礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2001年4月1日
聖日礼拝説教
「苦しみの分担者」
竿代 照夫 牧師
第2テモテ1章1−14節

中心聖句

8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

(8節)


始めに:

 今日のメッセージは「苦しみをともにしてください。」ということです。月曜日から土曜日までたっぷりと苦しみを経験して、日曜日ぐらいはほっとしたいと考えている人の中には、「何で苦しみが?」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、よく内容を味わっていくと、この苦しみは祝福に至る苦しみであることをわかっていただけると思います。

1.年会を越えて教会の展望

 年会において今年も主都教会に任命を頂きました。私にとっては4年目の任命ですが、いつもと同じような任命だったという感想はなく、この教会に新しく任命をいただいた時のことを思い、また同時に今年がタバナクル問題の具体化をはじめとした非常に重要な年であることを意識しつつ、厳粛な気持ちで任命を受けました。

2.受難週も迎える節期を意識しつ

 こうした思い巡らしが来週の受難週への思い巡らしとも重なって、主の苦しみの分担というテーマを導かれました。

 パウロは、自分はキリストの苦しみにあずかることが自分の生き様だと考えていましたが、そのパウロが、弟子であるテモテに向かって、自分の苦しみの分担者となるようにと勧めているのが、冒頭の1章の8節です。

3.テモテ第二の背景

 このテモテ第二の手紙の背景と内容を簡単に概観してから、1章の8節に戻って来たいと思います。

1)この手紙は皇帝ネロによるキリスト教大迫害が始まったしばらく後のAD66年ごろに書かれました。その迫害はAD64年のローマの大火を契機として始まったのですが、その火をつけたのはネロ自身であったろうと言われています。非常に卑劣な男です。そして、その責任をクリスチャンに転嫁して一網打尽にすべく、迫害が始まったのです。そういう時代に書かれたのがこの手紙です。 

2)パウロもペテロもこの迫害によって牢屋に入れられました。パウロが以前に投獄されたときは釈放される見通しがあったのですが、その時とは違って今度の裁判の見通しは厳しく、パウロは死刑を覚悟していました。従って、獄中で書かれたこの手紙は、愛弟子であるテモテに対するパウロの遺言として書かれたものでした。

3)この中でパウロは、テモテに対して信仰と使命を受け継いで貰いたいことを強調しています。また、もう少し具体的な内容としては、牢獄での不自由な生活を助けて貰うために上着や書き物をするための用紙などの慰問物資をも依頼しています。

4.テキストの概観

 1章の1ー14節は、手紙の書き出しの部分ですが、次の様にまとめることが出来ましょう。

1−2 始めの挨拶

3−5 テモテの信仰の確認

 ここには祖母ロイス、母ユニケと女性ばかりが記されています。なぜ父親が出てこないのでしょうか。いつの時代も父親は影の薄いものですが、特にテモテの場合は祖母と母はユダヤ人でクリスチャンでしたが、父親はギリシャ人で、おそらくクリスチャンでは無かったので省略されていると思われます。

6−8 テモテの賜物がかきたてられ、有効に用いられるようにとの勧告

 「かきたてられる」とは、「ふいごで息を吹き込む」という意味の言葉が使われています。

9−10 福音のもたらす救い

11−12 使徒としての召命と迫害の覚悟

13−14 健全な言葉を保つべき勧告

となっています。

5.8節の内容

 まず、「自分(パウロ)を恥と思ってはならない、」とありますが、イエス・キリストを述べ伝える福音の仕事、また牢屋につながれている現在の立場、これらを恥としてはならないということです。

 次に「また、自分と共に苦しみを担って欲しい。」とありますが、福音のために私と苦しみをともにして欲しいということです。

 本日はこの節に焦点を当て、パウロの語ろうとした苦難について、三つの角度から学びたいと思います。

 1番目は苦難の内容、2番目は苦難の厳しさ、3番目は苦難の恵みということです。

 


A.苦難の内容−福音の為

1.苦難の種類

 私達の人生には大なり小なりいろいろな苦難というものがつきものです。その苦難にはいくつかの種類があります。

 例えばあまり一生懸命勉強しなかったので期末テストの成績が悪かったというような、いわゆる自分が蒔いた種の結果としてのものもあります。

 あるいは、自分は何も悪くはないのに摂理的に主が与えなさった苦難もあります。例えばヨブの場合がそうでした。彼は完全な人で、神を畏れ、家をきちんと守る人でしたが、とんでもない災難がふりかかって来ました。主は彼の信仰をテストし、鍛えるためにそのような苦難を与えなさったのです。

 けれども、パウロがここで言っているのは「福音の為の苦難」です。では福音の為の苦難とはどのようなものでしょうか。

2.福音のための苦難1−迫害・反対・辱め

 積極的に福音を述べ伝えることに伴う迫害、反対、辱め、落胆と言ったものが含まれます。

 私達は思想・信仰の自由という時代に生きていますので、あまりこういう経験をすることは無いと思います。せいぜいたまにひやかされるぐらいではないでしょうか。私が仙台の教会にいたときに、チラシを一生懸命配っていましたら、私をじっと見ていた小学生の男の子に、「おじさんひまだね。」と言われた時には少々むっとしましたが、せいぜいその程度でしょう。

 しかし、パウロはそれをもろに受けていました。受けていたどころか、その為に投獄され、裁判を受け、死刑を覚悟していました。生来おとなしく、臆病とも思えるテモテにとってこれは容易ならないことでした。そんなテモテにパウロは「時が良くても悪くても福音を述べ伝えることをやめないで欲しい。」と語っているのです。

3.福音のための苦難2−世間からの嘲笑、嫌がらせ

 更に、福音に従って生きようとすることから受ける世間からの嘲笑、嫌がらせ、つまはじきがこの中に含まれましょう。

 これは日本というほとんどの人がイエス様の福音を知らない社会に生きている私達がほとんど毎日のように経験しているものではないでしょうか。


B.苦難の厳しさ

1.パウロのとっての苦難の厳しさ

 福音のための苦難は自分の力で耐えられるような生やさしいものではありません。神の力によって、神の力を借りることなくしては、それに絶えることは難しいとパウロは語っています。

 パウロにとって、キリスト教に逆風が吹いていたこの時代に伝道するということは易しいことではありませんでした。今でこそパウロは新約聖書の中のヒーローであり、最大の宣教師という評価を受けていますが、当時の人々から見ると、わけのわからない新しい宗教の先生でしかなく、しかも牢屋に入れられてなんと惨めな事だろうというような評価しか受けていませんでした。

 そして彼の同僚だった人達もひとりひとりと彼の元を去っていきました。さらに彼と双璧をなしていたペテロさえも牢獄に入れられてしまっていました。こういう迫害の嵐の中で福音を宣べ伝えるということは、パウロにとって簡単なことではありませんでした。

2.苦難に耐える原動力

 ですからこそ、パウロはここでテモテに「神の力によって」と、自分自身の性格や頑張りだけではだめですよと語っているのです。

 特にテモテの性格を考えると、このことはもっと真実でした。彼はもともとナイーブで繊細な男であったようです。7節で「臆病の霊ではなく、…」とパウロが語っているのは、まさにテモテの性格を言い当てています。

 ですからこそ、自分自身の力ではなくて、神の力によって通過しなさいとパウロは語っているのです。

 では神の力はどのように現れるのでしょうか。彼が祈る事によって、神の御力に頼ることによって、神の恵みを期待することによって溢れてくる力が、苦難を通過する原動力になるとパウロは語っています。

 逆に自分は大丈夫と思う人ほど、ペテロのようにこけてしまうかも知れません。

 私達が肉の力で「頑張るぞ」と思っても、それは不可能なことなのです。


C.苦難の恵(分担する喜び)

1.スンカコスパスホー

 パウロはテモテに福音のために自分と一緒に苦しみを分担して欲しい、と言っています。

 ここで用いられているスンカコスパスホーという言葉は、スンは共に、カコスは悪い、パスホーは苦しむとか耐えると言う意味で、受難週の受難と同じ原語です。つまり「悪い種類の苦しみを共に耐える」と言う意味です。

2.パウロの孤独

 パウロはこの最後の手紙を書いた時、少し弱気になって、孤独にさいなまれていました。

 彼がどのように孤独であったかについて見てみましょう。まず1章の15節には、「あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。」とあります。伝道者の最期としては少し悲しいですね。さらに4章の9節にはあなたは、何とかして、早く私のところに来てください。とありパウロが寂しがっているのがわかります。さらに10節、「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、…」、14節、「銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。」とあります。11節に戻りますと、「ルカだけは私とともにおります。」とありますが、この厳しい状況の中で彼と共にあった人間はルカだけでした。

3.霊の父パウロと共にある光栄

 そのような厳しい状況にある彼から、その苦しみの片棒をかつぐよう期待をかけられるということは、素晴らしい特権ではないかと私は思います。

 パウロはテモテのことを弟子であるだけではなく、自分の子供であるといっています。

 私達が、厳しい状況にある人から頼りにされるとしたら、それはなんと素晴らしいことでしょう。「あんな人に言っても裏切られてしまうかな」と思われる事なく、困難にある時ほど一番の頼りとされることは、私達にとって素晴らしい恵みです。パウロはその特権をテモテに与えようとしたのです。

 私達は誰かが一番困った時に相談相手になれる人間でしょうか。あるいはそのような人から去ってしまうような人間でしょうか。そのようなときに「遠くからそっとお祈りしていますよ。」というのは良いセリフですが、それよりも近くに言って助けてあげることはもっと大切なことです。どうか私達は苦しみの中にある友人を助けるという恵みをもっと実行したいと思います。

 テモテはきっとそのことを実行したと思います。彼はこの手紙を受け取るとすぐに、沢山の慰問物資を持ってエペソからローマとんでいったと思います。

4.キリストの苦難に与る光栄

 単にお互いに助け合うということだけでなく、もっと素晴らしい恵みがこの中に秘められています。パウロは自分の生きがいをピリピ書の中で次のように語っています。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ2:10,11)

 パウロはこれが彼の人生目的であると語っています。彼はイエス様の苦しみを自分のものとしたい、またそのことによってイエス様の恵みと力を体験したいのだと語っています。

 さて、それではイエス様の苦しみとはどのようなものであったでしょうか。それは次の3つに分けることができると考えられます。

@ 精神的な苦しみ

 それは世から捨てられるという苦しみでした。これは非常に大きな苦しみです。

 それも悪人だと思う人から捨てられるのではなく、この人こそはと信頼していた人から捨てられると、人は大きな精神的な傷を受けるものです。イエス様が辛かったのは信頼していたユダに、そしてペテロに捨てられたことでしょう。イエス様がそのときに受けられた精神的な傷、そして愛して愛しぬいた人達から「十字架につけろ。」という叫びを聞かなければならなかった傷、これらは大変なものであったと思われます。

A 肉体的な苦しみ

 更にそれは、肉体の苦しみとその究極である死の苦しみでした。

 イエス様の十字架というのは肉体の痛みという点からも極限の痛みであったと思われます。死に伴う肉体的な痛みをできるだけ深く、できるだけ残酷にしたのが十字架という刑罰でした。生身の人間を串刺しにして、息絶えるまで放っておくというのはなんという恐ろしい刑罰でしょうか。

 何の罪もないイエス様がその刑罰を受けなさったのです。「私は渇く。」とイエス様はおっしゃったのですが、十字架の一番の辛さは渇きだったそうです。

B 霊的な苦しみ

 もう一つは霊的な苦しみでした。

 十字架にかけられるまでのイエス様は父なる神と切れる事のない素晴らしい関係を持ち、いつでも「父よ」と言ってお祈りし、応えられる関係にありました。

 けれども、十字架の上でイエス様は「我が神、我が神、何ぞ我を見捨てたまいぬ。」と語られました。父なる神は私達の罪を全部彼に負わせて、彼を見捨てなさったのです。父なる神との断絶ということが、彼の最大の苦痛であり、またそのことが私達に救いをもたらすきっかけとなったのです。

 それではパウロがそのキリストの苦しみに与ると言った内容を考えましょう。

 もちろんパウロは救い主ではありませんから、イエス様と同じ意味で罪の身代わりとしての苦しみを味わうと言っているわけではありません。罪からの贖いはキリストによって完成されているからです。

 彼の言っている苦しみは、イエス様が私達に残して下さった苦しみ、福音を宣べ伝え、教会を建て上げるための痛みと苦しみのことでした。それは、キリストの体である教会の為に、我が身をもってその欠けた所を補うことでした。そのことがコロサイ1章24節に記されています。

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)

 私達の教会には欠けたところがあると思いますか?多分沢山あるでしょう。その時にどういう態度をとるかによって、私達の魂のあり方がはかられるのです。教会の欠点を挙げたてるだけではイエス様を喜ばせることにはなりません。

 欠けたところに自分の身をあてはめて補うのがパウロの姿勢でした。そのことによってイエス様の苦しみを分担し、彼は命をはって伝道しましたが、そのことによって彼は何を獲得したのでしょうか。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。(第二コリント4:11)

 私達は主イエス様を観念として遠くにとらえていることはないでしょうか。主イエス様をもっと近く、もっと親しく、もっと内側にしっかりととらえようとするときに、彼の苦しみを共に担ってはいかがでしょうか。そうすると、主イエス様の十字架の痛みが少しわかるのではないでしょうか。

 この5月か6月に封切りされる「親分はイエス様」という映画は、もとやくざだった人達がイエス様の恵みにあずかるために、本当に十字架をかついで日本を縦断して歩くという物語だそうですが、私達は実際に十字架を担ぐ必要はありませんが、スピリットにおいて、十字架を共に担って歩むものとさせていただきたいと思います。


終わりに

 しめくくりに、受難週にあたって皆さんと具体的に考えたいことをいくつか述べたいと思います。

1.主イエスの苦しみをしのぶ

 まず最初に、この受難週の節季に、いずれかの福音書の十字架の物語をじっくりと読んで、イエスさまの生涯と十字架の苦しみの深さ、厳しさを思い巡らすことをお勧め致したます。

 あるいは「キリストの最期」などという本も教会の図書室にあります。

 どのような方法でも良いですから、この週に主イエス様の苦しみをしのぶ時を設けていただきたいと思います。

2.福音をのべ伝えるための一歩

 2番目には、私達が今与えられた環境に満足しないで、福音をのべ伝えるために一歩を踏み出してみましょう。

 親戚や友人を伝道会にお誘いするのもその一歩でしょう。そのことによって人に冷やかされることがあっても、主のためであれば喜んでさせていただく、そのような行動のステップを踏み出したいと思います。

3.主のために何ができるかを考え、行動する一年に

 最後に、この教会に与えられた1年のために、本日とりあげた第二テモテ1章の8節の「福音のために私と苦しみをともにしてください。」の「私」のところに私自身の名前を入れて、みなさんにお願いしたいと思います。私と共に苦しみを分担していただきたいのです。

 ケネディは大統領の就任演説の中で、「皆さんが何を国に求めるかが問題ではなく、皆さんが国に何をなすかが問題である。」と述べました。

 教会に来て何か恵みをいただくことばかりを求めていたのでは非常に自己中心的なクリスチャンになってしまいます。そうではなくて、既に私達に豊かな恵みを与えて下さっている主イエス様のために、またその体である教会のために、私は何をすることができるだろうかということを共に考え、行動する1年としていただきたいとお願いして、終わりたいと思います。

 お祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on April 7, 2001