礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年4月29日

「彼らの働きをやめさせられない」

井川 正一郎 牧師

エズラ書5章1〜17節

中心聖句

5:5  しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。

(5節)


はじめに(時代背景)

 エズラ書の第5章、その第5節を読みます。

5:5 しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。

 旧約聖書、エズラ書をお開きしました。エズラ書は、律法学者であり、祭司でありますエズラが執筆したものと言われています。

 エズラ書は、バビロン捕囚解放後の出来事を記した書物です。特に「再建」をテーマにした書物であります。

 今日の中心箇所は、「この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった」であります。

 時代背景ですが、バビロンからエルサレムへの帰還が3回なされました。第1回目が、ゼルバベルの指導によって紀元前536年に、第2回目がエズラの指導によって紀元前458年に、それから、第3回目がネへミヤの指導によって紀元前445年になされました。

 帰還後の書物としては、エズラ書、ネヘミヤ書などがあります。エズラの書物には、1〜6章まではゼルバベルの時代のことが書かれてあり、7〜10章まではエズラの時代のことが書かれています。

 今日の第5章は、エズラが書いたものではありますが、もっと前のゼルバベルの時代のことを書いているのだと、心にとめていただいたらよろしいかと思います。

 このイスラエルに戻って来て、神殿を再建しようという時に、当時の支配をしていた国はペルシア帝国でありました。そして、今日の5章の時代は、ダリヨス1世(紀元前522〜486年)がペルシアの王でありました。

 エズラ書のテーマは先ほど述べましたように、「再建」がテーマとなっております。そして、1〜6章までは「神殿再建」がテーマで、7〜10章までは「宗教再建」「信仰再建」がテーマとなっております。


なぜ、「彼らの働きをやめさせることができなかった」のか

 クロス王の時代に始まった神殿再建の衝きは、妨害により、15年ほど中断しました。しかし、ダリヨス1世の即位により、再開のチャンスが与えられ、工事が再開しました。それを見た役人はこう尋ねたのです。

5:3 そのとき、川向こうの総督タテナイと、シュタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」

 ダリヨス王即位の頃、ペルシアでは地方の各地で小さな反乱がありました。城造りや城壁造り等には、それ相当の警戒をしていたから、役人の当然のつとめとして、確かめたのです。さらに、4節ではこう尋ねます。「この建物を建てている者の名は、何というのか」。すなわち、工事の有力者・工事責任者は誰かと尋ねているのです。

 第5節「この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった」とありますが、元々の意味(ニュアンス)は、「彼らをやめさせなかった」(原文)というものです。

 なぜ、やめさせなかったのでしょうか。その理由として、3つあげてみます。

 (1)役人らしく、王のきちんとした返書が来るまでは続けていてかまわないとした。(王のきちんとした返書がきたら、工事を差し止めるかも知れない、という立場)

 (2)神の目が注がれていたから。(神の守り、保護を意味する)

 (3)神の御旨に適った仕事であったから、すなわち、神のみわざであったから。

 で、今日は、この第3番目の理由をもうちょっと細かく、具体的に、その神様のみわざ、あるいは、神の御旨に適った仕事について、その特徴を3つ、5章5節を中心に、5章全体から、学んでみたいと導かれております。


神のみわざ(御業)の特徴

 神殿再建工事、すなわち、神様の御旨に適ったお仕事、神様のみわざの特徴が3つあります。

1.神のみわざは、周りに何らかの反応を与えるもの(波を起こすもの)

 「エルサレムにある神の宮を建て始めた」(2節)。神の宮の再建工事が始まりました。神のお仕事が始まると、色々な方面に波紋を起こすものです。まず神の預言者たちが助けてくれます。神のお仕事が始まると、それに味方し、応援・協力するものがしぱしば起こされてくるものです。その一例がここにあります。といっても、預言者が励ましたから、民が立ち上がったともいえるのですが…。

 また、神のお仕事が始まると、近隣、周辺の人々に何らかの反応・影轡を与えるものです。川向こうの人々が反応しました。

 神のみわざが始まると、何らかの反応・影響を与えるものです。あかしとなっていくものです。これが神のみわざの特徴の1つです。

 それを好意的に受けとる人もいます。逆に、反発する人もいます。賛成すべきか・反対すぺきか、どちらにとるべきか考える人もいます。神のみわざとは、周りの者に何らかの影響をもたらし、広がっていくのです。たとえ、妨害、妨げがあっても、止まることがあるように見えてもそれを乗り越え、広がっていくものです。

 逆にいうと、何にも反応も及ぱさないようなものは、神のみわざであるかどうか考える必要があります。

 たとえば、本当のメッセージとは、心を刺すものです。悔い改めに導き、信じさせ、実を結ばせていくものです。また逆にメッセージに反発し、石が飛ぴ、そんなメッセージはうそだ、作り話だと反発を買うのも本当のメッセージです。反対も賛成も何にも心に生じないメッセージはメッセージなのかどうか、チェックされる必要があります。

 善意であろうが、悪意であろうが、神のことば、神のみわざは周りに影響・反応を与えるものなのです。

 振り返れば、神学生1年のとき、高津教会の伝道会の際、会衆の心をぐっと捕らえて離さない挨拶・ご奉仕を心掛けよ、と教えられました。

2.神のみわざは完成まで進むもの

 必す実現するものです。色々な妨害、障害がありますが、それをクリヤーし、乗り越えていくものです。そして、完成に至るものなのです。やめさせることができない、とめることはできないのです。

 イザヤ書43章には、次のような聖言があります。

イザヤ43:13 「わたしが事をおこなえば、誰がそれをとどめることができようか」

3.神のみわざは、調べられても大丈夫

 神のみわざは、調べられ、チェックされます。「これはどういうものか。本当に神からのものなのか。人問わざではないか、いや、人間わざとも思えない。」

 人は調べます。ダリヨス王に確かな証拠があるか否かを問い合わせをしました。ユダヤの民はこういっているが、本当なのか。

 神のみわざ・神の御旨に適うものとは、その心・動機を調べても、プロセスを調べてみても誰がみても、純粋なのです。不純なもの、汚れ、偽りのないものなのです。神のわざとしか思えない。承認せざるを得ないのです。これは神の働きであると。このことを「神の栄光が表された」と言うのです。

 神の栄光が表されるためには、調べられても大丈夫であることが必要です。隠れた罪が潜んでいる時は、必ず明らかにされます。神のみわざでないことは、いつかは判明するものです。

 神のみわざか否か、チェックする必要があります。あるいは、他人から調べられることがあります。しかし、神の御旨に適うお仕事は完成に向かって進んでいくのです。いくら妨害があっても、また調べられても、神のみわざであるかぎり、それは進んでいくのです。健全な意味で「彼らの働きを止めさせることはできない」のです。

 話は少し脱線しますが、「親分はイエス様」という映画が近々公開されます。当教会も、協力教会となっております。皆さんには、当教会のメンバーが映画に出ていることもあり、是非、チケットを購入していただき、見て頂きたいと思っております。

 この「親分はイエス様」という映画、なぜ私が賛成するのか、その理由を、先日伝道委員会で話しをしたところ、どこかで話してもらいたい、という要望がありましたので、ここで述べさせていただきます。

「家族の者との話の中で頷きがありました。背中に刺青(いれずみ)をしたあの類いの人がクリスチャンになることは、並大抵のことではないのです。ある意昧で薬から救われること、また統一教会から脱出すると同じ、否、それ以上に難しいことではないでしょうか。

 あの類いの方々が救われるには、普通の教会ではなかなか難しいでしょう。相当の霊の働きが顕著でなくてはならないのです。聖霊の格段の働きがあってはじめて可能なのです。

 私たちの教会は良い意味で普通の教会です。普通の教会が悪いのでなく、それなりのご奉仕があります。しかし、あの類いの人たちを導くには、なかなかという点もあるのは事実です。あの類いの人たちが救われるには、ペンテコステがかるといっては語弊があるでしょうが、強烈なほどの霊の力が必要なのです。

 そういう教会・働く場所が必要です。神は、夫々に相応しく働かれます。ともかく、私たちの立場・働き・役割を正しく弁える必要はあるでしょうが、この類いの人たちの働きを無視したり、拒むことはいけないのではないでしょうか。」

 これが神の御心にかなう業ということです。「彼らの働きをやめさせることは出来ない」、「わたしが事をおこなえば、誰がそれをとどめることができようか


終わりに(今週の歩みへの適用)

 最後に、今週の歩みへの適用を2つ述べます。

@チェックしてみよう、調べてみよう

 「チェックして下さい。我らの携わっている仕事、言葉の使い方、思いが、御心にふさわしいかどうか。

A恐れず、進んでみよう

 「時間は要するかも知れない。しかし、御旨は必ずなる。


 「彼らも、我らの働きをとどめることは出来ない」、これが今日のメッセージです。

 ご一緒にお祈りしましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2001.4.30