礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年8月5日

ヤコブ書連講〔17〕

「金持ちへの警告」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書5章1-11節

中心聖句

1 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。

(1節)


始めに:

 前回は、「主の御心なら」と言う言葉に強調点をおいて、「主の御心なら」明日も生かせて頂くというへりくだり、「主の御心なら」私の命は今日終わるかも知れないという厳粛さ、「主の御心なら」困難にも立ち向かうことができる勇気、「主の御心なら」自分の願いであっても取り下げるくだかれた心、を学びました。

 本日から5章、いよいよヤコブ書も最後の章に入ります。5章は大きく区分すると、1−6節は神を恐れない金持ちへの裁き、7−11節は再臨こそクリスチャンの望み、12−20節は力ある祈りについて語られています。今日は1ー6節に限定して、神を恐れない金持ちへの裁きを学びます。みなさんは、私は金持ちではないし、神を畏れていないわけでもないから、自分には関係ないと、ほっとしているように見えます。しかし、この警告の中には全ての人に適用される大切な真理が含まれていますので、関係無いと思わずに聞いて下さい。

 本日の箇所は、1)呼びかけ(1節)、2)富みの腐敗性(2、3節)、3)富める者の不正への糾弾(4ー6節)と区分けできるでしょう。

 本日は時間の関係で6節までの内容について述べたいと思います。

 


A.富める者への呼びかけ(1節)

1 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。

 これが金持ちたちに対する呼びかけです。

 

1.呼びかけの対象:金持ち達

 ヤコブ書は全体的に金持ちに対して批判的です。例えば、2章には教会に入ってきた大金持ちによる差別が、4章には神を畏れないビジネスマンへの警告が述べられています。ヤコブの手紙は貧しい人達を守ろうという気持ちに満ちています。

 ここで呼びかけの対象になっている金持ちはどんな人達だったのでしょうか?ヤコブはどんな厳しいことを述べるときでも、「兄弟達よ。」と語りかけていますが、この1節から6節にはそのような呼びかけはなされていません。始めから終わりまで厳しい言葉で満ちています。ですから、ここに描かれている金持ち達がクリスチャンであったとは考えにくく、彼らは世の金持ち、とりわけユダヤ人の中の神を畏れない金持ち達であったと思われます。従って、彼らはこの手紙を読むチャンスは無かった訳です。

 では、何故彼らがここで取り上げられているのでしょうか?その答えは7節にあるようです。つまり、1〜6節で世の金持ちに対して、聖書はどういう見方をしているかを示した後に、クリスチャンはそれに対してどういう態度をとるべきかについて、7〜11節に述べられています。そこには、特に忍耐という言葉が繰り返し記されており、忍耐ということを教えるのが目的であったようです。その意味では、悪い事をしている大金持ちが何故この世でのさばっているのかについて悩みぬいた詩篇37篇や73篇の作者達の悩みと、この箇所が重なってきます。

 

2.呼びかけの内容:泣き叫べ

 その金持ち達に対する呼びかけは「泣き叫べ」です。

 聖書の何処にも金持ちが金持ちである故に非難されているところはありません。金持ちが陥りやすい不敬虔の罪こそが断罪されています。それは彼らに審判が迫っているからです。それは、やがて来る審判ではなく、もう来つつある(ギリシャ語では現在進行形)審判です。

 


B.富の死蔵の問題(2、3節)

 

2 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、

3 あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。

 

 お金は本来使うためにあるのですが、この人達はどこかの国の人々と同じように、使わずに一生懸命貯めていたようです。現代の日本は、預貯金の額は沢山あるのに、不況で経済がとどこおっています。どうも、ここで述べられているヤコブの警告は、1世紀のユダヤ人だけでなく、21世紀の日本人全体にあてはまるように思われます。

 ヤコブは、お金を貯めることに対していくつかの警告を述べています。

 

1.死蔵金の価値は減少する

 ひとつは、その価値が減ってしまうということです。

 当時も銀行というものはありましたが、現在のように整備されたものではありませんでしたので、多くの場合、資産の保管は、高価な衣類をタンスにしまっておいたり、壷に金貨や銀貨を入れて土の中に埋めておくといった原始的な方法によっていました。従って時間がたつにつれて価値が減ってしまいます。衣類の場合には虫(蛾の幼虫)に食われて、硬貨の場合は錆びて、いざというときにはぼろぼろになって役に立たなくってしまいました。

 聖書には次のような物語が記されています。ある人が蓄えた金銀を壷の中に入れて、夜中にこっそり畑に埋めました。しかし、彼はそれを使うことなく亡くなってしまい、財宝は畑の中に人知れず残されました。ある時、畑を耕していた小作人が偶然それを発見しました。面白い事に、彼はそれをこっそりと持っていくことはせずに、その土地を買ったのです。彼は自分がたとえ大金持ちになったとしても、泥棒になる危険は犯したくなかったので、知らぬふりをして土地を買い取り、そこに埋まっていた財宝を合法的に自分のものにしたのです。もっとも、今の日本の法律では、そのようにしても財宝は国のものになってしまうそうですが。

 このように一生懸命蓄えても、結局何の役にもたたないではないかとの警告がなされています。

 

2.死蔵金は所有者を糾弾する

 3節前半には「あなたがたの金銀にはさびが来て(カティオータイ=徹底的に錆び付いており)、そのさび(イオス=金属錆)が、あなたがたを責める証言(つまり、虫と錆は彼らが資産を神のため人のために有効に活用しなかったという雄弁な証拠)となり・・・」と記されています。

 つまりヤコブは、錆びは、あなた方がきちんとお金を使うべきことに使わなかった証拠として、あなた方を責めますよと語っているのです。

 お金は使う物であって、蓄えて眺めるだけでは、腐ってしまうものです。

 

3.死蔵金は所有者の健康を蝕む

 3節の中程には「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」と記されています。ここでの肉は、文字通り健康という意味です。

 金持ち病というのがありますが、朝から晩までご馳走を食べて、自分は体を動かさずに人を動かしているのは、不健康そのものです。現在、先進国と呼ばれる国に、このような生活習慣病が押し寄せて来ています。発展途上国の人々の何倍ものカロリーを摂取して、その分働く事もせずに、かえって健康を蝕んでいるという皮肉を、ヤコブは予見していたかのように語っています。

 

4.死蔵金は審判の日に処分される

 3節後半には、「あなたがたは、終わりの日(すべての宝が火で焼かれる時のため)に財宝をたくわえました。」と記されています。

 終わりの日とは、主が火をもっていっさいのものを滅ぼされる日です。第二ペテロに「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」(3:7)としるされています。

 これは大事なお宝だ、これこそは末代までもとっておきたいと思っても、聖書は、それは火に焼かれるために、焚き木としてとっておくのと同じことだと述べています。余りシステマチックではない主婦が何もかも冷蔵庫にとっておいて、結果的にはみんな腐って捨てなければならないのと似ていますね。棄てるためにとっておくなんて、なんともったいないことでしょう。

 ウェスレーは説教の中で、できるだけお金をもうけなさいと語りました。1番目には、悪い事をしない範囲で一生懸命働いてお金をもうけなさい、2番目には、シンプルな生活をして、それをできるだけ貯めなさいと語りました。そして、3番目に、そのお金をできるだけ与えなさいと語りました。私達はその2番目までは、従っているのですが、3番目はどうも苦手ではないでしょうか。

 ヤコブはこのように、多くの金持ちが犯している過ちを正確に描写しています。

 これは神を畏れない金持ち達に対する警告ですが、あてはめてみますと、私達は与えられたお金を人々のためにどのように有効に活用しているか、反省させられることです。

 一人一人だけでなく、今、日本全体としてこの言葉に耳を傾けなければならないのではないかと考えます。日本は今経済不況に喘いでいますが、個人資産の合計は世界のどの国にも負けないくらい大きいと言われています。私は経済学者ではありませんので間違っているかもしれませんが、これをもっと活用したならば、日本も潤うように思えるのですが。それもレジャーや、立派な車を買うためではなく、よその国を助けるために活用したならば、日本も再生するのではないかと思います。

 初代総理は宣教富国論を唱えられました。宣教のためにお金を注ぐことによって、国が潤うという考え方です。このような考え方は、マクロ経済にもあてはまるのではないかと思います。

 私の父は成功したクリスチャンビジネスマンでしたが、ほとんど財産を遺しませんでした。そのおかげで、財産を巡って兄弟でなぐり合いのけんかをする必要もなく、感謝しております。(笑)最近全国の教会をご用のために回っていますと、「開拓のときに、お父さんに多くの献金をしていただきました。」という話しをしばしば聞きます。私自身が開拓で苦労しているときには、それほど助けてくれなかったのにと思いながらも(笑)、自分の子供には厳しく、他人には寛容にというのが父の精神であったのであろうと考えています。その父がひとつだけ歌えた讃美歌が、「天に宝つめるものは」という歌です。

 お金をどのように用いるかについては、イエス様ご自身が「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイ6:19,20)と語られました。ヤコブはイエス様の兄弟として、この教えをしっかりと覚えていて、この勧めをしたのではないかと思われます。

 


C.富める者の不正(4〜6節)

 

4 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。

5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。

6 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。

 

1.搾取の罪

 4節には、「見なさい。あなたがたの畑(ルカ12:16と同じ言葉)の刈り入れ(穀物の)をした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主(サバオテの主=多くの軍勢を従えて戦う神、不義を罰し、正義を救う神)の耳に届いています。」とあります。悲しいことです。

 刈り入れのときは、猫の手も借りたいほど忙しいときなので、多くの人をやといます。そして、日没までに賃金を支払わなければならないと聖書に書かれています。旧約聖書申命記24:15には「彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。」と書かれています。

 皆様の中に日雇いで人を雇っている方はいらっしゃらないでしょうが、私は宣教師時代には日雇いで人を雇っておりました。一人の日当が日本円で約30円でした。彼らは一日の労働が終わるときに、その報酬を期待して、それでトウモロコシの粉を買おう、野菜を買おうと期待しているのに、今日はお金が無いから明日にして下さいと言ったら、その人はどんなに失望することでしょう。ですから、私はこの申命記の御言葉から、どんなに忙しくても、支払うべき報酬はおつりなしで用意するようにしておりました。それができなければ人を雇ってはならないのです。

 ところが、その支払いを後延ばしにしている人達がいて、そのためにお金持ちになっていた人がいたというのです。残念ながら私が奉仕をしていたケニアにもそのような人達が沢山いました。ケニアコーヒー組合というのもその悪しき例で、人々が生産したコーヒーを納めると、受け取ったという紙だけを渡して、実際のお金は一年ぐらいたたないと入金せず、その間の金利でうるおっていました。そこで日本人の実業家でコーヒーを扱っている人が、納品されたらすぐに銀行口座にお金を振り込むことを方針として、農家の人達の信頼を勝ち取って、大きな成功を収めていました。彼は、もうけたお金の一部を農家の人々に奨学金として与える事もされていました。彼は残念ながらクリスチャンではありませんでしたが、そのような良いスピリットを持って海外でビジネスをしたなら、まだまだチャンスがあるのではないでしょうか。残念ながら、彼はあまりに成功したので、ケニアコーヒー組合に命を狙われていました。

 話が少し脱線しましたが、ここでは金持ちが弱い立場の人に給料を満足に支払わない不正が糾弾されています。

 

2.贅沢の罪

 5節には、「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とあります。もちろんクリスチャンの人達が贅沢にふけるということは無いとは思いますが、世の風潮に流されて、贅沢があたりまえという現代の贅沢病にかかっている心配はないでしょうか。グルメという言葉がはやっています。それが全て悪いとは言いませんが、あまりにも世界中の美味しいものを日本に集めてしまって、他の国の経済を貧窮におとしいれることがありうるということも忘れてはなりません。

 

3.暴虐の罪

 6節には、「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」とあります。

 ここで語られているのは、法廷における富める人達の暴虐です。法廷では貧しい人が正当な法廷費用も払えず、弁護士も雇えないのに、金持ちは優秀な弁護士を雇い、裁判官は高額の賄賂を贈って、自分の願った方に判決を引き出すことが出来ます。ここでは、そうした意味での横暴について語っています。

 現代では、そのようなことが目に見える形で行われる事はあまりありませんが、似たような不正はそこかしこで行われています。ヤコブはこうしたお金持ちの不正を攻撃しました。

 


終わりに

 ヤコブは金持ちを糾弾しましたが、それでは、マルクスが述べたように「万国の労働者よ、団結せよ。」といって、資産階級を滅ぼし、搾取のない公平な社会制度を確立すれば良いのでしょうか。20世紀は、この為の実験がロシア、中国を始め多くの国でなされた世紀でしたが、皆失敗でした。全ての人を平等にしようと目指した社会制度はうまくいきませんでした。何故なら、人間の根元的な欲望や自己中心的な性格に手を着けずに、制度だけ変えても、かえって腐敗を生むだけであることを歴史は証明しました。

 そうではなく、ヤコブは主ご自身が支配してくださることに、目を留めなさいと勧めているのですが、ヤコブの結論に行く前に、詩篇37篇、73篇を見て、聖書はこのような世の不義、不正にどう答えているのかを見てみたいと思います。

 まずは、詩篇37篇です。

37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。

37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

 信仰者が世の不義、不正に対したときにとるべき態度がここに記されています。「腹を立てるな。怒るな。」ということです。それでは私達は不義、不正を黙って見過ごすべきなのでしょうか?そうではありません。聖書はある場所では、不義、不正に対してはっきりとNo.といいなさいとも語っています。しかし個人的な意味で腹を立てるなと語っているのです。そして、主の審判が必ず成されると言うことに絶対の信頼を持ちなさい。それが信仰者の態度です。

 次に詩篇73篇です。この作者は、不義を行う人々が栄えているのを見て非常に悩んでいます。3、4、7節にはその悪者達の生々しい描写がなされています。

73:3 それは、私が高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。

73:4 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。

73:7 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。

 では彼の解決の道は難だったでしょうか?

73:17 私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。

 何故不正を行う人が栄えているのか、という葛藤は私達の日常生活にもあふれています。彼は神の聖所に入る事によってその解決を得ました。

 今度はヤコブに戻りましょう。

 ヤコブの答えは、7−11節に述べられています。来週この忍耐の学課について詳しく述べたいと思いますので、今日は詳しくは触れません。ただ7節の前半を今日の私達へのメッセージとして捕えたいと思います。

7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。

 ヤコブにとっては、この世の全ての不義、不正を裁くためにイエス様が来られるのが間近であったので、その近さの故に耐え忍びなさいと語っています。近いといっても2千年もたってしまったではないかとおっしゃる方があるかもしれませんが、主の時間は一日が千年のようなものです。しかし、現在私達は、客観的な種々の情勢から、主イエス様が来られることが間近であることを感じることができます。私達は、主イエス様が来たりて、この世の不義、不正を裁かれるのが間近であるという期待をもって、悪が横行している世の中を、忍耐と感謝をもって耐え忍ぶ事ができると思います。これがヤコブの語ろうとしているメッセージです。

 さらに、私達は金持ちの立場に立つこともあり得ます。そのような場合でも、自分を楽しませるための蓄財や、老後を保証するための蓄財では無くて、主のために、また必要としている多くの姉妹のために活用する積極的な金銭観を持ちたいと思います。

 お祈りいたします。


Message by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on August 15, 2001