礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年8月19日

ヤコブ書連講(19)

「祈る教会」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書5章13〜20節

中心聖句

5:13  あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

(13節)


はじめに

 司会者にお読みいただきましたけれども、もう1度、ヤコブ書5章13節をお読み致します。

5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

 ヤコブの手紙の中で1番素晴らしい場所ではないかと思います。ヤコブ自身は「祈りの人」であったという言い伝えがあります。そして彼はいつもひざまずいて一生懸命お祈りしたものですから、膝のところにタコが出来てしまって、何かラクダの毛皮のようになってしまっていた、という風に言われているほどであります。

 ですから、ヤコブは今まで色々な勧めをしておりますが、ここの場所で非常に力を入れて、お祈りの勧めをしております。

 今日は、お祈りの勧めについて、13節から18節あたりまで、4つの角度からまとめてみたいと思います。


A.事ごとに祈る(13,14節)

5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

1.苦しむときも

 ここでの「苦しみ」は10節に記されている「苦難」と同じ語源から来ています。そこに前の文節との連続性があります。人生には多くの苦しみが付き物です。特に正しい生活をしようと思う人にその度合いは強いものです。

 大事なことは、その度に主に叫び求めると言うことです。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)とある通りです。苦しいときの神頼みと良くいわれます。

 苦しいときは、普段神を意識しない人々でも、真剣に神に向き合うことがあります。マナセ王は実に不信仰の固まりの様な傲慢不遜な王でしたが、自分がアッシリヤの将軍たちによって鉤で捕えられ、青銅の足かせにつながれて、バビロンへ引かれて行った時、主を呼び求めました。「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(歴代誌第二 33:12,13)と記されています。

 マナセでさえも祈ることが出来、その祈りが答えられたのですから、私達が祈れない訳がありません。

 神の側からこの出来事を見ると、私達があまり祈らないので、神に頼ることを教えなさる為に苦しみを許しなさる、という風にも考えられます。「苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

2.喜びの時も

 クリスチャン生活には、苦しみだけではなく、喜びの機会も多くあります。いや喜びに満ちているのがクリスチャン生活です。

 その時、ただ心の中で嬉しいなあという気持ちを持つだけで留まらないで、全ての恵みの源である神を賛美しましょう。この賛美するとは、プサレトーという言葉で、爪で弾くといういみです。ここから弦楽器を奏でるとなり、また、弦楽器に合わせて歌う詩篇(プサルム)を意味するようになりました。しかし新約では讃美の歌を歌うこと一般に用いられました。

 私達は、詩篇に限らず、色々な歌で主を賛美したいものです。先月「ひむなる」が発行されました。そこには多くのプレイズソングが含まれています。今までの讃美歌はどちらかというと「懼れ多くも讃美をさせて頂きます」といった間接表現が多かったのですが、プレイズソングはもっとストレートに神を讃え、讃美する調子が出ていて、私は好きです。

 私達の生活でも、個人の祈りでも、集会でも、讃美歌という歌を歌わせて頂くのではなく、直接に主を讃美しましょう。

3.病の時にも

 病は殆ど全ての人が大なり小なり経験し、そして私達の魂をも悩ます苦しい経験です。

 病はどうして始まるのでしょうか。何かの罪がその背景にあるのでしょうか。そういう場合もあります。不摂生の故に、体を壊すことはあり得ます。ですからその場合には癒しだけではなく、赦しが必要です。でも不摂生だけではなく、生まれつきの病弱といったいわば不可抗力的なものも原因します。また、ヨブの場合のように、サタンが(主の御許しの範囲内であるとは言え)健康を打つ場合もあります。

 ケースはいろいろですが、共通しているのは、癒すのは主である、という点です。「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト記 15:26)とある通りです。では神が癒しなさるのならば、医者や薬は要らないのでしょうか。神は祈りに答えてあらゆる場合に癒しなさるのでしょうか。聖書は、必ずしもそうではないと答えています。

 多くの聖書学者はヤコブが「油を塗って」という表現をしているのは、油を塗ることが当時の病気治療法の一つであったからだ、と説明しています。ユダヤでは衛生上、医学上の理由から油が多用されていました。特に傷口を癒すために油が塗られました。ヤコブは当時のユダヤ人の風習をそのまま取り入れて、「油を塗って」と言ったのであって、特に深い意味はないとクラークは言います。彼は自然の療法と神的療法の併用を説いたと考えられます。

 今日では著しい医学の進歩の結果として、病気の原因や治療法が確立して来ました。では、神は医療から閉め出されたのでしょうか。そうではありません。人間は医療の助けをすることが出来るが、癒しなさるのは神です。テヌウェク病院の標語は、<We treat, Jesus heals.>(私たちは処置をします、癒すのはイエス様です)。

 神的な癒しをもたらすものが祈りですが、その祈りを助ける存在としてここで登場するのは長老達です。長老達とは、その当時の地域教会のリーダーのことです(使徒11:30,14:23)。彼は偉大な仲介者であるキリストを通して神の力を持っていました。今日で言えば牧師の立場にあったものです。


B.信仰をもって祈る(15節)

5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたならその罪は赦されます。

1.信仰の祈りは人を癒す

 神は私達が健康体をもって神に仕え、神の栄光を顕わすことを望まれます。ですから、信仰による祈りが人を癒すのです。信仰によるとは、祈りは聞かれる、という信仰です。もう少し分析すると、

 1)神はおられるという信仰

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

 2)神の愛への信仰

 「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。」(詩篇 119:68)

 3)神の全能への信仰

 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)

 4)神の顧みへの信仰

 「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。」(詩篇 94:9)

 5)「祈りは既に応えられた」との信仰

 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)

 の諸点が含まれるでしょう。このような分析は出来なくても、長い真剣な祈りを実際に続けると、説明でなく分かるものです。

2.罪も悔い改めと信仰の結果として癒される

 さらに、病が不服従の罪から起こされた場合で、その罪が残っているならば、その罪も悔い改めと信仰の結果として癒されます。もし罪が処置されず、癒しだけが起きた場合、その健康体をもって再び悪さをする可能性があるからです。中風の人の病が癒される前に「子よ。あなたの罪は赦されました。」(マルコ2:5)と言われたケースが、その真理を示しています。

3.信仰と祈りは病人の回復の為の道具

 信仰と祈りは病人の回復の為の道具です。しかしそれとても働かないことが有りえます。信仰や祈りが不十分だからでしょうか。あの祈りの勇者であったパウロでさえも自分の病の癒しの為に三度も(恐らく断食と徹夜の)祈りを捧げましたが、癒されませんでした。病の中に留まる事を通しての恵みもパウロが学ばねばならなかったからです。また、神はその深い思し召しの故に病人の魂を病を通して取りなさることも有り得るからです。

 もし全ての病が癒されるとするならば、この地球は健康な人で溢れてしまって、却って住み難くなるでありましょう。信仰の祈りには、神の摂理を乗り越えてまで働くものではないというへりくだった理解も必要です。


C.互いに祈る(16節a)

5:16a ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。

1.互いに祈り合うこと

 「互いに」と言う言葉の中に水平的な人間関係が浮かんで来ます。14節には教会の長老たちと言う言葉もあるので、彼らの登場すべきケースも存在したことでしょう。しかし、一般的には、互いが祈りあったという習慣が初代教会の中にあったことを示唆しています。

 それは告白を伴う率直な祈り合いでした。告白とは、ギリシャ語でエクソモロゲオーと言い、告白しつくす、包み隠さず、フランクに、公に言い表す事を意味しています。罪の内容まで立ち入った告白の伴う真実、正直、率直な祈りが必要なのです。

 告白しつつ祈ることは、交わりの深い形でした。これは魂が謙遜に満ち、さらに、注意深くなければ得られない事でした。このような祈りが出来るのは本当の友達とでなければなりません。逆に言えば、このような祈り合いが出来ないのは本当の友とは言えません。

 注意して頂きたいのは、長老に対して告白しなさいと記されていないことです。いわゆる懺悔ではありません。兄弟達同士でこのような心開かれた交わりがなされる場所、それが教会です。またその様な教会でなければなりません。

2.互いの為に祈ること

 「互いの為に」という言葉の中から、互いの信仰の(回復の)ために祈るべき事を教えています。教会の横なりの関係の大切さがここでも伺われます。真実な愛は互いの為の祈りに現れます。


D.熱心に祈る(16節b、17節)

5:16b 義人の祈りは働くと、大きな力があります。

5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

1.義人の祈り

 「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」という文章は、直訳すると「正しい人の祈りは機能していて、大きな力を発揮します」となります。

 エネルギッシュな祈りとは、神のエネルギーによって働く魂の躍動としての祈りを示唆しています。神は祈りの答えとして(のみ)み業を進めなさるのです。

 正しい人は、聖書によれば元々存在しません。しかし主イエスの贖いによって私達は正しいものとされます。そして、心の中に知れる罪を持ったまま祈ることは、その祈りの力を減殺してしまいます。

 ダビデは語っています、「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」(詩篇 66:18〜20)

2.エリヤ:力ある祈り手

 力ある祈り手としてエリヤが紹介されます。エリヤとは、北イスラエル王国の全盛時代、BC9世紀前半に活躍した預言者のことです。彼は、当時イスラエルにはびこっていたバアル礼拝という偶像教、そしてそれを指導していたアハブ王と妻のイゼベルに真っ向から立ち向かって、真の神ヤハウェ信仰の確立のために戦った英雄でした。

 彼の風貌も行動も並大抵な人物ではありませんでしたが、ヤコブはエリヤを私達と同じ人間と言っています。特に奇蹟の後の挫折を見ると人間エリヤの弱さをまざまざと見せつけられます。しかし、ヤコブが1点、エリヤの祈りを強調しています。

3.エリヤの祈り

 エリヤの祈りについては、二つのケースが紹介されています。

 第一は、祈りによって雨を止める、というケースです。雨が止まるようにとの祈りは列王記には記されていません。しかし、「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。』」(列王記第一17:1)という言葉の背後に彼の真摯な祈りがあった事は容易に想像できます。

 バアル神は豊饒の神で、雨を降らせ、実りを与えると信じられていましたから、その迷いを断つためには、飢饉が一番効果的なパンチだったからです。この為に祈ったエリヤは、確信をもってアハブ王に近づき、雨の降らない宣言を行うのです。

 さて第二のケースは祈りを通しての大雨です。この祈りは列王記第一 18:41〜45に記されています。この祈りについて、列王の記事とヤコブの解説から、以下の点を学ぶことが出来ます。

 1)それは、可能性を現実に近づける祈りであった

 雨の音を聞いただけで、満足してしまわないで、本当に雨が来るまで祈り続けました。

 2)それは、肉体の疲労にも拘わらず捧げられた祈りであった

 一日の激しい戦いを終えて、リラックスしたかったその自然の肉体の欲求を抑えて、祈りに励みました。

 3)それは、熱心な祈りであった

 エリヤは膝に頭を入れて祈った。そこに彼の熱心な祈りの習慣をかいま見る思いです。

 4)それは、執拗な祈りであった

 エリヤは7回も祈りました。

 ヤコブは、祈りに祈ったとそれを表現しています。私達も、あっさりした祈りではなく、一つのことをしつこく祈る必要があります。これは主イエスが「無意味な、無内容な祈りを繰り返すな」とおっしゃったことと矛盾しません。同じ主イエスは、諦めないで執拗に祈るべきことをルカ18章で語っておられます。


終りに

 締め括りたいと思います。

 エリヤのような祈り手、義人が祈ると大いなる力があります。どうか私たち1人1人が、この祈りという素晴らしい宝を、武器を全然使わないで、錆びさせていないだろうか反省し、「祈らざる罪」ということをサムエルは語りましたが、祈らざる罪から守られたいと思います。

 そして1つ1つの問題のたびに祈る者であり、祈りにもっと時をもちいたいと思います。この礼拝を通して、私たちが祈りに対する渇き、熱望が増してくださったならば、どんなに素晴らしいことでありましょうか。

 この祈りの習慣をどうか身に付け、それによって応えられるというところの輝かしい証しを携えて信仰生活を送らせていただきたいものであります。

 もう1つ申し上げたい。それは、祈祷会ということであります。

 祈る教会、互いに祈りなさい、互いのために祈りなさい。これが発揮されるのはどこでしょうか。祈祷会ですね。

 「祈祷会は忙しくて出られません」、「祈祷会は○○のため出られません」、ご事情があることは十分理解致します。けれども、出ないもの、出られないもの、と決めてしまわないで、どうか、出るために祈ってごらんなさい。そして、出られる機会があった時には時間を勝ち取って、おいで下さい。最後の5分間であっても、共に祈るということの力、喜び、これを体験していただきたいと思います。

 2つのことを申し上げて、お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2001.8.19