礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2001年3月11日
イムマヌエル綜合伝道団第56次年会合同礼拝
「己が十字架を負いて我に従え」
河村 襄 総理
マタイの福音書16章21−28節
中心聖句 24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(24節)
アウトライン:
主イエス・キリストが弟子達に仰ったみことばは、信仰者として持つべきスピリット・姿勢をするものである。
すなわち、
(1)自分を捨てることは、自分の主張、自分の願望、自分の計画を主に委ねることであり、
(2)自分の十字架を負うということは、その十字架に、自分自身を、不信仰な自分−神に反逆する性質を持った自分−を十字架に釘付けにする、ということを意味している。
(3)そして、それは、イエス・キリストを信じるものにとって、厳しい道かもしれないが、それがいのちの道であり、それが神の報いと神の報償につながる道である。
始めに:
先ほど、朗読をしていただきましたマタイの福音書16章の24節のみことばに、もう一度目を留めていただきたいと思います。
マタイ 16:24「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
去る22日の木曜日から、横浜の聖宣神学院で行なわれてまいりました第56次年会の締めくくりの日であります。昨年1ヵ年間、様々なことがございました中で、信仰を同じくする全国の兄弟姉妹たちのお祈り、また主にあるご協力を、心から感謝をいたします。そして,新しく迎えます年度のためにも、昨年に倍する祈りとご協力を賜りたいと思っております。
年会に召集されました伝道者一同、昨年1ヵ年間の奉仕を顧み、新しい年度のために整えを頂き、信仰のビジョンを新しくして、踏み出すことが許されておりますことを感謝いたします。
きょうは、この礼拝を終え、午後の宣教会を越え、任命式において、それぞれ新しい任命を頂戴して,救霊と教会建設の働きのために全国へ散って行くことになっています。
伝道の壁、ということがしきりにいわれているなかでありますけれども、その壁がなんであれ、力ある主が力強く働いてくださることを信じ、主からの知恵と助けを祈りつつ、地道に、ともに福音のために労させていただきたいと願っております。
ただいま朗読されました箇所の一番最初の部分、21節に、「その時から」という句がございます。
この「時」は、主イエスのご生涯の区切りのときであったということができます。
主のご生涯には、このようなときが少なくとも2回ありました。第1回目は、マタイの福音書の4章の17節でございますが、主が公の宣教を開始された時でございます。
そして、このマタイの4章の17節には、冒頭に「この時から」という句がございます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というのがそのメッセージでした。
もう1回は、けさ私どもがともに読ませていただいた場所でございまして、主イエスがご自分の十字架を予言し始めたときでございます。
この節の冒頭にも、「その時から」という句がございます。エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、3日目によみがえなければならないということが、その内容でございました。
主イエス・キリストはその時までにも、十字架のことをお語りにならないわけではありませんでした。しかしながら、それは全部間接的な表現によってでありました。
例えば、主が、ニコデモと夜会話をなさったとき、その終わりの部分で、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も又上げられなければならない(ヨハネの福音書3:14)」といわれたのがその一例であります。
しかしながら、このときからは、直接的な表現で語られるようになりました。福音書記者のマルコによりますと、しかも、はっきりと話されたのでございます。
この十字架の予言は、22節と23節に示唆されておりますように、人間の心の中に神の働く邪魔をする性質−神のことを思わないで人のことを思う性質、が潜んでいることを明らかにする機会になりました。
おそらく、十字架にかかると仰ったキリストを目の前にして、「自分の先生がそんな風になるはずがない。また、そんな風になったら困る」という意味で話をしたのでしょうけれども、それだけに、この問題は深刻な問題でございました。
そして、それと同時に24節の中に示されておりますように、主の弟子たる者のあり方、あるいは主の弟子たる者のスピリットを明らかにする機会になりました。
今朝は、この後者に焦点を合わせて、伝道者であるとを信徒であるとを問わず、イエス・キリストを信ずる信仰者として持つべきスピリットあるいは姿勢が何であるかを確認させていただきたいと思っております。
なによりも、キリストは私どもに、「わたしについて来なさい」、文語訳では「我に従え」でありますけれども、「我に従え」と声をかけている方でいらっしゃいます。ときには、ご自分のほうから近づいてきて、「我に従え」と仰いました。
別の機会には、ご自分のもとにやってきた人の質問や決意に答えるときで、「我に従え」と仰いました。さらに別のときには、弟子達と一緒においでになったときに、「我に従え」と仰いました。
それは、すでにキリストの弟子になっている人に対する場合もありましたし、そうでない場合もありました。
しかしキリストは、その双方に「我に従え」と仰いました。例えば、その伝道生涯で、場所は恐らくヨルダンの向こう岸のベタニヤであったと思われますが、アンデレともう一人の男−聖書はこの男の名前を記しておりません。
おそらく、ヨハネであったと思われますが、この2人の人物を救いに導かれましたその翌日、そこからガリラヤに行こうとなさいましたときに、ピリポを見つけて、ピリポに対して「我に従え」、こう仰いました。
その後、ガリラヤのほとりを歩いていらっしゃったとき、湖で網をひいていたペテロとアンデレの兄弟を見て、「我に従え、来たり」、こう声をおかけになりました。で、その少し後、カペナウムの町を歩いていましたとき、取税人でありましたレビ−後のマタイでありますが、この人物に目を留めて、「我に従え」、こう仰いました。
そして、公のご奉仕のほぼ3分の2を過ぎましたとき、あの有名な展望ざんにおける出来事がございましたが、その翌日、下山して、サマリヤを経由してエルサレムに向かう途中、一人の律法学者が、おそらく「我に従え」といわれたのでしょう、それに答える形で、「どこにでもついていきます」と言ったとき、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない(マタイ8:20)」と決意を促されました。
ほとんど時を同じくして、もう一人の弟子が、「まず行って、父を葬ることを許してください(マタイ8:21)」、こう願い出ましたとき、この弟子に対して、端的に、「我に従え」と仰いました後で、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい(マタイ8:22)」、こう戒めなさいました。
そして、そのすぐ後で、「主よ、あなたに従います」といった別の弟子には、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない(ルカ9:62)」、釘をさされました。
主イエス・キリストは、至るところで、いろんな種類の人々に、「我に従え」、「我に従え、来たり」と言いつづけなさったお方であります。
さらに、伝道の末期、「永遠のいのちを得るために何をすればいいでしょうか」と質問してまいりました多くの財産を持った若い役人に対して、条件付ではありますけれど、「我に従え」、こうお答えになりました。
そして、最後に、復活の後でガリラヤのほとりでペテロに言明なさったとき、「我に従え」、念を押すように、2度繰り返して仰いました。
ペテロにとっては、主イエス様と一緒におりましたヨハネの動向が気になったのですが、主イエス様は、「ヨハネがどうなるかというのはあなたと何の関係もない。あなたはわたしに従え−汝は我に従え」、こう仰いました。
こういう風に見てまいりますと、主イエス・キリストの「我に従え」というこの呼びかけは、キリストの生涯のすべての時期にわたっております。
「救いを目指して我に従え」と仰った場合があり、召命あるいは献身を目指して「我に従え」と仰った場合があり、主イエス・キリストに従う際の心構えを示した意味で、「我に従え」と仰った場合があり、いろいろでありますけれども、いずれの場合にも、主イエス・キリストは、私どもの本当の意味での祝福を願って、「我に従え」と呼びかけておいでになります。
すなわち、時には、罪を受け止めて悔い改めること、それが主に従うことを意味します。
時には、主の救いを受け入れるということが、主に従うことでございます。
場合によっては、主の召命の御声に聞き従うことが、主に従うということでございます。
場合によっては、自ら進んで、自分を捨て、自分の十字架を負う道を選択することが、主に従うことを意味します。
それで、主に従うということは、決して抽象的なことではありません。極めて、具体的なことであります。
私どもの置かれています信仰の段階に応じて、あるいは、罪の悔い改めにおいて、あるいは、主イエスを救い主として受け入れることにおいて、あいは、主の召命の御声に聞き従うということにおいて、あるいは、主の従者として、己を捨て、己が十字架を負う、ということにおいて、お互い、主に従う者であることを証したいのでございます。
私どもの群に属するすべての人々が、その年齢のいかんに関わらず、その携っている仕事や立場のいかんに関わらず、また家庭の中における役割分担が何であるかにも関係なく、みんなが、主に従いつづける者であることができたら、どんなに幸いであろうかと思います。
ひととき、足を留めて、「私は主に従うことをもって、人生の最大のモットーにしています」と言うことができる人達が大勢興されたら、どんなに幸いなことでしょうか。
今朝、私達が目を留めさせていただきたいと願っております、このマタイの16章の24節には、主に従う際に、己を捨て、己が十字架を負うということが鍵だということが述べられています。
これは、ひとことで申しますと、主イエス・キリストご自身が十字架の道をおたどりになったように、主を信ずる者われらもまた十字架の道をたどるべきだ、ということでございます。
イエス・キリストを信ずる信仰は、使徒ヨハネが申しましたように、たしかに、勝利と祝福の道でありますけれども、それは、途中に何の悩みも困難もないと考えるようなご利益宗教的な意味においてではありません。
場合によっては,様々な試みがあり、困難があるかもしれません。そこには,誰が考えてみても、十字架が待ちうけているという事態があるかもしれません。
しかし、そのような中で、主はそれらに打ち勝って、そのようななかでわれら一人一人を支えて、勝利に至らせてくださるという意味において、キリストを信じる信仰は勝利の道であります。
もっと申しますならば、どのような道をたどるにせよ、主に従うということ自体が、祝福なんです。
主に従っていたら、その行く末は、祝福だというものじゃない。それも、確かに一つの面です。ですけど、主に従うというそれ自体が、実は救いに預かった私どもにとって祝福そのものなのでございます。
まさに、十字架の道こそが実は勝利と祝福の道だという事実を、この年会の合同礼拝で伝えることにして、新しい年度の働きにたたせていただきたいと願っております。
まず,「だれでもついてきたいと思うなら」、24節の冒頭に記されております。
「だれでも私についてきたいと思うなら」、直訳ですけれども、フィリップス訳は、「私の足跡に従いたいと欲するなら」、ニュー・イングリッシュ・バイブルは、「私の従者でありたいと願うなら」、さらに、ヤングの訳は、「私に従おうと意思するならば」というふうになっています。
主イエス様は、私どもに従うかどうかということを問いかけなさるのです。従うつもりがあるのがないのかということを問いかけなさるお方であります。従いたくない者に、それが祝福の道だから従うことを強要なさる前にであります。
主に従うということは、強制的、強圧的なものではなくて、あくまでも、自発的なものであります。おおよそ、道徳の世界、宗教の世界では、外見は同じでも、自発的でなかったら、意味も価値もありません。また、主を喜ばせることも出来ません。
道を歩いておりますとき、ときどき、犬を散歩させている人に出会うことがあります。そのとき、犬が、嬉しそうに、飼い主の前を軽快な足取りで尾っぽを振りながら歩いていることがあれば、飼い主が、首輪がちぎれんばかりに、いやがる犬を無理やりに引っ張るように連れて行くことがあります。
その犬が飼い主と違うことを考えていて、恐らく自分の考えを押し通したいのです。
しかし,結果的には、飼い主の力に負けて、いやいやながら、引きずっていかれて、形の上では、飼い主についていく結果になります。そのようなときの飼い主の困惑した顔が、まさに印象的であります。
主イエス様は、ご自身への服従を、強要なさいません。
あくまでも、私どもの側からの自発的な服従を期待し、待っていらっしゃるお方でございます。
しかしながらその際に、2つのことが鍵だ、こう仰っていらっしゃいます。
1つは、自分を捨てること。
もう一つは、自分の十字架を負うことです。
自分を捨てる、この言葉は、先ほど引用致しましたフィリップス訳の聖書では極めて印象的で、「自分自身に対するすべての権利を捨てて」というふうに訳されています。
こんなことはいまさら申し上げることはないのですけれども、人間は、ある意味で、本来的に自己中心的な生き物です。で、それに、神に委ね、神を信ずることを毛嫌いする生き物でございますから、自分を捨てるということは、そんなに簡単なことでも単純なことでもありません。それは、人間性質から考えてみますと、異質的なことと言うことが出来ましょう。
しかし,ある人が、「自分を捨てるというこの言葉は、神の国の門に掲げられている言葉である」と言ったように、神の国に入るための条件でありますけれども、同時に、真の意味で主の弟子であるための要件でもあります。
そしてこの「自分を捨てる」というこの言葉は、第一に、自分の言い分に固執しないことを意味しているように思われます。
例えば、神の言葉が「すべての人罪を犯したれば」といっているとき、それに異をとなえて、「自分は罪人などではない」と頑強に言い張るというようなことをやめることであります。
第一ヨハネの1章の9節に書いてございます、「自分の罪を言い表わすなら」の「言い表わす」という言葉は、原語のもともとの意味は「同じ事を言う」という意味だといわれます。
神のみことばが「罪人だ」と言っている事を素直を受け入れて、自分は主の前に「罪人です」と告白し、罪を悔い改めることによって、私たちは救いに預かりました。
その後の信仰生活においても、神のみことばが、これが真理だといっている事柄を退けて、自分の言い分、自分の考え方を押し通す、というようなことをしないこと、それが自分を捨てるということの意味する一つでございましょう。
お互いの人間関係においても、自分の意見に固執するあまりに物事が壊れてしまい、人間関係がだめになってしまうということがあることを、経験していると思います。信仰の世界においても、同様であります。
しかしながら、これは第二に、そしてこれが恐らく自分を捨てるということの中心的な意味だと思われますが、自分の主張、自分の願望、自分の計画、それを含めて、全てを主にささげることを意味します。お互いが、信仰生活を送っていますとき、どこかの一点において、主に対して全てをお献げいたします、ということを意味します。
しかしながら、これは、自分の主張や願望や計画を持ってはいけないということではありません。
信仰者は、自分の主張や願望や人生設計を持って一向差し支えありません。また、持つべきであります。
しかしながら、それが神のみこころと明らかに反する、神のみこころに、誰が考えてみても衝突すると考えたとき、自分の主張や願望や人生設計を取り下げることを意味します。
言葉を変えて申しますと、自分の意志を神の意志に従わせることであります。神のご意志を最優先にすることでございます。もっと端的に申しますと、いつでも神を第一にするという姿勢であります。
主イエス・キリストは、ご自身、神のみ姿であられる方なのに、神のあり方を伏せることが出来ないと考えないで、「みこころを行なうことを喜びとします」と仰って、ご自分を無にして、仕える者の姿をとってくださいました。
ですから、この地上に生活してらっしゃった主イエスのお姿は,自分を捨てることがどのようなことを意味するかということの実物教訓であります。
さらに、ゲツセマネの園でお祈りをなさいましたとき、十字架という苦い杯を目の前にして、お祈りをなさいましたとき、一方で、「この杯を私から取り去ってください」と祈りながら、他方で、「されど、わが心をなさんとあらで、みこころをなしたまえ」、こうお祈りをなさいました(マタイ 26:39)。
このように、キリストにとっては神のみこころが、いつでも第一でございました。
あのジョン・ウェスレーは、馬にまたがって英国じゅうを福音のために駆け巡った伝道者でございましたが、あるみぞれの降る寒い日に、部屋の中で赤々と燃えている暖炉に手をかざしながら、「自分もここでいつまでも暖まっていたい。だけど、福音を説教するために、予め定めされているところがあるから、そこに行くんだ」と言い置いて、マントを羽織って、よこなぐりのみぞれの寒さの中に出ていったといいます。彼は、召された者として、福音の奉仕を第一にした説教者でした。
もうひとつの鍵は、自分の十字架を負う、ということでございます。主イエス・キリストは、このことを別の機会にも何回か仰いました。
たとえば、マタイの福音書の10章の38節というところをご覧下さいますと、そこに書いてございます。
「自分の十字架を負って私について来ない者は、わたしにふさわしい者でありません。」
これは、キリストの公の生涯の前半のことであります。十二弟子たちを伝道旅行に派遣するための説教の中で言及された言葉であります。
キリストが仰るには、自分の十字架を負ってキリストについていくこと、それは、キリストにふさわしいあり方であります。
結婚式のとき、新婦がウエディングドレスを身に包んでいるとき、すぐ隣に立っている新郎が普段のジャージ姿だったら、「なんと不釣合いだ」と言わなければならないでしょう。誰が考えても、そんなものは不釣合いだというそしりをまぬかれることは出来ません。
信仰者が、自分の十字架を負ってキリストについていくということは、キリストにふさわしいあり方であります。もっとも,キリストの釣り合いの取れたありかたであります。
ルカの14章の27節をご覧下さいますと、そこにも、主イエス・キリストが同様のことを述べていらっしゃるのをみます。
ルカの14章の27節、
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
これはキリストの公の生涯の後半のことであります。ヘレヤ地方をエルサレムに向かって南下していくときに、道を歩きながら、大勢の群集に向かって仰った言葉の中で触れなさった言葉であります。
そして、この聖書のことばによれば、それは、キリストの弟子であるための条件であります。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできない」
そして今朝、私が目を留めています、マタイの福音書の16章の24節、もう1回、キリストは自分の十字架を負うということに触れてらっしゃいます。
そしてこれは、キリストの公の生涯の半ば頃のことでした。ピリポ・カイザリヤ地方に引っ込んで、弟子達に対して仰った言葉の中で触れなさったことであります。
そしてこの場所では、自分の十字架を負うということは、弟子としてキリストに従うための鍵である、こう仰ってらっしゃいます。
しかしながら、自分の十字架を負うというのは一体何を意味するのでしょう。何を総称して、自分の十字架を負うと言うのでしょう。
いろんな説明のし方があろうかと思いますけれども、これは、ちょうど、主イエス・キリストがゴルゴダの丘に引かれていくとき、十字架を背負っていらっしゃった時にたとえられます。
十字架を背負いながら道を歩いている人は、やがて自分が担いだように十字架に釘付けにされる人だ、ということを意味しております。
そして、自分の十字架を負うということは、その十字架に、自分自身を、不信仰な自分−神に反逆する性質を持った自分−を十字架に釘付けにする、ということを意味しています。
それで、『ウェスレアン聖書注解』はこの事を注釈して、
「これは、ローマ書の6章の6節がいっているように、自己に死ぬこと、ガラテヤ書の2章の20節が言っているように,自我に死ぬこと、キリストともに十字架につけること、さらには、自分の意志を神の意志に全面的に服従させること、である」
こう述べています。
主イエス・キリストがこの十字架の予言をなさったとき、すぐそばにおりましたペテロが主をいさめた事に対し、主はペテロに「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」,と言って譴責されました。
このことの中に表されているような神の働きを妨害する性質−反神的な性質−は,神の御業の進展を妨げます。
このような性質は、十字架にたく殺されなければなりません。
一方で、「自分を捨て」と仰ったキリストは、他方で、自分の十字架を負って、こうおっしゃいました。
以上2つのことは、事実上1つの事の両面ではないか、と思われます。自分を捨てるということなしに、自分を十字架につけるということは恐らく不可能です。
自分を捨てるということは、自分を十字架につけるということの結果だろうと考えることができる一面がございますから、自分を捨てることと、自分を十字架につけるということは、ほとんど同じ事の2つの面、こう考えてよろしいでしょう。
そして、このことを抜きにして、私どもは、真の意味で、主の弟子ではありえないし、また、主に従うことは出来ません。
もしそうでなかったら、結局、自分の願望や自分の計画や自分の利益を遂げるために主を巧みに利用する弟子,自分がいかに素晴らしいかを誇示するために主を利用する弟子に成り下がってしまうのではないでしょうか。
主イエス様は、「だれでも、わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い」、そして一番最後に、もう一回、「わたしについて来なさい」、こう仰いました。
ニュー・イングリッシュ・バイブルは、この「わたしについて来なさい」という言葉を、「私と一緒に来なさい」というふうに訳しています。大変興味深い訳だと思います。
自分を捨て、自分の十字架を負うということは、自分の心の中で比較的短い時間でなされることでありますけれども、キリストに従うということは、いろんなことが起こりうる日々のあゆみの中で、また、何が起こるかわからないと思われるような日々の歩みという長い時間の中でのことでございます。
その中には、キリストを信じる信仰の故に、あるいはキリストに最後までついていくのに、従っていこうとすることのゆえに、あるいは、痛みや辱めやそしりをうけるというようなことが含まれています。
場合によっては、キリストを信じる、キリストに従っていこうとすることのゆえに受ける不利益を甘受する、ということが含まれています。
で、これは、気分的には決していいものではありません。それは、気分的には決して楽しいものではありません。
しかしながら、そのようなときにも、「自分は主に従う」、こう決めたとおりに、主に対する約束と節操を曲げないで、主の助けを祈り求めながら、神の助けの恵みを信じて、キリストに従っていくものであります。
ヘブル書の13章の13節が「キリストのはずかしめを身に負って」と表現しているように、でございます。
「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして、わたしについて来なさい」
これこそが、25節と26節の中に示唆されておりますように、真のいのちの道であります。そして、これ以外に、本当の意味におけるいのちの道はありません。
そして,さらに、27節と28節が私どもに教えてくれるように、この道こそが、神の報いと神の報償を期待することができる道だということを、しっかりと心に刻んでおきたいと思います。
一見すると、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして、我についてきなさい」――非常に厳しい道だということが感じられるかもしれません。
しかしながら、それは、主の弟子にされたものにとって、十字架の主に従っていこうとする者にとって、それがいのちの道であり、それが神の報いと神の報償につながる道だ、ということを心に留めておきたいんです。
そして、迎えましたこの年、21世紀の一番最初の年でありますけれども、伝道者・信徒の区別なく、主を信じるすべての人々が、主イエスによって示された、この「自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストについていく」というスピリットと心構えを持って、ともに歩ませていただきたいと心から念願してやみません。
もう一度、24節のみことばに目を留めてください。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
お祈りをいたしましょう。
Messege by Rev.Noboru Kawamura, President of Immanuel General Mission
Transciribed and compiled by Kenji Otsuka,March 31st,2001