礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年5月20日

ヤコブ書連講(11)

「舌の制御」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書3章1〜12節

中心聖句

3:2  私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

3:5  同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

3:11  泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

(2,5,11節)


はじめに

 ヤコブ書は、今日で第11回になりました。ヤコブ書の一番大切なテーマは、私たちが心に持っている信仰というものを、私たちの実際の生活の中に生かしていきましょう、実践をしていきましょう、ということであります。

 前回は「良き行いにあらわれる信仰」について実例からの学びをしました。アブラハムは「神の為に一番良い物を捧げることによって」信仰を告白しました。ラハブは「自分の命を賭けて神の民を守る行動で」信仰を告白しました。2:15〜16では、「乏しい状態の兄弟を助けることによって」信仰を告白すべき事を勧めています。

 今日の箇所ですが、私たちが心の内に信仰を持っているならば、私たちの舌(言葉)を正しくコントロールすることによって、そのことをあらわそうというのが、第3章1節から12節までのテーマであります。

 で、これは、積極的に良いことをしましょうというよりは、どちらかというと、言葉をコントロールしない人が多いので、警戒しましょう、ということであります。はっきり言えば、耳の痛いところであります。

 ですけれども、皆さん、耳が痛いかもしれませんが、今日は我慢して聞いていただきたいと思います。私も人にしゃべりながら、自分に向かってしゃべっているのであります。


A.舌を使う人間(教師)の危険(1節)

3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 この文節はそれ自体独立していますが、1:19の「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」という言葉の続きと見ることが出来ます。

 教えることはユダヤ人社会では高く評価され、尊敬されている仕事でした。ユダヤ人の中にはラビになって、多くの弟子を獲得したいという一般的な傾向がありました。クリスチャンとなったユダヤ人もその多くが教師になろうとしました。

 ヤコブは、「教えようと願うことは良い事だが、教師はその行動と言葉をもって他の人々の霊的な生活に影響を与えるので、大きな責任を担っている。だから軽々しく教師的な立場に立つな。」と警告しているのです。


B.舌をコントロールする人(2〜4節)

3:2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

3:3 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。

3:4 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。

1.舌をコントロールする人=完全

 2〜3節は、1節に記された警戒をどの様に実践すべきかの説明です。何をいうか、何を言うべきでないか、は双方とも重要です。適当な言葉とは、正しい言葉を正しいおりに語ることだけではなく、言うべきでない言葉を如何にコントロールできるかなのです。

 2節でヤコブは、「私たちはみな、多くの点で失敗をする」といって、クリスチャンは共通の弱さを持っているという謙った告白をしています。その弱さの中の弱さは「言葉における失敗」だというのです。逆に「言葉で失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」といいます。

 言葉の重要性については、主イエスもマタイ12:37で「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」と語っておられ、また、真っ直ぐな言葉について、主イエスは「だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイ5:37)と語っておられます。

2.コントロールの譬え

 舌と人格全体の関係をヤコブは二つの譬えで説明します。

 @くつわと馬

 馬を御するために、くつわは誠に小さな物体ですが、それを馬にかけ、しかるべき訓練を施すと、馬のからだ全体を引き回すことができます。同様に、舌をコントロール出来る人は全人格をコントロール出来る人と言っています。

 A梶と船

 この頃は地中海貿易の為に数百人を乗せる船が建造されていました。そこには櫓の形に似た梶が船尾に取り付けられていました。それによって、どんなに強い(荒っぽい)風に押されているときでも、パイロットの思いどおりの所へ持って行かれるのです。

 ヤコブの結論は、舌をコントロールできる人は本当に稀だという点にあります。それが5、6節で説明されます。


C.コントロールされない舌の被害(5〜6節)

3:5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

3:6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。

1.その譬え:小さな火と森

 制御されるべき舌は、実際は制御されず、困った存在であることが示されます。「舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇る(メガラウヘイ=boast great things)のです。」と。そして、それがもたらす被害の大きさが森と火との関係で譬えられます。「ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

 その火は不義の火です。「舌は火であり、不義の世界(コスモス=秩序、システム、人々の集まり、特に苦悩に満ちた世。舌=火、悪の世界=森)です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し」ます。

 ヤコブは制御されない舌の被害を燃え盛る火に譬えている所に注目しましょう。舌の邪悪さは、その根源を地獄にもっている、という点にあります。制御されない舌はとんでもない被害を齎します。サタンはその舌を用いて神の民を分断し、互いが互いを敵視するような方向に向けさせます。不用意で憎しみの含まれた言葉の齎す被害はとても大きいものです。というのは、言葉はたちまちのうちに世間を駆け巡り、だれも止めることが出来なくなるからです。

 ですから、言い間違ったら後でご免なさいを言えば良いだろうなどと考えて、軽率な言葉を発してはなりません。確かに謝れば赦して貰えるかも知れませんが、心の傷は残ってしまいます。何かを喋る前に、立ち止まって考えましょう、「言葉は火のようなものだ。」ということを。

 その火が燃やすのは「人生の車輪」です。人生が車輪と言う言葉で譬えられています。具体的に言えば、人生の車輪とは人生の様々な悲惨さを顕わします。人生の車輪に火をつけるということは、人間の苦しみを増し加えるということを意味しています。しかも地獄からの火を放つとは、こうした人生の悲惨さを悪魔的な方法で活発化させることです。言い替えれば、悪しき人々は、悪魔に刺激されて、その嘘やひぼうを通して相手に大きな重荷を負わせるのです。

 そのような火を付ける者の受ける刑罰は大きなものです。「ゲへナの火によって焼かれます。」

2.コントロールされない舌の例:噂話、陰謀、偽り、嘘、自慢話、・・・

 ここには直接記されていませんが、聖書全体を見ますと、噂話、揚げ足とり、陰謀、偽り、誇大報告、不平、媚びへつらい、嘘、自慢話等々を語らないようにという厳しい戒めがあります。残念ながらこうした初歩的なルールが充分守られていない所に教会内で多くの問題が発生する原因があるように思います。

 余談ですが、最近、「途上の我等」という伝道者向けの読み物の5月号の中に「率直さについて」という文章を書かせていただきましたので、それを抜き読みしたいと思います。

 「率直さについて」

箴言27:5 あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。

 私達の信仰生活の中で、一番難しく、しかし大切な事は、問題のある人と直面して率直に物語る事のように思います。実際、こうした率直な語り合いの不在が問題の拡大に繋がる様に思えます。

 私達は・・・問題を持っている人に向かって、あなたは問題です、などと率直に語ることは稀です。人間誰しも、表面上の平和を大切にする気持は同じです。

 しかし、私達が最高かつ絶対の規範と信じている聖書は、こうした「表面上の平和」よりも、愛の心をもって率直に語ることを勧めています。主イエスも(マタイ18:15〜17)パウロも(ガラテヤ6:1〜4)罪を犯した者に対して、一対一になって諫めるべき事を勧めています。効果が上がらなかったらどうするか、次の一手も示唆されています。この原則は、明らかな罪の場合に限定されず、過ち、誤解、善意同士であっても起きる衝突等全ての人間関係に適用されるべきものでしょう(マタイ5:23〜26参照)。

 率直な発言とは言っても、それは軽率さを意味しません(箴言12:18、15:1参照)。また、どう語るかという方法、どこまで語るかという限度に関する知恵も必要です。特に忠告の場合には、最大の柔和さと謙りが必要です。

 さて、率直な発言と裏腹なのが「蔭口」です。ウェスレーは「蔭口からの癒し」という説教で、蔭口とは「本人不在の場所でその人の悪しき点をあげつらうこと」と定義して、これを厳しく戒めています。さらに「伝道者12則」の中でも「みだりに人の悪事を言う事なかれ。」と語り、また、「確証なくして他人の悪事を信ずることなかれ。目撃するにあらざれば、容易にこれを信ずべからず。」と戒めています。

 仮に何かのはずみに蔭口を聞いてしまったらどうしましょうか。A氏からB氏についての悪口を聞いた場合には、聖書の原則を述べて、それはB氏に直接申し上げたらどうですか、とA氏に言うのが一番良い答えと思います。

 自分についての蔭口が報告されたらどうしましょうか。基本的には、どんな形の批判であれ、心を探って頂いて謙ることが大切でしょう。しかし、その批判が当たっていないときには、それによって不必要に心を乱されない信仰を持つ事がもっと大切でしょう。主は一切をご存知なのですから。

 自分に直言してくれる人が少ない場合は、別な反省が必要でしょう。直言されれば直ぐに怒ってしまうという印象を他人に与えているせいであるかも知れません。大切なのは、率直に自分の欠点を語ってくれるような友人を作ることでしょう。

3.言葉を出す前に三つのテスト:

 何事かを喋る前に、自問して見ましょう。

 1)それは本当ですか?

 2)それを話す必要がありますか?

 3)それを話すことは(その話の聞き手および対象となっている人に対して)親切ですか?

 ここで、コロサイ書4章6節を開いてみます。

コロサイ4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。


D.舌のコントロールは難しい(7〜8節)

3:7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。

3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

1.人類は生物をコントロール:

 7節は、地上の生物が人類によって制御されている事実を述べています。これは、舌の制御の難しさを強調するためのいわば枕詞です。

2.舌だけは別:その譬えとして

 「8 しかし、舌を制御することは、だれにも(ウーデイス=強い意味)できません。」とヤコブは非常に強い言葉でその不可能性強調します。本当に誰もコントロール出来ないのでしょうか。人間的には無理です。自分自身の力も虚しいものですし、まして、他人がコントロールすることも不可能です。出来るとすれば唯一、神ご自身とその恵みのみです。

 ヤコブは、その不可能性を、また二つの譬えで描写します。

 一つの譬えは元気の良い「腕白坊主」です。「それは少しもじっとしていない悪」といいます。

 もう1つ譬えは「蛇の毒」です。じっとしていないだけではなく「死の毒に満ちて」いると、ヤコブは言います。これは、丁度蛇の毒の様なものです。その歯で人を噛むとき毒を放出するように、人間の悪しき言葉、ひぼう、中傷、陰口、ひそひそ話、噂話を通して人を傷つける害毒が流されていくのです。


E.心と舌とは同根(9〜12節):心の泉を潔めなさい

3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

3:11 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

3:12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。

 さあ、今日は時間の関係で、ここで止めたいと思います。この箇所は次の時にとっておきます。


終わりに

 私たちがここまでお話をするとある人はこういう印象を持つでしょう。「そうか、舌の制御というのは、大切なんだ。だから、言葉を丁寧にしよう、人を傷つけないようにしよう、悪い口を出さないようにしよう、・・、黙って、黙って、静かに、・・。」

 しかし、今日のメッセージが終わって、それが結論だと思ったら間違いです。言葉は丁寧でも、意地悪く、人を傷つけることだってあるんです。そうではないんです。

 ヤコブが言おうとしているのは、言葉使いを丁寧にしようということではなくて、言葉の元にあるところの心の泉をきれいなものにしましょう、ということなんです。

 1つの泉から、苦い水と甘い水が出て来ることはないでしょう。そんな不思議なことがあってはならないのです。そうであるならば、甘い水が出て来るような心の泉に変えていただきましょう

 私たちの心からの讃美と感謝と満足と神をほめ称えることと、人を愛すること、その心によって私たちが占領されている時のみ、私たちは良い言葉を話すことが出来るんです。

 そのことを私たちの祈りとしながら、詩篇の第19篇の14節を読んで、お祈りをしたいと思います。

詩篇19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

 「私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に」とは、誰の前でしょうか?私たちの心の奥底までも見ておられる、神の前に、です。

 神に喜ばれる、透き通った心であるように。私の力ではない、もって生まれた性質ではない、私たちを潔め、贖ってくださる主が、どうぞ、そのことをなして下さい。

 ご一緒に、お祈り致しましょう。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2001.5.20