礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2001年6月3日
召天者記念礼拝に因み
「永遠に主の家に」
竿代 照夫 牧師
詩篇23篇1-6節
中心聖句
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 (1,6節) |
はじめに
年に一度の召天者記念礼拝が巡ってきました。来年からは、キリストの復活されたイースターの前後(4月第三の日曜日)に行うことにしますので、6月に行うのは今日が最後となります。
この礼拝を守る季節は変わりますが、趣旨は変わりません。召天者記念礼拝を守るのは、地上の戦いを終えて天に帰られた先輩達の信仰と生活を偲び、私達の天国への望みを新しくして頂くことを目的としています。
今日のテキストに詩篇23篇を選びました。幾つかの理由があります。この詩篇では、信仰をもった人間の一生が実に麗しい絵として描かれているからです。また、この詩篇は聖書の中でも最も有名な箇所の一つであり、多くの人の愛唱句でもあります。
さらに、私達の教団の創立者である蔦田二雄師が殊の外愛唱された詩篇でもあります。北浦和に神学院があったこと、その校舎の向かいのカマボコ型の昔の兵舎、アメリカ軍が使っていたものだと思うんですけれど、白いペンキが塗られて、屋根の端から端まで、エホバは我が牧者なり、我乏しきことあらじ、と大書されていたのを懐かしく思い出します。
さて、この詩篇は、表題にありますように、ダビデという人物が作った歌です。ダビデは、今から三千年前に生きた人です。
ダビデは自分自身が羊飼いとしての少年時代を過ごし、羊を飼うという仕事に伴う喜びや苦労を知り尽くしていました。青年時代から軍人となりその頭角を現わしましたが、そのことの故に王様から嫉妬され、迫害され、命さえも狙われて、外国での逃亡生活を送りました。30過ぎでやっとイスラエルの王様に選ばれ、イスラエル王国繁栄の基礎を築くのですが、それとても決して平坦な道ではありませんでした。
そんな厳しい人生を辿りながら、作った歌がこの23篇なのです。自分が羊飼いとして羊達を細やかな気遣いをもって面倒を見たように、いや、それ以上に細やかな気遣いをもって面倒を見て下さったのが神なる主であったのだ、という誠に実感のこもった歌なのです。
ここで描かれている神は、1〜4節までは羊飼いである神、5、6節は私たちをもてなすご主人である神の二つの絵で成り立っています。
それで今日は、この有名な詩篇23篇を、皆さんと共に心ばかり味合わせていただきたいと思いまして、この詩篇を選んだわけであります。
A.羊飼いである主
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
主の与えて下さるものを以下の7つに纏めることができるでしょう。
1.親しい顧み(1節a)
ここで最初に主が「私の羊飼い」と歌われています。「私たちの羊飼い」とは言っておりません。通常、羊飼いは沢山の羊を養うものですが、ダビデは私は多くの羊の中の一頭ではなく、主が個人的な関心と顧みと世話をして下さっていると感じていました。
そうです。私達ひとりひとりも、神は私だけの神であるような親しさをもって近づくことができるし、神もまたその様なものとして、私達一人、一人を扱って下さいます。この朝、皆さんは、神を私の羊飼いと呼ぶことが出来るでしょうか。
また、羊と羊飼いの関係は、どこかで「私は羊飼いのものになった」という合意が必要なのです。「私はあなたを救い主として受け入れました。よろしくお願いします。」という約束事があって、「主は私の羊飼い」と言うことが出来たのです。
2.豊かな供給(1節b)
「私は、乏しいことがありません。」これを歌ったダビデは、一度も飢えや寒さや乏しさを感じなかったかというとその逆で、その人生は苦しみや戦いの連続でした。
そんなダビデが「乏しいことがない」というのは「武士は喰わねど高楊枝」という強がりではなくして、神は偕にいてくださる、神は世界中の富を所有しておられる、このお方が私達のすべての必要を満たして下さるという信仰があったからであり、その信仰に答えて、神がそのおりおりに必要なものを備えて下さったからです。
今日私達が記念している兄弟姉妹達も、この神を捉えて、感謝と勝利の地上生活を送られ、「主は私の羊飼いです、私は乏しいことがありませんでした」という告白をもって、天に帰られたことと信じております。
3.満ち足りた憩い(2節)
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
緑の牧場は豊かな食事を示します。特に原語では柔らかい若草の牧場を示しています。堅い、枯れそうな草ではなく、羊にとっては大変なごちそうです。そしてそれに満ち足りて昼寝をしている羊(羊は余程満足しないと座る姿勢と取らないそうです)が描かれています。これは満ち足りた羊の姿です。
いこいの水は、緩やかな川の流れの傍での休息を現わしています。これは文字通りには、深い水の所、激しい流れではない、安全な静かな場所を指しています。イスラエルでは滅多にこんな場所はありませんでしたから、憩いの水は特別な秘密の場所だったのでしょう。
4.魂の活力(3節a)
「主は私のたましいを生き返らせ・・・」。回復という思想です。病気やその他の環境的な原因で、疲れてしまった羊をその顧みによって元気づけるように、私達の意気消沈した魂をリフレッシュして下さるのです。
この場合にはもっと霊的な意味での魂の回復、つまり滅びの中からの回復を意味していましょう。それは、次の句によって繋げられます。
5.正しい導き(3節b)
「御名のために、私を義の道に導かれます。」義の道に導くとは、単に正しいことをしなさいと教えるだけではなく、その義を行わしめる力を与えての導きです。信仰者が正しくあることは、義なる神の栄を顕わすことにもなるからです。
6.絶えざる励まし(4節a)
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」
イスラエルには、「死の陰の谷」と呼ばれる切り立った岩肌に沿った、歩行困難な道がありました。一列で歩くのがやっとという細い道です。しかもそこは昼尚暗い谷間でした。転落の危険、暗さ、猛獣の恐ろしさが付き物でした。
そういう道であっても私は恐れないと言っているのです。なぜでしょうか。あなたが私とともにおられるからです。主が私たちの先頭に立って道を歩んでいて下さるからです。
その様な道を歩くときも、羊飼いは先頭に立って群れを導きました。
同様に私達の人生にも「死の陰」の様な谷を通ることがあります。人々から誤解をされて涙する時があるかも知れない。事業がうまくいかなくて、全部持っている物を失ってしまうことがあるかも知れない。あるいは、自分は健康だけが取り柄だと思っていたのに、あなたは○○病ですと宣告されてしまうかも知れない。それが私たちの「死の陰の谷」です。
けれども、そのような「死の陰の谷を歩くことがあっても」と書いてあるんです。どうぞ、間違わないで下さい。信仰を持つと、クリスチャンになると、そんな道は一つもなくて、順風満帆、めでたし、めでたし、・・、そうではないんです。けれども、主がともにいて下さる、支えて下さるのです。
7.力強い守り(4節b)
「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」鞭とあるのは、むしろ杖の先の曲がった部分と訳す方が良いようです。これをもって、弱ったものを支え、藪にかかった羊を助け出し、敵に対しては武器となって、羊を守るのです。ここに羊の安心と慰めがあります。
ここで私はひとつの詩を紹介したいのであります。有名な詩であります。「あしあと」という詩なんです。
これを創った人はマーガレット・フィッシュバック・パワーズさんという人です。長い間、この詩は有名だったんですけれども、作者不明でありました。それほど彼女は自分の人生に傷ついていて、自分の名前を公表する気にはならないほどだったのです。
「あしあと」 (By Margaret Fishback Powers)ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、わたしのすべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生でいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、
あたたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
主は私たちと共にいて下さるだけではなくして、私たちを背負って、助けて下さるお方です。
さあ、今度はもう一つのシーンに移りたいと思います。
B.私たちをもてなす、ご主人である主
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
1.敵の面前での高揚(5節)
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」
ここで譬えががらりと変わって、野外ピクニックでご馳走をして下さる主人が登場します。このピクニックは敵の面前で行われています。敵が何とかして詩人をおとしめ、滅ぼそうと画策しているその只中で、主はこの作者に栄光を与え、これ以上無い程までのもてなしをしてくださいます。
主のお働きの素晴しさを感じます。油とは、香の高いローションのようなもので、宴会の始めに当たって、ホストが賓客に注ぐものでした。杯も、溢れるばかりに注ぐのが彼等の習慣でした。
1〜4節までの牧者なる主は、必要を満たして下さる神として描かれていましたが、ここでは必要を越えて私達を高め、栄誉を与えて下さるお方として描かれています。実際ダビデの生涯ではこの様な勝利が次々と与えられました。
2.生涯続く祝福(6節a)
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」
追う(ラダフ)という表現は、狩りのイメージで、猟犬が兎をしつこく追いかける姿を彷彿とさせます。現代で言えば、コンピュータで標的を追いかけるミサイルのようなものでしょうか。
それと同じように、神の恵みと慈しみは私達を追いかけ続けるのです。普通私達はそれらのものを追いかけるのですが、主も又、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)と真に求めるべき内容を示唆しておられます。祝福は後から着いて来るものなのです。
ダビデは今の生活で主の祝福を充分味わっていました。ですから、この変わらない主は一生涯祝福をもって追いかけて下さると信じ切ることが出来たのです。
3.永遠まで続く祝福(6節b)
「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」いつまでもとは、文字どおりには「日々の長さの間」ですが、永遠的な時間を意味しています。
主の家に住むとは、神との近しい交わりの生活のことで、神の家としての神殿に住むこと、今の言葉で言えば教会という建物に来ること、また住むことに限定されていません。そしてその様な交わりは、現世で味わえるだけでなく、来るべき世ではもっと近しいものとして経験できるのです。なぜなら神は永遠にいまし、変わらないお方だからです。
キリストは言われました「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:2〜4)
ダビデの場合には、漠然とした希望にしか過ぎなかったかも知れませんが、その天の父の家はキリストによってはっきりと示され、そこに至る道も備えられました。
終りに
1.今日記念する召天者のすべては、この牧者なる神、もてなし手である神を生前経験し、その心において豊かな人生を送った方々でした。そしてその豊かな人生の延長として、天にある更に豊かな神の家に今憩っておられます。
2.私達が今この牧者である主を見い出し、彼と共に歩み、彼の家に共にすみ、更に、先だって行った方々と手に手を取って共に喜び楽しむ永遠の世界が来ることを待ち望みたいと思います。第1節の言葉に戻りましょう。「主は私の羊飼い。」と今日、確信をもって個人的に言いうる為に、キリストを主と受け入れて頂きたいのです。
皆様の上に豊かな祝福をお祈り致します。
Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2001.6.3