礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年6月24日

ヤコブ書連講(13)

「上からの知恵」

竿代 照夫 牧師

ヤコブの手紙3章9〜18節

中心聖句

3:17  しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

(17節)


アウトライン

1.4章10〜11節にある舌の二重の働きは、二重の心からくるものである。それらを見分けるには、清い生活と上品な言葉遣いによって、柔和さと穏やかさを通して、また日常の生活態度において良い生き方を心がけることである。

2.反対に、苦い妬みや敵愾心から真理を損なう場合がある。
 ・この世の習わし、価値観に影響されたものの見方、
 ・生まれつきのままの性質、動物的な本能や衝動の満足を
  その目的とした生き方
 悪霊達の霊感を受け、彼等のスピリットで影響された場合である。結果として、創造の秩序(cosmos:コスモス)に対して、混乱(chaos:カオス)をもたらし、さらに、邪悪な行ないを生む。

3.しかし、混乱にも拘わらず、神は解決の道を備えておられる。その解決となるもの――上からの知恵は、「純真、平和、寛容、温順 であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないもの」である。そして、これらの徳こそ、イエス様らしさである。



はじめに

 前回は、舌について、相反する二重の働きがあるという現実、それが正しくないこと、その癒しについて、9〜12節を中心にお話ししました。

 そこでも部分的に触れましたが、舌の二重の働きは、二重の心から発生するものであって、その二重性を癒して頂くことが13〜18節のテーマであり、今日の主題でもあります。

 ヤコブはこの二重性を「肉の知恵」と「上からの知恵」という対照的な言葉で表しています。


A.挑戦的な問いかけ(13節)

3:13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。

 この質問は、誰が教師に相応しいか、という1節の言葉を反復したもので、 この章のスタートに思想が戻って、「舌を正しくコントロールする人、言葉の源である心を清く保っている人は誰ですか?」と、挑戦的な問いかけをしています。

1.知恵者の必要なものは、

 @知恵―敬虔に基づく弁別力であり、また、

 A賢さ―原則を賢く実際のケースに当てはめる、実践する力という条件にあったひと

 です。

2.その見分け方ですが、

 1)まず、柔和な行いです。自分の舌を制御し、他の人を教えうる人は、清い生活と上品な言葉遣いによって、また柔和さと穏やかさを通して本当のクリスチャンであることを示すべきです。神が彼と共に居られることを彼の行いと言葉によって示すべきです。

 2)また、良い生き方です。日常の生活態度において、神に喜ばれるあり方を貫くことです。


B.肉の知恵(14〜16節)

3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

3:15 そのような知恵 は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

3:16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。

1.その内容

 14〜16節では、上の様な知恵者と対照的な人々の姿が示されます。

 1)苦いねたみです。熱心または妬みとも言えるでしょう。この場合は「苦い」という形容詞が ついているので当然後者の意味です。妬みとは、他人の成功を喜べない気持ちが火の ような燃える、そんな状態を表します。

 2)敵対心です。公的な立場を利用して私的な利益を追求する行為であり、限定的に言えば、分派です。分派を作って自己の要求を通す争いで、何の建徳的な役にも立たないような、律法の異なる解釈に関する激論のことです。ユダヤ人は「自分の意見に同意しない人々は殺してしまえ」と考えるほど非寛容で知られていました。

2.その影響:真理を損なう

 「もしあなたが不親切で、荒々しく、侮蔑的な精神をもっているとすれば、自分は信仰者であるという誇りを持ってはいけません」というのがヤコブのいわんとしている意味です。

 あなたは如何なる宗教も、本当の知恵も持ってはいないし、そのどちらかを持っていると告白することは真理に背いて嘘をつくことになります。もっと平たく言いますと、「見るからに悪人面をした人が悪いことをしても人々は驚かない。しかし、信心深そうな、信仰に篤いような面をして中身が腹黒いのはどうにも頂けない。」とヤコブは言っているのです。

3.その源

 では、このような源はどこからくるのでしょうか?

 1)上(神)からでない

 そのような知恵の源は神ご自身である筈がありません。神は良き賜物の源であるが、悪の源ではないからです。

 2)地上的で

 この世だけしか見ない、あるいは、視野にないということです。この世の習わし、価値観に影響されたものの見方を持つ人のことです。

 3)肉的

 霊的に対比しされる性質で、生まれ変わった人間性ではなく、生まれつきのままの性質、本能に依存した生き方です。つまり、生まれつきのままの性質、動物的な本能や衝動の満足をその目的とした生き方のことです。

 4)悪魔的な

 悪霊達の霊感を受け、彼等のスピリットで影響されたとの意味です。悪霊達を動かしている動機は神に対する妬みと分派の気持ちなのです。光の天使が神を妬んでサタンと成ったそのスピリットが人間本来の性質に成ったことを示しています。

4.その結果――混乱と邪悪

 こうした悪魔的なスピリットは、創造の秩序(cosmos:コスモス)に対して、混乱(chaos:カオス)をもたらし、さらに、邪悪な行ないを生みます。つまり、妬みの気持ちから神に反逆したサタンのスピリットがこの世の中の問題と混乱の根っこです。

 私達が今直面している社会的な問題の根は、人間性質に植え込まれたサタン的な妬みと党派心から来ることを覚えねばなりません。


C.上からの知恵(17、18節)

3:17 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順 であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないもの です。

3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 「しかし」という言葉は慰めです。人間の計りがたい罪の深さ、それ故の社会の混乱にも拘わらず、神は解決の道を備えておられるという事実が私達に希望を与えます。

1.その内容

 1)純真

 神を愛する単一な心 VS 二心です。これは清さ、清潔さのことで、以下に続く 諸徳の基本で、悪の要素の入り込まぬきよさを表します。このシングルハートは、1章8節,4章8節に出てくる二心のものと対照的です。

 2)平和的

 ほかの人と平和的に生き、また、平和を作り出すものです。

 3)寛容

 柔和、謙遜、公平をもって物事の良い面を見ようとする心、また、他人の行動の全てにおいてそれを建て上げようとする心遣いのことです。

 4)温順

 異なる考えについて譲ろうとする傾向で、頑固さと対比されます。

 5)あわれみに満ち

 過ちを見逃す用意のある、自分を怒らせる様な人々でも赦す用意を持つ、また、可能な限りの親切を行う心のことです。

 6)良い実

 人を赦す性質が目に見える形で現わす行為のことです。

 7)えこひいきがなく

 全ての人に誠実で、自己利益や世の誉や人に対する恐れで動かされない、身分や背景によって人を判断しない心のことです。

 8)見せかけのない

 そうでないのに、そうであるかのように装うとか、自分の役を日常に演技している演技者のようではない態度、つまり、神の栄光のみを求め、それに徹底する生き方のことです。

 そして、これらの徳こそ、主イエスの持っておられたもの、つまり、イエス様らしさです。

 また、パウロがガラテヤ5章で述べている聖霊の実――「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実」(ガラテヤ5:22)、「柔和、自制」(5:23)と同じ思想です。

2.その源泉:平和の播種による

 17節に述べられている全ての徳は、魂の義の法則の実です。

 18節にある、「平和の内に蒔かれ(ヤコブ3:18b)」とは、神の平和が心を支配するときという意味です。その時こうした徳は豊かに開花し結実するのです。これこそは、福音の教師でけでなく、主に従うもの全ての性質でなければなりません。


 もう一度、「上からの知恵」という言葉に目を留めましょう。

 「上からの知恵(ヤコブ3:17)」とは、全能なる神の霊感によって、あるいは、神の使いの直接のコミュニケーションによって与えられるものです。それは人間の心に教えられる神のおしえのことです。良心に神の平和を楽しむこと、また、人々の間に平和をもたらすために生きることは、私達の創造の目的に適うことです。

 反対に、闘争の中にある人々はその目的から外れて、悪魔に加担していると言わねばなりません。


終わりに

 1.ですから、知恵を神に求めましょう

 ソロモンは、何でも叶えるという神のみつげに対して「知恵を」と求めました。善悪を見分ける知恵、判断を実行する実際的知恵、それらが求められているのが現代です。

 2.また、その知恵を活かしましょう

 せっかく与えられた知恵を生活の中に活かしたいものです。毎日私達は何千という決断をしますが、その一つ一つに主の導きを仰ぎ、それを実践する者でありたいと思います。


Message by Rev.Isaac Teruo Saoshiro,Senior psster of Immanuel Tokyo Cenrtral Church
Compiled by Kenji Otsuka on June30,2001.