礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年7月8日

ヤコブ書連講(15)
「さらに豊かな恵み」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書 4章1-10節

6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』

10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。


はじめに

今日はまず皆さんが神様から受けた恵みを思い返し、数えてみていただきたいと思います。

さまざまなことが思いめぐらされると思いますが、もっとも直接的な恵みは主イエスをお与え下さり、全ての罪を許してくださり、全てのものの相続人としての特権を与えてくださったことであります。

さて皆さん、どのくらいの恵みを数え上げられましたでしょうか?今日の箇所では、それらの過去の恵みや想像を超えた素晴らしい恵みが、さらに私たちを待ち受けている、と語られているのです。

そのような大きな恵みを頂けることを、今日確信したいと思います。

しかし、そのような恵みを頂くためには、私達が取るべきステップとして、「へりくだり」が必要です。自己中心ではいけません。へりくだりと言う心の態度について取り上げたいと思います。


A.神の恵の賦与(6節)

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』

1.より大きな恵み

神はその豊かな恵みによって、私達を悪の力から回復なさいます。つまり、神の霊はその民に留まり、より豊かな(直訳ではより大きな)恵を供給して下さいます。

恵とは値しないものに与えられる神の顧み、愛顧のことですが、それは色々な形で現れます。罪の赦し、永遠の生命の賦与、神の相続財産の継承、日々の必要の供給、それら一切は恵の現れです。

この節の強調は「より大きな」恵の約束でしょう。

今まで注がれた恵は大きなものであったかも知れませんが、それで終わりではなく、これらはより大きな恵の序曲に過ぎないとヤコブは言っているのです。言い換えますと、すばらしいコース料理で満足していると、さらにこれから凄いメインディッシュが出てくるのだ、という場面のようなものです。

2.謙遜の必要

その為に必要な態度は謙遜です。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」(箴言 3:34)をヤコブは引用します。それは、イザヤが57:15で砕かれた悔いた心に主は宿られると言ったのと同じです。内に宿る御霊は恵を与えます。「高ぶる者を退け、謙るものに恵が与えられる。」(第一ペテロ 5:5)というペテロの勧告もヤコブのそれと合致します。

ここに水差しがあります。この水をコップに移そうとしますと、コップは水差しより低い位置に、しっかりと持っておかなければなりません

このように、神の恵は私達のへりくだりと比例して与えられます。謙れば謙る程神はより大きな恵をもって私達を祝して下さいます。自分が無であることを告白する者に、恵みが与えられるのです。

逆に私達が高ぶるものであり、自分自身の世的なまた罪深い態度を価値有るものとして誇るなら、神は私達に恵を下さることが出来ないのです。

コップをしっかり持つというのは、恵みを受ける基盤である信仰をしっかりと持ち続けると言うことです。

3.その譬え

この真理が最も良く示されているのが、主イエスの語られた「パリサイ人と取税人」の譬え話でしょう。ルカ18:9−14を竿代訳でお話しします。

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために教会に行きました。ひとりは真面目信者で、もうひとりはヤの字の人間でした。真面目信者は立って、心の中でこんな祈りをした。

「神よ。私はほかの人々のように脅かして金を儲けたり、税金をごまかして金を貯めたり、セクハラやストーカー行為なんかを一切せず、ポルノ雑誌やAVに手も触れず、ことにこのヤの字のような人間ではないことを、感謝します。私は礼拝にも祈祷会にも欠席せず、月定献金も中途半端ではなくきちんと収入のの十分の一をささげております。こんな人間に私をして下さった事を感謝します。

ところが、一 緒に来たはずのヤの字は『すんません。わしが教会に入ったんでは教会が汚れてしまいます。』と遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。『神さま。わしのような煮ても焼いても食えないような罪深い人間ですが、哀れと思って少しだけでもお恵みを下さい。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。真面目信者ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

この主イエスのたとえ話は、今回取り上げるヤコブ書の箇所と同じ真理を言っているのです。ヤコブは主イエスの翻訳者なのですね。次にその真理を6つのステップをおってみてみましょう。


B.神に従うべき勧告(7ー10節)

7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
9 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

さて、6節で述べた、恵を頂く態度が7−10節で、詳しく述べられます。それが6つのステップとして描かれています。

1.意志:御心に従おうとする意志(7節)

1)神に従え

目に見えない神に従うととはどのようなことなのでしょう。それは聖書の御言葉に示される御心を知り、それに従って生きることです。

日頃の生活の中で、これは悔い改めなければならないと聖霊に示されることがあります。その示された事に従い続けることが大切です。言い換えますと主イエスをわが心のボスにしなさい、と言うことになりましょう。自分の生き方を神の御心より優先するようでははいけません。

2)悪魔に立ち向かえ

悪魔は神様と反対のことをささやいてきます。しかも実に巧妙で、紳士の皮をまとって私たちの前に現れます。悪魔は絵に描かれているように、毛むくじゃらの尻尾を振ってやってくるわけではないのです。

その誘惑の内容は、神の御心に従わない態度への示唆です。「何故もっと自由を味合わないのか」とか「何故狭い道を選ぶのか」と私達の心を揺さぶろうとするのです。

その誘惑の力は強いものですが、これに立ち向かう方法があります。単純にノーと言えばよいのです。

私達が抵抗する限り、サタンは私達を打ち負かすことはできません。どんなに彼の誘惑が強くても、私達がノーという限り彼は何の手出しも出来ないのです。

良く失敗して悪魔に魂を売った人が、私が失敗したのでなくてサタンの仕業だったと自分の罪を言い訳する人がいますが、これは間違いです。

やはり誘惑に「イエス」と言った責任は私達にあるのです。サタンは強い存在ですが、神は彼に抵抗する人間を彼が征服することは許しなさいません。

主イエスの御生涯もサタンとの戦いの連続でした。荒野での問答に始まり、ユダの裏切り、十字架での死、その全てはサタンとの対決であり、またその全てに勝たれたのがイエス様です。

従って、こうように力あるイエスのお名前によって悪魔に立ち向かう人は、即刻にしかも見事に悪魔を征服することができます。彼は彼の名前と血潮からは逃げ出してしまうのです。

2.関係:神との親しい関係(8節a)

1)神に近づきなさい

「信仰と祈りによって、イエスの聖名を通して神に近づきなさい。神と近しい関係を求めなさい。」とのすすめです。エレミヤ書に「私に近づくのに命をかけるのは誰なのか」ということばがあります。また、詩篇作者は「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇 16:8)と神に近づく恵を語っています。

神に近づくとは、具体的に言いますと、日々の生活の中で祈りと信頼をもって神に対しての時をとることです。日々のディボーションや、集会出席などの行動が伴うことが、神に近づくために必要なことです。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」(詩篇 73:28)と言われているとおりです。

2)神はあなたがたに近づく

主に一歩私たちが近づくとき、神様は私達に百歩近づいて下さいます。私達が神を求める時神も私達を求めて下さいます。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇 34:18)神は特に心砕かれ、悔い改めの心を持つ魂の側におられます。

この真理の美しい絵は「放蕩息子の譬え」です。放蕩して落ちぶれた息子が、自らの汚れや恥をもいとわずに父の許に帰ろうと歩みを進めたいたとき、父の側では走り寄って息子を掻き抱いたのです。放蕩息子のように、私たちも一歩神に近づくべきです。

3.行動:継続的な罪との訣別(8節b)

罪ある人たち、手を洗いきよめなさい

この勧めは、明らかな罪を継続している人々に向けられています。あなたがたの行動を全く変えなさい、悪いことをやめ、良き事を行いなさい、と語っています。手を洗う行為は無罪性と清らかさの象徴です。

手が清いとは、行動において正しく、他の人を傷つけたりしないことを指します。これは、主イエスの血によって清められることでもあります。
マクベスSTORY
 スコットランドの勇将マクベスとバンクォーは、ダンカン王の陣営へ戻る途中、荒野で3人の魔女に出会う。彼女たちはマクベスがコーダーの領主になり、さらに王にもなること、そしてバンクォーは王にならないが、その子孫は王になることを予言する。その直後、予言通りにコーダーの領主に任じられたマクベスに、王位への野望が芽生える。

 夫からの手紙でその一部始終を知ったマクベス夫人は、来城するダンカン王を殺害し、夫の野望を遂げさせようと決意する。国王歓迎の祝宴の中、罪の重さに怯むマクベスを、夫人は激しく詰る。妻に励まされ、就寝中のダンカン王を刺殺したマクベスは、その罪を王の従者に擦り付けるため、彼らも殺害、やがて王位につく。

 王になったマクベスであったが、もう一つの予言、バンクォーのことが気がかりでならず、遂には彼を殺害する。しかし、戴冠式後の祝宴でバンクォーの亡霊を見たマクベスは、錯乱状態に陥り、再び魔女を訪ねる。「マクダフに用心しろ」「女から産まれたものにはマクベスは倒せない」「バーナムの森がダンシネインの丘に向かって攻めあがってこない限り、マクベスは敗れない」−魔女たちは次々に新たな予言を告げ、マクベスにバンクォーの子孫が王位に就く幻影を見せる。

 一方で、マクダフはイングランド王の庇護を受けた亡きダンカン王の息子マルカムと組み、マクベスに対抗しようとするが、逆に残されたマクダフ夫人が、マクベスの手のものに殺害されてしまう。復讐に燃えるマクダフがマクベスに戦いを挑む中、罪悪感と血の幻影に苛まれたマクベス夫人は、夢遊病にかかって自殺する。やがて、有り得ない予言は次々に現実のものとなり…。

手を洗うと言うことで思い出しますのが、シェークスピア原作「マクベス」で、マクベス夫人が罪悪感で夢遊病に陥ったとき、夜な夜な手を洗う仕草をするシーンであります。罪はこのように人間を悩ませるものですが、主はこのような悩むべき罪を全くきよめてくださるのです。何という恵みでしょうか。

天国とはこのように清められた手を持った者が入れる場所です。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」(詩篇 24:3,4)と 記されている通りです。

4.愛情:神を専一に愛すること(8節c)

1)二心の危険

これは二心の人に向けられています。エリヤはこのような人を「神とバアルを鳥のように言ったり来たりしている」と評しています。この様な人は、神を愛する心を持ちながら、世をも愛する不徹底な信仰者です。

2) 心を清くしなさい

ここで使われている「清くしなさい」というのは、ハギアゾーというギリシャ語で、ヘブル語のクヮドシュと同様、或るものまたは人を世俗的な用途から聖別して、神に捧げることを意味します。

離別と専用 という二つの方向性が示唆されています。例えば私のハンカチは雑巾のように床を拭くことはしないという離別、私の汗を拭くためだけに使う専用、という方向性です。

世と世の汚れから自分を聖別し、神に捧げましょう。これこそが聖化の本当の意味です。私達は自らを悪しき道や悪しき交友から自分を聖別して、神に捧げる、神の喜びと神のお仕事の為に人生を使うのです。

5.感情:悔い改めの苦悩(9節)

「苦しめ、悲しめ、泣け」

真実なそして深い悔い改めなしには、神の憐れみを期待することはできません。ヤコブが笑いとか楽しみとここで呼んでいるのは、世俗的な意味でのものと考えられます。クリスチャンが喜び、楽しみ、笑うのは自然どころか、恵の現れです。ここで禁じられているのはユーモアのセンスではなく、世の友となることから生まれる薄っぺらな笑いのことです。

自分の犯した数々の罪にするときには、真実に、悲しみ、嘆き、泣くべきなのです。主イエスは「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」(ルカ6:21)とも、また、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5: 4)とも語っておられます。同じ思想です。

「罪なんて無いよ」と言う心の怠慢が一番いけません。我々は確かに主イエスによって清められてはおりますが、我々の自己中心の心を絶えず見張って留めていなければなりません。ここでは、我々クリスチャンはこのようなことと格闘しなければならないのだ、と言うことの確認なのです。

6.態度:謙りの態度(10節)

1)主の御前でへりくだれ

もう一度6節の思想に戻りヤコブは、神の前に自分を低くしなさいと勧めます。神の権威に服するということは、心の謙遜さから来るものです。ヤコブが勧めているのは、土下座するほどへりくだろうという点です。

2)主が高くしてくださる

悲しむもの、悔い改めたものは地に倒され、埃の中にまみれてしまいました。彼らが慰められ、赦される時、彼らは地面から立ち上がり、埃を払って、素晴らしい着物を着るようになったのです。彼らが充分に謙るとき、神は彼らを塵の中から立たせることを約束しておられます

旧約聖書のヨセフ物語がこの真理の例証となります。彼は嫉妬され、いじめられ、誤解され、奴隷の地位に落とされ、さらに牢獄にまで陥れられました。

しかしその中でも摂理の御手を信じ、じっと神の業を待ち望みました。時至って彼の中にある神の力が評価されて一足飛びにエジプトの総理大臣となり、自分の国と家族を救う大業をなしとげました。詩篇にも「わたしは、誇る者には、『誇るな。』と言い、悪者には、『角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げ るな。横柄な態度で語るな。』と言う。」高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」(詩篇 75:4−7)と記されています。

勿論、この地上の、いわゆる世的な意味での昇進が必ずしもヤコブの言う「高める」という事を指してはいませんが、神はご自分の方法と時期と目的をもって、謙るものを高めなさいます。これは真実です。信じられますか。これを信じる者をクリスチャンといいます。この道を歩むものでありたいと思います。


終わりに

1.恵の備え

神はどんな状態の人間にも恵みを備えておられます。自分なんか、と思わないで下さい。そういう方のために恵みが用意されているのです。

神の恵の及ぶ範囲の外にいる人間はおりません。この恵みに対する信仰を新たにしましょう。

2.神に向き合おう:ひまわりのように

ひまわりと言う植物は、太陽に向かって向きを変えながら一日を過ごします。私達も何の取り柄もないものですが、ひまわりのように神に心を向けながら一日を過ごすことができますし、神もそれを喜びなさいます。

私達は恵に相応しい人間ではありませんが、恵みを頂くのに相応しい態度を取ることは(聖霊のお助けによって)可能です。私達の態度、行動、心の向け方において恵を頂く方向に自分を保ちましょう。

この一週間、この心を持って過ごし、来週集う時にはその恵の感謝を持ち寄りたいものです。祈りましょう。


Message by T. Saoshiro, Edited by K. Ohta on July 9th (revised on 14 th), 2001