聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
中心聖句
22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
(22節) |
始めに:
前回は14ー19節を中心に「行いの伴わない『信仰』の空しさ」を学びました。
本日は20から26節を中心に学びますが、14節から26節でヤコブが語っているのは、行いが全く伴わない信仰ではいけませんということただひとつです。教会に来て主を讃美しても、教会に来た時の会話や心の持ち方と日常生活との間にあまり大きな落差があるようではいけません。やはり、日常の会話やものの考え方、行動、商売のやり方などに信仰が生かるようでなくてはなりません。
本日は聖書の中で信仰が行いに現れた2人の人物を紹介しましょう。
A.イサクを捧げたアブラハム(21ー24節)
アブラハムについてヤコブが言おうとしていることは、イサクを奉げた行為によって信仰が完成されたということです。
21私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
22あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
23そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
24人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
1.アブラハムの生涯の主な節目
アブラハムの生涯の主な節目は以下の様な表に纏められしょう。
創世記 |
年 |
できごと |
信仰的意義 |
12 |
75 |
カラン出発とカナン到着 |
祝福の約束 |
15 |
80(?) |
約束の更新・確認 |
信仰義認 |
17 |
99 |
イサクの約束 |
完全への召し |
21 |
100 |
イサク誕生 |
約束の成就 |
22 |
120(?) |
イサク献納 |
信仰の完成 |
創世記15章は次の節目で、年齢は約80才でした。15章には以下のようにあります。
15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
ここでアブラハムは彼の年齢を考えると普通なら到底不可能と思われる神の約束を単純に信じ、神はその彼の信仰を義と認めたのです。義とはある基準に合格した印です。
しかししばらくして彼の信仰はゆらいでしまい、妻のサラの勧めもあって、めかけのハガイを通してイシュマエルという子供を産ませてしまいました。このことは現代の歴史にも関係しております。イシュマエルの子孫はアラブ民族であり、後に生まれたイサクの子孫はユダヤ民族です。アラブ民族とユダヤ民族の対立は現代世界における大きな問題となっております。
しかし神は彼の信仰を回復しようとして、彼が99才のときにあなたの妻のサラを通して子供を授けようと約束されました。そのときも彼は言葉を信じたのです。一方、妻のサラはまさかといって笑いました。
そして約束は成就し、21章にサラを通してイサクが生まれたことが記されています。
しかし22章ではそのイサクを奉げなさい、つまり殺して生贄にしなさいと命じられたのです。
以上がアブラハムの生涯の主な節目ですが、ここからわかるのはアブラハムは信仰の人でした。しかしその信仰は必ずしも一貫したものではなくて、やはりアップアンドダウンがあったということがわかります。
アップアンドダウンはありますが、ダウン・ダウン・ダウンではありません。アップ・ダウン・アップ・ダウン・アップと少しづつ上に向かっているのがわかります。そしてその最高峰がイサクを奉げた時であると覚えて下さい。
また、15章から22章の間に約40年のへだたりがあることも覚えておいて下さい。
2.パウロの唱える信仰義認
このアブラハムの生涯のうち、パウロは15章をとらえて、不可能と思われるものを信じた彼の単純な信仰からローマ人への手紙で以下のような結論を出しています。
4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
4:1 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ここでは働き、行いと対比して信仰が述べられています。アブラハムはそれに値しない弱いものであった、だからこそ神を信じる事しかできなかった。それによって神は合格の印を与えて下さったというのがパウロの強調点です。
3.ヤコブの唱える行為義認
ヤコブは同じところをパウロとは違うとらえ方をしています。表面だけ見ると相反しているかのように思われますが、よく読むとそうではないことがわかります。
ヤコブの手紙の2章の21節〜23節に戻りましょう。ヤコブは、創世記の15章と22章をとらえて、15章で始まった信仰が22章で行いを通して完成したと述べています。信仰は行いを通して現れ、行いを通して強くせられ、行いによって完成するものです。
私達の筋肉は使えば使うほど強くなり、役立つものになります。信仰を筋肉に例えますと、行いというのは運動です。運動を怠ってしまうと筋肉は衰えてしまうのです。私も毎朝の散歩を日課としておりますが、日常的に運動することは大切なことです。
信仰は行いを通して働くものです。アブラハムの場合はどうだったでしょうか。イサクを奉げたときだけではなく、カナンの地に行きなさいと示されたときから、アブラハムは神の導きに従ってすぐ行いに移しています。そしてその行いによって信仰を強めていったのです。
もちろんときどきは挫折しておかしな行動をとって、後退してしまったこともあります。
約束の地カナンでききんが起こった時、彼は草が沢山ありそうなエジプトに行ってしまいました。そのときに彼は自分の身を守るために、サラのことを妹と呼ぶことにしました。サラは彼の母違いの妹だったので、全くの嘘八百ではなくて嘘四百ぐらいだったのですが、半分は嘘でした。そんなグレーゾーンの中で生きていくのは社会生活では全く認めないわけには行かないでしょうが、限りなく黒に近いグレーというのはいかがなものでしょう。アブラハムはその誘惑に負けて嘘をつきましたが、やがて悔い改めて、もう一度立ちあがりました。
そのようなアップアンドダウンはあっても、彼は最終的に神に従う事を長い人生の中で学びとっていったのです。ですから、信仰は行いとともに働き、最後のテストの時に行いによって彼の信仰がむしろ強められたと言うことができるでしょう。
最後のテストとはイサクを神に奉げよということでした。神を愛するか、自分の子供を愛するかという選択を迫られたときに、自分の子供も目の中に入れても痛くないほどかわいかったにもかかわらず、躊躇無く「私は神を愛します。」と神を選択し、神に対する至高の愛を告白したのです。
もうひとつ彼にとって大きな問題は信仰のテストです。神はこのイサクを通して沢山の民族を増やすと約束されたのに、そのイサクを殺せというのですから神の矛盾に対して文句を言うことができたはずです。
でも彼はそうは言いませんでした。それは彼の信仰がそこでジャンプして、イサクを通して子孫を増やすという神の約束とイサクを殺せという命令がどちらも正しいのなら、イサクは殺されても必ず生き返るはずだと飛躍したのです。そしてその飛躍によって彼の信仰は完成したのです。
アブラハムの行いの結果はどうだったでしょう。
ヤコブの手紙2章23節でヤコブは、
2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
と語っています。
パウロは創世記15章をそのまま引用して彼が信仰によって義と認められた信仰の始まりを語っていますが、ヤコブはその信仰が22章で完成されたことを語っています。
パウロが唱えたのは人間の罪故の無能力、その人間が義とせられるのは贖いの故に罪の赦しを与えられて、それに基づいて神が私達を罪なき者とみなして下さるということです。
一方、ヤコブが唱えたのは信仰が行いに現れた、行いによって完成されたということです。
下の図は、信ずるという小さな心の営みが行いに現れると、信仰が強くなってもっと良い行いになる、もっと強い信仰になる・・・という増幅的な現象を表現しています。
ということは私達が教会に来た時には信仰を持っていても、社会に出た時、家庭に帰った時に全然違う原理に基づいて行動していたら全然成長しないということなののです。
社会にはいろいろな誘惑があります。そのような誘惑に会った時に少しぐらいならと言ってそれをもてあそぶことはないでしょうか。そのような時に、ポテパルの妻に上着をつかまれたときに躊躇なく上着を脱ぎ捨てて誘惑の場所から立ち去ったヨセフのように、決然と誘惑を断ちきるという行動に出たいものです。そのような行為によって信仰というのは強められていくものです。
あるいは、世の中のドロドロした人間関係に埋没して、人からいやみを言われたときに言い返すのではなく、「あなた方を呪う者のために祈れ」という聖書の言葉に従って信仰を働かせて、「神様どうぞあのどうしようもない部長を祝して下さい。」と祈ってみてはどうでしょうか。それによって急には状況は変わらないかもしれませんが、少なくとも私達の心のあり方は変わることでしょう。
そのような小さなところに信仰をあてはめて行動に移していくことよって、信仰は増して行くのです。そして最後には、自分の子供さえ奉げたアブラハムのように徹底した信仰になるのです。神様はアブラハムを本当の友と呼んでくださいました。
4.パウロの主張とヤコブの主張の比較
下の表はパウロとヤコブの主張を比較してみました。詳しくは説明致しませんが、概念としてつかんで下さい。
パウロ |
ヤコブ |
|
信仰 |
助けなき罪人が 救主にひたすらより頼む |
「神の存在の承認」と 「真実な献身」と二種 |
行い |
律法の厳密な遵守 |
犠牲的な愛の行動 |
義認 |
贖いの故に罪無きものとみなす (立場的) |
献身についての神の合格印 (実質的) |
パウロが行いによって救われないといったと言ったときの行いとは律法をきっちり守るという行いのことで、それによって人間が救われるわけでは無いと説いています。
一方、ヤコブの言っている行いは愛の行いの実践という意味の行いです。
同じ行いでもニュアンスが異なっています。
聖書を良く学べば学ぶほど、たとえ表面的には2人の人が対立しているように見えても、本当は神様がそれぞれにパウロにはパウロの理論的な面を、ヤコブにはヤコブの実践的な面を備えて下さっているということがわかるようになります。
B.イスラエルを助けたラハブ(25、26節)
25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。
26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
信仰が行いに現れた人の次の例はラハブです。
1.人物(ヨシュア2:1)
ラハブはイスラエルがカナンに入ったときに最初に占領した街で、イスラエルの中でも最古と言われる街であるエリコに住んでいた遊女です。遊女といっても旅館の経営者にあたる上の位の遊女でした。
2.信仰(ヨシュア2:10、11)
そのラハブがどういうわけか信仰を持ったのです。
イスラエル民族がエジプトから出て来て、その道中にあったシフォン、オグといった王様達が征服され、しかも最後の頼みであったヨルダン川が真っ二つに分かれてイスラエル民族が渡ってしまい目と鼻の先に来ているというニュースが毎日のように伝えられているときでした。
そのできごとを通して彼女は、「あなた方の神、主は上は天、下は地において神であられるからです。」という信仰を持っていたのです。
3.行動(ヨシュア2:4、15)
彼女がそういう信仰を持っていたところにイスラエルから使わされた二人のスパイが彼女の家に「かくまってくれ。」といってやって来たのです。彼女はすぐに事柄を悟って自分が信じていた信仰と二人のスパイを助けなければいけないという行動が結びついたのです。何故ならここに生ける神を信じている人達がいるのだから、私は命を棄ててもこれを助けなければならないと覚悟を決めたのです。そして本当にこの二人をかくまって、安全な場所に逃がしてあげました。
話しを聞くと簡単そうですが、仮に私達が第二次世界大戦中のドイツにいて、ヒットラーの迫害にあったユダヤ人がかくまってくれと助けを求めて来た時に私達はどういう行動をとるでしょうか。非常に難しい問題ですが、幸いなことに多くのクリスチャンが命を掛けてかくまった証を聞く事ができます。
私達は自分の身になったときにちょっと待ってといって逃げてしまわないでしょうか。ラハブはそれをせずに命を掛けて一肌脱いだのです。
4.結果(マタイ1:5)
その結果彼女と彼女の家族全員が救われました。
それだけでなく彼女はイスラエル占領軍のサルモンのお嫁さんになり、イエス様の先祖となったのです。なんんと素晴らしい信仰の勝利でしょうか。
私達の小さな愛の行いは、全部神様が覚えていて下さって、やがて豊かな報いとなって帰ってくることを覚えていただきたいと思います。
終わりに
1.信仰を働かせるチャンスを活かそう
私達には小さな信仰を働かせるチャンスが毎日やってまいります。それはスパイが家にやってきたり、子供を奉げなさいというショッキングな命令では無いかもしれませんが、神様が与えて下さる小さなチャンスを活かして信仰を成長させていただきたいと思います。
2.そのチャンスを作ろう
待っているだけではなくて、そのチャンスを積極的に作りたいと思います。
作るということは私達の証を通して福音をのべ伝えることです。それは私達の信仰を強める大きなチャンスとなります。
私は大学のころ戸別訪問をして福音をのべ伝える奉仕をしておりました。そのとき創価学会の人に「お若いのにキリスト教なんてかわいそうに…」と言われたり、議論をふっかけられたりしましたが、そういう経験を通して強められたと感じております。
お祈りいたします。
Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on May 13, 2001