中にあります。神は、テモテの派遣やエパフロデトの迎え方についても、愛情と忍耐をもって、時間と忍耐をもって、一つ一つ、一人一人を丁寧に扱ってくださり、解決を与えてくださるのです。

 B人の存在価値、目的価値をよく知っておられるから

 神はパウロの筆を通して、そのことを訴えておられます。牧師に頼ることも悪くはありませんが、たとえ牧師が獄中にあっていなくとも、私と神がという一対一の関係で救いを全うしなさいとパウロは勧めているのです。完成に向かって一個のたましいの重さ・価値・目的を知っているのです。

 また、テモテやエパフロデトについての紹介、評価の仕方についてや、その迎え方についてのアドバイスも、テモテ・エパフロデトの存在価値・目的価値をよく弁えた表現です。

 足らない、乏しい人間をどう見るか。どうしようもない人間には違いない。でも、神が育ててくださっている、大事な一個のたましいとして価値高く完成させようとしておられるのです。そんな見方ができたならば、何とすばらしいことでしょう。

 ピリピ4:10を見てください。

ピリピ4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

 この表現、好きですね。どなるのでない、突き放したかのようにしかりつけるのではない。牧者だなあ、と思います。

 牧者の心って、いかなるものでなければならないか、深く教えられ、反省させられます。ピリピの教会の一人一人を思うばかり、何としてでも、どうしても傑作品として完成させたい。いよいよ仕上げの段階にきている、残りの一筆を加えたい、のです。

 Cあともう少しで、完成するから

 「あともう少し!」――ここまで造り上げてきたのだから。エレミヤが見た陶器師の陶器は、気に入らず、他の器に造りかえられていったのですが……。

 神の御旨に従いつつ、造られてきたのです。与えられた仕事も完成に向かっていっています。あともう少しです。


終わりに

 締め括りに、「あともう少し」を合い言葉としたいと思います。

 救いに至ること、あともう少し。きよめ、あともう少し(瞬時的でありますが)。洗礼にあずかること、あともう少し。仕事について、あともう少し。この問題、あの課題について、あともう少しで解決、完成なのです。

 で、申すまでもなく、私たちの生涯は節目節目、段階段階があるものです。一気に完成、出来上がるのではありません。この第一段階での完成・実現・解決があります。そして次の段階、次の段階節目と進んでいくものです。

 あともう少し、それはお互いの、どの段階でしょうか。しかしついには、それが最終的に完成するときがあるのです。キリストの日に。神様は仕上げの一筆を加えようとしていてくださいます。とすれば、我らの側でも、その一筆を加えて頂くべく、あともう少し福音にあずかり、広めること、あるいは仕事に勇気をもって当たりたいものです。

 あと一歩か、あと二歩か。「あともう少し」すなわち、「いよいよ仕上げの一筆を加える」、これが今日のメッセージです。

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2001.3.18