礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年7月1日

ヤコブ書連講〔14〕

「戦いはどこから?」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書4章1-10節

中心聖句

1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

(1節)


始めに:

 今日も前回からの続きでヤコブ書の連講です。昨日の特別役員会で、連講だと新しく来られた人が戸惑ってしまうのではないかという意見をいただきました。連講ではありますが、私は毎回一話完結の小説のつもりでお話ししています。続きではありますが、今日新しい恵みがありますことを願っております。

 先週は3章の17節を中心に「上からの知恵」とは何か、それは「肉の知恵」であるねたみや敵対心とは反対のものであることを学びました。

 本日の箇所では、残念ながらどうも教会の中でも争いが起きていたらしいことが記されています。「起きていたらしい」と言いましたが、4章の書き出しは、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。」となっており、起きている事は既に前提条件になっています。悲しい事です。

 ではその原因は何か?ヤコブは第一節で「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」と述べています。

 本日の聖書の箇所ヤコブ書4章1〜10節には以下のような内容が記されています。

1〜3節 戦いの原因

4〜6節 世の友となることの危険

7〜10節 神に従うことの勧め

本日は時間の関係で6節までの内容について述べたいと思います。

 


A.戦いの原因(1〜3節)

1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。

3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

 

1.その原因は自己中心的欲望

 ヤコブは、戦いの原因は一人一人の体の内側の戦いであり、それが外側では世の戦いとなって現れると説いています。一人一人の自己中心がいさかいの最大の原因です。

 では体の内側で何と何が戦っているのでしょうか?ヤコブは、御霊の導き−このように歩むべきだという御霊による方向づけに対して、これに反対する人間の肉の欲望、この二つが戦っていると述べています。

 この内側の戦いで欲望が勝っていると、人と人との間にいさかいが起こるのです。

2.そして欲求不満

 いろいろな社会問題の原因は、心の中にたまったフラストレーションです。

 電車の中で靴を踏まれただけで、ホームで人を殴り殺すような事件が頻発していますが、大変な時代になったものです。先日も電車に乗りまして、山手線で目黒駅で停車したところ、車内放送が流れまして、「お待たせ致しまして申し訳ありません。ただいま車内で争いが起きています。終わるまでしばらくお待ち下さい。」という車内放送が流れました。私も腕をまくって止めに行こうかと思いましたが、明日の説教ができなくなると困るなと考えて思い留まりました。

 今は本当に人々がいらいらしているのです。そして昔であればもう少し抑制が働いたように思いますが、今は抑制が働かないで、すぐに人を殴ったり、殺したりということになってしまします。ヤコブがここで語っている事は、現代の社会で起きている事を正確に説明しているように思えます。

 2節には、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。」とありますが、ヤコブが語りかけている相手はユダヤ人クリスチャンですが、彼らは本当に人殺しをしたのでしょうか?聖書学者達は、本当に人殺しをしたわけではないだろうが、殺したいほどの憎しみが起こる事はありうると説明しています。

 続いて、「うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」とありますが、行動が短絡的で欲望が剥き出しの様子が書かれています。

 私達は宣教師として赴任したケニアで凶悪犯罪が増えてきたときに、そこを去らねばなりませんでした。ナイロビの街を普通に歩いていた人がバッグを奪われたり、時計を盗られたりということが頻繁に起きておりました。また、車の上から石が落ちてきて運転手が即死して所持品が奪われたり、人気の無い道に丸太が置かれていて、車が止まったところに男達が取り囲んで身ぐるみ剥がされてしまったり、といったことが頻発していました。そういった文明の利器に対する欲望が剥き出しになり、自分の収入で買えないと人から奪ってでも自分のものにするという行動が起きていました。

 日本に帰ってきてしばらくは、安全で気が休まりましたが、やがて日本もそうでもなくなってきました。

 ヤコブ書は今日のこのような事件の内面的な原因を明らかにしています。

3.間違った祈り

 そのような欲求は横に向けられるのではなくて、神様に向けられるべきですが、神様に向けられてもその答えが得られていない様子が2節の後半に記されています。

 2節の後半には、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」とあります。簡単明瞭な説明です。

 主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)とも、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)とも約束されています。

 「けれどもあなた達は求めようとしていないではないですか。祈りの生活は確立していますか?神様に求める前に自分の努力だけに拠り頼んではいませんか?そうではなくて、神様に祈り求める信仰を持ちなさい。」とヤコブは語っているのです。

 また祈っても与えられないという人は、3節に「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とありますように、一生懸命お祈りをしているのは何のためか、その動機をよく探ってみなさい。悪い動機で見当違いのお祈りをしてはいませんか?

 具体的に申し上げますと、「病気を治して下さい。」とお祈りするのは当然のことですが、治ったらどうするのでしょうか?もう一度悪い事をするつもりならばそれは悪い動機です。また、「入学試験に合格しますように。」とお祈りするのは、合格して自慢をするためではないでしょうか?「就職試験に合格しますように。」とお祈りするのは正しいことですが、それは一流の会社に入って、利己的な利益を追求するためではないでしょうか?

 ヤコブは私達の動機をさぐる質問をしています。とても大切なことです。

 また、私達は何のために聖めの恵みを求めているのでしょうか?

 このことに関して、サムエル・ブレングルという牧師さんは、「聖めのしおり」という本の中で自分の体験を語っています。彼が聖めの恵みを求めるようになったきっかけは、神学生の時に素晴らしい説教を聞いて、自分もあのような素晴らしい説教をして有名になりたいと願って、「神様どうかあのような素晴らしい説教ができるように、私を聖めて下さい。」と毎日祈っていたそうです。しかし祈れば祈る程、「何の為に?」と聞かれたそうです。そして、神様は彼の動機そのものを取り扱われ、自己中心の心を指摘されたそうです。そしてそれを認めたこと自体が自分自身の聖めであったと彼は語っています。

 第3節の御言葉を心に留めて、多くの祈りをささげる前に、「何の為に?」という大切な質問を自分自身にあてはめていただきたいと思います。そしてその動機が、「主の栄光が顕われるように。私のようなものを通しても主の栄光が明らかにされますように。私の生涯の目的はそれしかありません。」となるように祈りたいものです。そのような祈りを主は聞き届けてくださる事でしょう。

 詩篇66:18には、「18もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」と記されています。しかし感謝なことに、続く66:19〜20には、「19 しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。20 ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」と記されています。一人一人の毎日の生活の中で、このことがうなずかれ、実行されるようにさせていただきたいものです。


B.世の友となる危険(4〜6節)

 そして次にヤコブは世の快楽を追及してはいけないという意味で、4節から6節までで世の友達となることの危険を語っています。

4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

5 それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。

6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。

1.世の友=神の敵

 4節は「貞操のない人たち。」という言葉で始まっていますが、原語ではもっと直接的な「姦淫を犯す者達、浮気する人達」という意味の言葉が使われています。ここでは、神と私達の関係を夫と妻の関係のようなものととらえています。主は私達の全てを買いとって下さり全ての愛を注いで下さるのですから、私達も全ての愛を神に奉げるべきです。そして夫婦の関係もちょうどそのようなものであるべきなのです。

 今の時代、それがいかにおろそかにされていることでしょうか。好きなったら一緒になれば良い、いやになったら別れれば良いといったように、ちょうど着物を取り替えるような調子です。アメリカでは両親がずっと一緒に暮らしている人はほとんどいなくて、半分以上は別れてしまうそうです。ですから、結婚式場の従業員は「お客さんは丁寧に扱うようにしなさい。何故なら、この人はもう一度使ってくれるかもしれないから。」と教えられるそうです。(笑)

 夫婦の間は一体であって、他の関係が入り込んではなりません。それは神様がお決めになったことです。例え遊びであってもです。神との関係もそれと同じです。世への浮気は深刻な背信行為です。

 このことは、世の中の友人を持ってはならないと言っているのでは決してありません。もしそうなら私達は皆修道院に入らなければならないでしょう。そんなことはありません。あるいは聖書は、世の楽しみを一切禁止しているのでしょうか?絶対にそうではありません。神様はこの世の全てを私達が楽しみ喜ぶべきものとして造られたのですから、私達はそれをおおいに楽しむべきです。

 では何が問題なのでしょうか?それは、神様と同じ、あるいはそれ以上の位置に、世の友や楽しみや仕事やお金などを置いてはならないということです。

 ユダヤ人にとってそれは偶像でした。バビロン捕囚という大きな罰によって、ユダヤ人はその後は目に見える形ではしなくなりましたが、その代わりに目に見えない偶像が入り込んできました。それがお金や地位や世の快楽です。

 繰り返しますが、スポーツや音楽や芸術といったものは皆良きものとして神が創られたものです。

 ここで言っているのは、デボーションの時間をおろそかにしてまでスポーツニュースに見入ってしまうのは良くないということです。そういう小さな事で神様より世の楽しみを大切にしてしまうのが、世の友となることであり、それは自分自身を神の敵とすることなのです。

 

2.御霊の愛と恵み

 5節には「それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」と記されています。

 ここでは聖書解釈上の難しい問題がいくつかあります。ひとつは、ヤコブはここで聖書の言葉を引用しているようですが、どこの箇所を引用しているかがわかりません。こういう言葉が旧約聖書の中にあるのでしょうか。そうではなくて、これは聖書全体の思想を要約したものと解釈されています。

 もう一つは翻訳の問題です。例えば御霊をHoly Spiritととるか私達の霊ととるか、また霊私達を恋い慕うのか、霊私達が恋い慕うのかなどによって、3〜4とおりの解釈があります。ここでは新改訳聖書の訳が正しいとしてお話します。

 神様は私達が神様を忘れて世の楽しみに没頭するときに本当に悲しみなさるのです。皆さんには、神様の「ねたむほどの愛」がわかりますか?

 朝のデボーションは掟でしょうか?そうではありません。それは、神様のラブコール、神様とのデートの時間です。どうかデートの時間をすっぽして新聞を読んだりしないで下さい。どうか、ねたむほどに私達に愛を注いで下さる神様にそっぽを向かない生活をさせていただきたいと思います。

 6節前半には「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。」とあります。神様の本当の御心は、私達に「さらに豊かな恵み」を注いで下さる事です。「さらに」と書いてありますように、神様は恵みに恵みを加えなさるお方です。

 神様はこれまでも私達に多くの恵みを注いで下さいました。感謝しましょう。しかし、神様がこれから私達に注いで下さる恵みはそれを上回るものです。

 2001年も前半の半年、神が守って下さったという方、後半はもっと良くなるでしょう。50年、60年と生きてきた方にも、これからさらに多くの恵みを備えていて下さいます。

 神が恵みを下さる方法はいつもこのようです。

 世の人は、人が酔ってきたら質の悪いぶどう酒を出すそうですが、イエス様は逆にだんだんと良いぶどう酒をだされるお方です。

3.謙遜が自己中心からの癒し

 では、恵みをいただく方法は何でしょうか?それは6節後半に「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とありますように低くなる事です。私達が本当にへりくだったときに神は豊かな恵みを下さります。

 私達が住んでいたケニアのナクルという街は、山の高いところに住む人は収入の高い人、中腹には収入の中ぐらいの人、低いところに住む人は収入の低い人と決まっておりました。私達の教会は街の低いところにありましたが、良いことがひとつありました。それはがナクルではしょっちゅう断水がありまして、高いところはすぐ水が出なくなりますが、低いところは大丈夫でした。WGMの本部は山の上にありましたので、断水になると良く宣教師の人が教会まで水を汲みに来ていました。

 神は低い人ほど多くの恵みを与えてくださいます。

 では、どういう意味でへりくだるべきでしょうか?それは自己中心の心を砕く事です。そのことが成される時にこそ、主は私達に豊かな恵みを注いで下さいます。

 どうぞ、そのへりくだりをもってこの一週間を過ごしたいものです。

 お祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on July 8, 2001