礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年4月8日

棕櫚聖日に当たって

「今日、私と共にパラダイスに」

竿代 照夫 牧師

ルカ23章33ー43節

中心聖句

42 そして言った、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思いだしてください。」

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます。」

(42-43節)


始めに:

今日から今年の受難週に入ります。まず、皆さんで43節を読みましょう。

十字架の物語で印象的なものの一つが十字架上の強盗の救いですが、その救いの過程を見たいと思います。


A.強盗の罪と罰

1.罪

この二人については、マタイ、マルコ、ヨハネは「強盗」(レーステース、強奪する人)ルカは「犯罪人」(カクールゴス、悪を行うもの)と紹介しています。

罪状は分かりません。しかし、この「犯罪者」と言う内容は、ただの犯罪者ではなく、重大な政治犯のようなものをさします。

実際、この日準備されていた三本の中央にはバラバが付けられる筈でしたが、そのバラバについてマルコ15:7の記事を読むと、「暴動のとき人殺しをした暴徒たち」の首領でありました。

バラバは「隠れ無き」(エピセモス、札付きの)犯罪人でした。恐らく、十字架の二人はバラバの仲間と思われます。

これを綜合すると、彼等は単なる物とりの強盗ではなく、また単なる政治的な犯罪人でもなく、その双方を兼ね会わせたような種類の罪人であったと思われます。日本で言うなら丁度「石川五右衛門」の様な人物であったと思われます。

2.罰

彼等が付けられた十字架とは、人間の死を思いきり惨たらしく、長引かせる、しかも恥ずかしめに満ちた死刑の方法でした。おそらく人間が考えた最も残酷な刑罰の一つであると言えましょう。

十字状に組み合わせた木材に足を乗せる突起を加えただけの単純な構造でした。その木に手と足が釘付けられるのですが、その痛みとは並大抵のものではありませんでした。加えて出血に伴う渇きが襲ったそうです。その耐え難い痛みは継続し、三日に及ぶケースもあったそうです。

これは奴隷階級の強盗や殺人者に科せられた極刑であり、自由人には決して科せられないものでした。

この刑罰が神の子主イエスに加えられた事は本当に想像に余るものです。主イエスも「犯罪人」と呼ばれていることに留意する必要があります。


B.イエスに対する嘲笑

十字架の強盗共は始め、周りの者たちに付和雷同して主イエスを罵りました。

35節にイエスを十字架につけた宗教家達が「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言ったこと、36、37節では 兵士たちもイエスをあざけり「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った事が記されています。

マタイ、マルコの福音書には、この二人の強盗もその合唱に加わってイエスを罵ったと記しています。

マタイ27:44「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」と記されています。

マルコは同じ記事について、ののしりの言葉を積み上げた、と描写しています。おそらく十字架上の罪人のうち一人は「他人を救ったのなら自分を救って見ろ。そして俺達も救ってくれ。」と罵ったのではないでしょうか?これは主に対する痛烈な嘲笑であり、人間の罪深さを示しております。

しかし、もう一人の強盗はその態度を改め始めていました

おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

何が彼にこのようなことを言わせたのでしょうか。

彼は

1)イエスがバラバの身代わりであることを知っていました。

2)イエスが無実であることも知っていました。その清さを彼の態度でかんじました。

3)そのお方の態度の中に尋常でない優しさと気高さを感じ取りました。

34節に書かれております、「父よ彼等を赦し給え」という祈りの中にイザヤ書53:12の「彼は罪あるもののために取りなしをした」という預言が成就しましたが、この強盗も、キリストの大きな愛の心を感じたのです

4)人々の嘲笑的な呼びかけである「救い主」という呼称が、もしかしたら本当かもと思い始めていたのでしょう。

このような時に、もう一人の罪人が主イエスを蔑んだのを聞き、黙っていられなくなったのでしょう。


C.強盗の悔い改めと祈り

1.彼の認識

1)神は生きておられる。

おまえは神を恐れないのか。」打ち続く彼の痛みが、神の助けを求める気持ちを助長したように思われます。隣の強盗の「神を恐れない」物言いにかれは痛く心が傷つけられました。

2)神は正しいお方であり、正しい裁きを行いなさる。

この神への恐れが彼の心を捉えました。

3)自分達は罪人である。

4)しかも、当たり前の罪人でなく、恐ろしい罪人である。

当然の報いを受けているという認識を持ったことに、彼の純粋な悔い改めを見ます。

彼は罪を犯し、それに相当する正当な刑罰を受けていました。 それを明確な言葉をもって正直に告白し、その告白が彼に救いをもたらしました。

私達もそうですが、罪の深さが十字架に値する程までなのだという認識が欠けていると、その人の救いの確証が弱いものになってしまいます。

5)イエスは罪の無いお方である。

このイエスという人は他の人とは違う、とはっきり認めていました。

6)イエスは救い主である。

救い主という人々の嘲りの言葉は本当なんだ、少なくとも彼は天国に行くと言うことは認めました。

7)自分は天国に行くに相応しくない。

それが「覚えていて欲しい」というリクエストになりました。

2.彼のリクエスト

それは覚えていて欲しい、という実にシンプルで謙遜なものでした。

救って欲しい、という図々しいことはとても言えた義理ではない、と彼は思ったのです。本当に一番小さなリクエストでした。

この祈りは自分の義を誇っていたパリサイ人と対照的な祈りを捧げた取税人の祈り(ルカ17章)にも通じるものがあります。この取税人は「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」とだけ祈りました。主はこの取税人はパリサイ人よりも義とされて家に帰った、と評価されました。

ルカ書にはこのように当時蔑まれていた人々が、主イエスによって最も尊いものとして救われていく様を丁寧に拾い書きされています。実に暖かな福音書です。


D.主イエスの約束

まことに」ということばの後にはいつも大切なことが記されていますが、この約束にもこの言葉が加えられています。その内容を詳しく見て参りましょう。

1.あなたは(単数)

明確な個人性を指します。一人一人の信仰告白に従って、主のお約束を確保して下さいます。

残念ながら、悔い改めない強盗は含まれていませんでした。誰でもが天国に行けるという思想を聖書は教えていません。信じて悔い改める「あなた」が天国に入るのです。これは大変厳粛に受け止めるべき内容です。

2.今日

明確な日時、いつかという遠い将来ではなく、今、ということです。救いは即時的なものであり、中間的な煉獄で暫く清めの期間を経てではありません。

3.私と共に

明確な主体愛する主イエス様が個人的に私達と会って下さるのです。天国の素晴らしさは主イエスのご存在です。イエス様が天国を天国たらしめるのです。

この地上生涯に多くの涙と悲しみがあるでしょうが、主はその涙を悉くご自分の手で拭って下さいます。

4.パラダイスに

明確な行く先です。パラダイスとは、喜びと楽しみの満ちたガーデンのことです。

強盗の人生で犯してきた沢山の罪、過ち、その全てが全く赦されて、永遠の幸福の世界に導かれることが約束されました。

パラダイスとは、エデンの園のギリシャ語訳として創世記2:8に登場します。それは喜びと楽しみの象徴でした(創世記4:16、イザヤ37:12など)。この言葉はまた、その土地の豊穰さを意味していました。

新約聖書ではこの言葉が豊かな楽しみと喜びの場所を指すようになりました。元々この言葉はペルシャの語源から来ていて、単に園、ぶどう園をさすもの、また至福の世界を指すものでした。

主がここでパラダイスと言われたのは、この悔い改めた罪人が義人の魂の住まいへ直ちに携えられていく、そこにはいと高きお方の存在を喜ぶことが出来る、という意味においてでした。

黙示録2:7 「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」という言葉を参照下さい。

聖書は、来世について確信に満ちた声明をしています。来世は必ずある、それに備えなさい、と。


終りに:

私達もこの強盗に優れたものは何もありません。

確かに警察にご厄介になるような大きな犯罪は犯していないでしょうが、やっていることの本質からいえば強盗と同じです。

本当にへりくだって、主の十字架を深く見つめ、ただひたすらに主の恵みと憐れみを乞い求めましょう。

今日主イエスと共にパラダイスにあると言う確信があるでしょうか?これがあるか無いかは人生の一大事なのです。

終わりの時だけ良ければよい、と死ぬ前に救われればいいと考えている人もいるでしょう。しかし、人間いつ死ぬか判らないのです。また、主イエスと共にあるという確信が、生きているときに既に私たちを変え、周囲の方に福音のすばらしさを知らせていく恵みをもたらすのです。

この一週、是非その確信を自分のものいたしましょう。


Written by I. Saoshiro and Edited by K. Ohta on April.9, 2001