礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年6月17日

ヤコブ書連講〔12〕

「神をほめたたえる舌」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書3章9-18節

中心聖句

9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

(10節)


始めに:

 今日は小さなエピソードからお話ししたいと思います。ン?十年前に私達が仙台におりましたころ、近くに大学の付属幼稚園がありまして、別にエリートを目指したわけではなくて、家から近くで安かったので入れたらと思いまして、私の子供の一人が面接試験を受けました。試験の中で出された問題は、「お目目は何をするところ?」、「お耳は何をするところ?」といったもので、その辺まではうちの子供もうまく答えられたのですが、「お口は何をするところ?という問いに対して、彼は何と「きくところ」と答えてしまったのです。本人は真面目ですが、あっけに取られたのは面接の先生で、赤面したのは両親でした。私の「そんな生意気な口をきくんじゃない。」という口癖が彼の答えを生んだことに気がついたからです。そのせいかどうか知りませんが試験には落ちました。(笑)

 このように私達の器官はそれぞれに目的をもって作られておりますが、では私達の「」は何をするところ?との問いに皆さんは何と答えるでしょうか?本日はその答えを聖書の中から見出したいと思います。

 ヤコブ書の3章から、前回は1節から8節に焦点をあてて、人間の舌がいかにコントロールされにくいものか、また特にコントロールされない舌がどんなに大きな被害をもたらすものかを警戒として学びました(5、6節)。

 今日は9節から12節のあたりに焦点をあてて、舌はどのように用いられるべきかということについて積極的に学びたいと思います。

 


A.相反する舌の利用(9節、10節)

9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

 ここでは舌の2つの使用方法とその実際について述べられています。

1.讃美をする舌

 一つは「神を讃美する舌」ということで、これは神が私達を造って下さった目的にかなうものです。子供の讃美歌にも、「けさも私の小さい口よ、主のみ恵をほめたたえよ」とあります。今日歌いました、「言葉の限りに歌わまほし」の讃美の原詩は「, for a thousand tongues to sing...」(私に千の舌があったら、その全部で神を誉め称えよう)でした。私達の舌は神を誉め称えるためにこそ造られているのです。

 讃美の対象者は神ご自身です。神を讃美することは造られた者の特権であり、当然の義務であり、喜びであります。神は讃美に値するお方であり、私達の口も、いや、存在そのものも、神を讃美する器です。

 人間だけではなく、詩篇148篇を見ると、日も月も星も、み使いも、雪も、川も、淵も、鳥も獣も、全ての物が主を讃美しています。それこそが宇宙大のシンフォニーです。そして人間の舌は、シンフォニーの第1バイオリンのように、一番大切な旋律を奏でるのです。

2.呪いに誤用されている舌

 ところが、人間の悪い所は、その同じ舌をもって、神をかたどってつくられた他の人間を呪うところにあります。これは、悲しいけれども現実ではないでしょうか。

 むかし、あるラビが弟子に向かって、「市場に行って一番良い食べ物を買って来なさい」と命じました所、その弟子は肉屋に行ってタン(舌)を買って来ました。別な日に、そのラビが、「今度は一番悪い食べ物を買って来なさい」と命じました。弟子は同じ肉屋に行って同じタン(舌)を買って来ました。ラビが「何で同じものを?」と問いただしたところ、その弟子は、「舌は素晴らしくよい働きをすることもあり、非常に破壊的な働きもするものです。」と答えたそうです。

 さて、人を呪うとはどういうことでしょうか。狭い意味では、ある特定の他人の不幸を熱心に祈ることです。アフリカでは人々は呪いを非常に恐れていまして、呪われたが最後、自分の運命は大きく変えられてしまうということを恐れているのです。アフリカにはお金をもらって人を呪う祈祷師がいます。そして、呪われた人には、心理的効果なのでしょうか、何故か悪い事が起こるのです。

 そのように、悪意を込めて他人の不幸を祈るという狭い意味の呪いだけではなく、ここでは、人をけなす言葉、揚げ足取り、陰口、うわさ話、一切が含まれていると見ることができます。ヤコブの警告は、主イエスがマタイ5:22で「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と語っておられる精神に沿ったものです。ヤコブ書の6節にも、舌がゲヘナヤの火で焼かれるということが書かれています。ヤコブはイエス様の弟で、イエス様の説教を沢山聞いていて、それがヤコブ書に沢山反映さていますが、これもその一つです。ヤコブはイエス様の説教をもとにして、「ゲヘナの火で焼かれるのは舌」と語っているのです。

 その一番の問題は、「神の造りなさった」人を呪うと言うことです。今マスコミなどで流行っているのは、「OO叩き」という現象です。政治家、役人、芸能人、スポーツ選手、ともかく目立った人で何か小さな失敗をしたり、欠点があったりすると、マスコミが総動員でその人を叩く現象があります。その時の言葉遣いはこれほど徹底的に叩いても良いのかと思えるようなどぎついものがあります。どうかするとクリスチャンまでもそれに影響されて、他人を叩くような言葉遣いをしてしまいます。

 そこで忘れられている点は、そのたたかれている人も神の創造になる人なのだ、ということです。ある自動車の欠陥を論じることは、その自動車メーカーを非難することですね。

 丁度同じように、ある人間を非難することは、その人間のメーカーである神を非難することなのです。この事を深刻に考えたことがありますか。神を賛美している舌が、その賛美の対象である神が創りなさった人間をけなしているのは、全くの自己矛盾です。この矛盾の深刻さを私達クリスチャンはどれだけ本当に考えたことがあるでしょうか。考えたならば、もう少しクリスチャン世界の会話が変わってくるように思うのですが如何がでしょうか。

 頭の良い人はこう反論するでしょう。確かに人間を造られたのは神だ、しかし人間は罪を犯し、神の恵からそれた、堕落した、私が叩くのはその罪だ、と。それは一面の真理です。確かに人間は神に創られたままの状態ではなくて、そこから墜ちてしまったものです。

 けれども尚、「呪う」のは正しくありません。その理由は、どんな堕落した人間でも、神の像の一部分を持っていると言う事実です。そして同時に、仮にどんなに堕落していても、神の恵みによって回復される可能性があるという希望です。その兄弟、姉妹の為にはキリストが代わって死んで下さったほどの愛が注がれているのです(第一コリント8:11)。主がそれほどまでに愛して下さっている人を、私達が呪う権利はありません。

 それでは私達は全くのお人好しになって、どんな悪をも許容し、どんな人をも非難せず、いつもニコニコ神を讃美していれば良いのでしょうか。それは可能でしょうか、また、正しいことでしょうか。私はそうは思いません。いつもニコニコ神を讃美し、とはいかないでしょう。正義の故に厳しく批判しなければならない場合もあります。それは正しい事です。けれども、私達がその領分を超えて、メーカーである神様をののしるようなやり方はしてはならないのです。

 仮に私達がそのような悪に遭遇したとしても、主が摂理をもってその人をおきなさったということを信じて、神を讃美することはできないでしょうか。それは可能です。

 あなたがたのまわりには、こんな人が側にいるから私の人生が暗くなるのだというような人がいないでしょうか。神様は私達の人格を鍛えるために、難しいと思われる人をわざわざ、私達のそばにおきなさるお方です。あの上司、あの部下さえいなければ、と思う前に、私達のある部分を鍛えるために主はそういう人を置きなさったのだ、神は決して無駄な事はなさらない、と考えて主を賛美することは可能です。そうするとあなたの心を暗くしている部分が小さくなって、呪の変わりに賛美と感謝が溢れて来ます。

 それだけではなく、イエス様が「あなた方を迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。」(ローマ12:14)とおっしゃったように、どうかいやだと思う人のためにこそ、神の祝福を祈ってください。それによって私達の心にどんなに大きな勝利と祝福が満ち溢れることでしょうか。

 少し脱線してしまいました。このヤコブの書の流れに戻ります。私達の舌がある時には賛美に、別な時には呪に使われているという事実が9、10節前半の強調でした。

 


B.大いなる不思議(10節bー12節)

10b 私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

11 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。

1.舌の二重性は「あってはならないこと」

 さて、その讃美と呪いが同じ舌でなされるのは「あってはならない」ことである、とヤコブは語ります。あってはならない、とは「実際に起きる筈がない」いうことなのか、「実際には起きるけれども、それは正しくない」ということなのでしょうか。次に示される三つの例からは「あるはずがない」という意味に用いられているようです。

2.自然界の法則に反する:その実例

1)甘い水と苦い水を出す泉(11節):それはあり得ません。苦い水は、出エジプトの民が飲めなかったメラの水を思い出させます(出エジプト15:23)。

2)無花果(いちじく)、葡萄、オリーブの混同(12節a):無花果の木にオリーブの実、葡萄の木に無花果の実、これもあり得ません。もちろん最近はバイオテクノロジーの進歩によって、トマトの木にナスがなっても皆さんはあまり驚かないかもしれませんが。このたとえも主イエスの教えの反映と言えます。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」(マタイ7:16)

3)塩水と甘い水(12節b):塩辛い海(この場合は死海を想定しています)に甘い水が湧く事もあり得ません。

 この三つの例は皆、到底起こり得ない自然現象を示しています。その意味では、前の問いに対する答えは、舌の相反する使用は有りえない、というのがこの結論です。

3.舌の不思議

 ところがです。舌の問題に戻って考えると、起こり得ない筈の現象が起きている、これこそ七不思議以上の不思議だとヤコブは語っているように見えます。自然の法則に全く反した行動を取る矛盾に満ちた存在、それが悲しいけれど人間の現実です。日曜日の会話と、月曜日から土曜日までの会話が余りにも差がありすぎて、どうして同じ人間からこんな対照的な言葉が出てくるだろうかとびっくりすることが有りうるのです。

4.何故あってはならないか

 いままでのところをまとめて、何故そのようなことがあってはならないかについて、述べたいと思います。

1)ひとつの理由は自己矛盾が起きているということです。これは人間の人格にとって正しいことではありません。

2)神様が非常に悲しみなさるということです。私達が人をののしったり、けちをつけたりするたびに神様は非常に心を痛めなさるのです。

3)それは大きな裁きを受けることです。「ゲヘナの火に焼かれる」と書いてあるとおりです。これを文字通り受けとめるなら私達は何百回ゲヘナの火に入らねばならないことでしょうか。

4)それは対象となる人を深く傷つけるということです。本人がいない場所で言ったときでも、それはいつしか本人に伝わって、その人を深く傷つけるんどです。


C.問題の原因と解決(13−18節)

 それでは、あってはならないのだからやめましょうと言って、事が済まないのが人間です。どうしたらそれが解決するかについては13節〜18節に「上からの知恵」ということが述べられています。これにつきましては、来週詳しく学びたいと思いますので、本日は結論だけ述べます。

13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。

14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。

17 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

1.原因:心の二重性

 人間の心の中に二重的な性格があるということを学ぶことが最初のステップです。

 そのことが示唆されているのがヤコブ書4章8節です。そこには、「二心の人たち。心を清くしなさい。」と記されています。私達の心の中に世につける思いと神につける思いとの二つがありうるということが示されています。

 さらに、1章の8節には「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」とあります。これは神の中にある信頼と不信頼とが心の中に同居しているということです。

 3章の後半(13−18節)に記されている「肉の知恵」と「上からの知恵」との比較もこれを示唆しています。

 肉の知恵についてはは14節から16節に、「14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」と述べられています。これは人間が持って生まれた知恵はねたみであり、敵対心であるということです。

2.解決:上からの知恵としての清さ

 それに比べて、上からの知恵については17節に「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とあります。

 大事なことはこれらのものが、神様からのギフトとして与えられるということです。精進して、「今月の目標は純真、来月の目標は平和、少しづつ勝ちとっていこう。」というようなものではなく、神ご自身が与えて下さるのが上からの知恵です。

 もしそれが努力して勝ち取るものではないとすると、私達は何をなすべきでしょうか? 単純なことです。「神様、どうぞ私の心の中には人を呪ってしまうような気持ちがあって、ときにはそれを言葉に出してしまうことがあります。どうぞ神様このような状態ではあなたの栄光をあらわすことはできません。あなたの聖きを、あなたの知恵を私の心にあてがって下さい。」と真実に祈り求めることしかできないのです。

 どうぞこの朝、私達はへりくだってこの「上からの知恵」を祈り求めたいと思います。私達が真実に、信頼をもって恵みを求めるときに主はそれに答えてくださるお方です。何故なら十字架の上で私達の救いと聖めが完成しているからです。その救いを完成してくださるイエス・キリストの血潮を私達は本当に信じきって求めたいものです。

 それでも人をけなすような言葉をはいてしまうことがありえます。そんなときどうしたら良いでしょうか? それは従いつづける事です。私達のうちに働いてくださる聖霊の導き、コントロールに従い続ける習慣を身につけること、これはある意味で訓練と努力の世界であると思います。

 これを怠ってしまうと、自分の動機は純粋だから、多少人を傷付けても仕方が無い、傷付くほうがやわだからいけないんだ等と開き直ることになって、主の証にならなくなってしまいます。

 前回なにかをしゃべる前に三つのテストをする必要がある事を学びました。

1)それは本当ですか?

 ウエスレーがいったように直接その人に確かめることが大切です。

2)それをはなす必要がありますか?

 どういう目的でそれが語られるか確かめることです。単なる時間つぶしや、楽しみのためだけではないでしょうか?

3)それを話すことは(その話の聞き手および対象となっている人に対して)親切ですか?

 コロサイ4章6節には「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」とあります。これは神様の恵みにプラスアルファして私達の訓練が必要な分野であると考えています。

 


終わりに

 この一週間、私達は何千という言葉を舌から発することでしょう。その言葉が主の前に喜ばれるものであることをお祈りしたいと思います。

 そして言葉以前に、その言葉が出てくる源である心を、主が徹底的に聖めて下さるように祈りをささげましょう。

 また同時に、私達の日常の会話がいつも親切で、塩味のきいたものであるように、主よ御霊のコントロールを与えてくださいとお祈りをささげましょう。

 お祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on June 23, 2001