礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年9月2日

ヤコブ書連講〔20〕

「迷いからの回復」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書5章19-20節

中心聖句

19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、

20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

(19,20節)


始めに:

 今年から始まったヤコブ書の連講が、今日で終わりとなります。ヤコブ書は5章からなりますが、それを20回に分けてお話してまいりました。その中にはクリスチャンが歩むべき実際的な内容が語られています。

 前回は、13節から18節までの中から祈りについてのヤコブの教えを学びました。

 今日は19節と20節から、「失われた人々の回復について」学びます。これは伝道の問題であり、かつては信仰の内に歩んでいた人を回復させるという問題です。

 ところで、前回の祈りの学課は、エリヤの模範で終わりましたが、少し簡単に成りすぎたので、今日もう一度その要点をふりかえってから、今日の学びに入ります。と申しますのは、それが今日の19節、20節に密接に関連しているからです。

 


A.エリヤの祈り(17、18節)

17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

1.エリヤも私達と同じ人間

 一生懸命にお祈りした人の模範として、エリヤが紹介されます。彼は旧約聖書に出てくる預言者でしたが、バアル礼拝という偶像教に立ち向かうために、神がたてなさった預言者です。

2.エリヤの祈りの働き

 彼はバアルとその妻イゼベルに審判を下しました。そして彼らが改めない限り、雨は降らないと宣言し、彼が雨が降らないように祈ると、3年6ヶ月も雨が降りませんでした。大変なことです。そして人々が飢えと苦しみの絶頂にあるときに、彼はバアル教の問題点を指摘し、人々がそれを聞き入れて改めたのを見て、今度は雨が降るように祈り、大雨を降らせたのです。

3.その特色は執拗さ

 昨週触れませんでしたポイントは、それが執拗な祈りであった、という点です。

 エリヤは7回も祈りました。それも膝を頭の間に入れて祈ったとあります。

 祈りはどこででもでき、またいろいろなやり方があります。プレヤウォークと言って歩きながら祈る事もできます。ひざまずいて祈る事もへりくだりのために必要でしょう。旧約の時代には手を上げて祈るのが一般的でした。

 エリヤの場合には膝をかがめて、そこに頭をつっこんで祈りました。それは、彼の真摯な姿、へりくだり、執拗さ、熱心さなどを表しています。

 エリヤは普通の人でしたが、一生懸命に祈ったところだけが他の人と違っていました。私達も一生懸命に祈れば、必ず主は答えて下さることでしょう。これっがヤコブが私達に語ろうとしているメッセージです。

4.19、20節の魂の回復との関連

 さて、この執拗な祈りの大切さが背景となって、失われた者の回復という今日の19、20節のテーマが始まる訳です。

 


B.迷った者の回復(19,20節)

 

19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、

20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

 この文章が言わんとしている事を3つにまとめますと、1)迷い出る者が存在しているということ、2)その人達をどうしたら救い出すことができるかということ、3)その事にどんなに大きな意義があるかということにまとめることができると思います。

1.迷い出る者の存在

1)キリストの福音を知った者がその道から逸脱

 「真理から迷い出た者がいたとして」と、ヤコブは仮定の様な言い方をしていますが、残念ながら初代教会にも、かつて良き信仰をもっていた人々が信仰の道からそれてしまった人が実際はあったと思われます。それを知ると、昔の人も苦労していたのだなあと慰められる思いがします。

 第二テモテ2:16〜18には次のように記されています。

2:16 俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、

2:17 彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。

2:18 彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。

 ここではヒメナオとピレトという信仰の道からそれてしまった人を名指しにしております。彼らは信仰の真理に対抗して人々を惑わしていました。

 また、同じ第二テモテの3章8節には、

3:8 また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。

 彼らの場合には道徳的な問題もからんでいたようです。その前の6節には「家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。」とありますように、女性問題で真理からはずれてしまったのです。

 ヤコブ書に戻りますと、「真理から迷い出た者がいたとして」と、ヤコブは仮定の様な言い方をしていますが、残念ながらあちらこちらに起きていたようです。

 初代教会にも、と言いましたが、初代教会であったからこそとも言えるかも知れません。今の様にキリスト教が世界最大の宗教として社会に認知されてはおらず、得体の知れない新興宗教の一つと考えられていた時代ですから、ユダヤ人クリスチャンが、迫害に負けてその道から外れて、元のユダヤ教に帰る可能性は大変多かったと思われます。

2)キリストの福音を知らずに迷っている者にも適用

 勿論、この文節では「迷い出た者」とはクリスチャンが元の世界にもどることを第一義的には意味しているのですが、それだけではなく、神の許から離れた罪人一般をも間接的に指しているものと考えられます。

 例えばイザヤ書 53:6には、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。

 ヤコブが言っている「迷い出た者」にはこの2重の意味があるように思われます。

2.回復への道と手だて

1)兄弟達の仕事

 ヤコブは、「兄弟達よ。」と呼びかけて、回復の業は、兄弟達と呼ばれているクリスチャン一人一人のものである、と言っています。因みに「兄弟達よ」というヤコブの呼びかけはこの書簡に15回も繰り返されています。ヤコブはどうしても聞いて欲しい時には、上から命令するのではなく、「兄弟達よ」と同じ立場の兄弟達として語りかけています。

 そして回復させるのは長老達や牧師だけの仕事ではなく、皆の仕事との意識をもつことをヤコブは強調します。他の人にまかせるだけではなく、一人一人の責任なのです。

 2)動機は愛

 その動機は愛であり、愛の心から出た祈りと勧告です。

 それは無理やり強制的にではいけません。それでは奪回をすると脅して連れ戻す秘密結社と同じになってしまいます。

 私達は愛のみによってそれをするのであって、プレッシャーを与えることではありません。

3)祈りと勧告

 おの一番の方法は祈りです。先ほどエリヤの祈りを学びましたが、多くの人々を主に導く事、導き返す事のためにはエリヤのような真剣な祈りが最大の方法です。

 今、教会では月に一度ではありますが信仰から離れてしまった兄弟姉妹方の為に執りなす半徹夜祈祷会が持たれています。それは決して無駄な努力ではないことを色々な形での祈りの答えによって確信しています。

 祈りこそが魂を連れ戻す最大の武器です。主の恵みによってそれは可能になります。これは伝道にもあてはまります。

 佐藤雅文氏はその「祈りの生涯」という著書で「祈祷伝道」を「祈祷を伝道の根本として驀進していく伝道」と定義してこれを提唱しています。真実な祈りこそ効果をもたらす伝道、どんな事情でも、どんな相手にでも、誰でも出来る伝道と語っています。

 私達の周りにはいろいろな人がいます。社会的に偉い立場の人で、簡単には話しもできない人、道徳的に落ちぶれていて、イエス様の話しなどには耳もかさない人、また何度も聞いたのでその話はもうしないでという人もいるでしょう。でも祈祷伝道ならそのような相手に対しても、誰にでもできる伝道です。私達はこの秋だれかのために、真剣に祈りたいものです。神様はきっとその祈りに答えて下さいます。

 教会歴史の中で偉大の人物であったアウグスティヌスは、アフリカのカルタゴに生まれ、父は法律家、母は熱心なクリスチャンでした。彼は父の道を追って法律の学校へ進みましたが、学校で覚えたのは勉強ではなくて遊びでした。不道徳な生活を送って父母の期待にそむく生活を続けました。彼の母は息子を何とかして信仰に導こうとして、アフリカからイタリアのミラノまで来て祈りました。

 ミラノの教会のアンブルシウムという牧師は、彼女を「涙の子供は滅びないよ。あなたが涙を持って子供のために真実に祈る時、子供は滅びないよ。」とって励ましました。そして彼女は真実な祈りをささげ続けました。

 それが通じたのか、アウグルティヌスは友人のパーティでふと心の虚しさを感じ、庭の片隅にたたずんでいると、隣の家の女の子の手毬歌が「とりて読め、とりて読め」と聞こえてきました。彼はそれを神の声として聞き、家に入って聖書を開きました。そこで開かれたローマ書の12章には、「あながたたは暗き業をすてて光の衣を着なさい。」という意味のことが記されていました。彼はそれを見て、今までの放蕩の生活から足を洗い、洗礼を受けました。そしてその後、教会歴史に残る神学者になりました。

そこに至るまでには、母の長い祈りがありました。その祈りが通じたのは、彼が34才のときでした。

 私達も周囲の兄弟、姉妹のために、また信仰の道からそれてしまった人のために、真実に祈りたいものです。

3.回復の意義の大きさ

1)労する人への励まし

 最後にその人々を回復する意義の大きさです。20節にはそのことが繰り返し語られています。「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」と罪人全体を永遠の命に導く大きな転換をもたらすという意義が語られています。

2)永遠の生命の回復

 その意義とは、罪を犯した本人が許され、その魂を永遠の死から、その肉体を滅びから救い出されることは、その魂にとって計り難い意義のあることです。

 永遠の死というのは神からの断絶状態が固定することです。それは大きな悲しみ、悩み、痛みを伴うものであることを主イエス様は何度も語っておられます。

 これはおどしでしょうか。

 永遠の死の反対は永遠の命です。それは単に死んでから天国に行くというだけでなく、神と結びつく事です。ちょうど電車がパンタグラフを通して、電線に結びつくと電気が供給されて動く事ができるように、神と結びつくと、神の愛が私達を満たしてくださり、力が与えられるのです。そうすれば神は永遠ですから、肉体が滅びても生き続けることができるのです。

3)罪が消し去られること

 第二の意義は、多くの罪が覆い隠されること、すなわち、その人がバックスライドしている間に犯した多くの罪を消し去って下さることです。

 ここでいう覆い隠すとは、隠してしまうことではありません。最近警察が不祥事を無かった事にして隠していた事件が報道されていますが、これは隠蔽です。そうではなくて、イエスキリストの血潮をもっておおわれること、贖いということです。イエスキリストの血潮によって罪が無かった事にして下さることです。

 私達も、失われた魂の回復のために励みたいと思います。

 


C.ヤコブとヤコブ書の最後

 

1.ヤコブの生涯

 ヤコブ書はこの「回復の為の働き」への勧告をもって突然終っています。やや尻切れとんぼのような印象を持ちます。ヤコブには「余分なことは言うな。」と叱られそうですが、敢えて彼の生き様と、死に方を補足して終りたいと思います。それは使徒時代の後の教会指導者達の資料から知ることができます。

1)ヤコブは「義人」という愛称で呼ばれており、クリスチャンだけではなく、同胞のユダヤ人からも尊敬されていました。

2)彼は祈りの人であり、その継続的な祈りの故に、その膝がらくだの膝のようになってしまっていました。

3)パウロがローマに送られた後で、彼の殺害を狙って失敗をしたユダヤ人の保守派から迫害のターゲットとされました。そして、ある年の過越の祭のときに、神殿の塔に連れて行かれ、キリストを公に否認することを要求されましたが、彼はそれを断わっただけではなく、「イエスは神の子であり、全能の神の右に座し、再び来たり給う主を私は信じています。」と宣言したため、そこから突き落とされ、暫く生きていたため、石や棍棒で叩かれて殉教してしまいました。

 要約しますならば、ヤコブは人々に勧めたことを生涯賭けて実践し、その為に命を棄てたということです。それだけにヤコブの勧告はとても重みのある発言です。

2.ヤコブ書の特色

 序論でも申し上げましたように、実践を重んじた書簡です。一見、パウロの強調した信仰による救いと相矛盾するように見えますが、それは皮相な見方でしょう。聖書は律法の行いによる救いを強調するパリサイ主義にも、また、良き行いを否定する自由放任主義にも傾かない、「良き行いに顕れる信仰」を強調しています。いかなる時代でも、教理には強いが実践の伴わないクリスチャンにとって、ヤコブ書は価値ある警告の書であり、その意義の新鮮さを失ってはいません。

 


終わりに

1.私達は伝道の秋に向かいます。それがプログラムとして行われるのでなく、どなたかに主を伝える機会として用いたいものです。導く対象を決めて、その方のために真実な祈りをささげるときに主の大きな報いがあることを覚えたいと思います。

2.私の好きな聖句にダニエル12:3があります。「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」

 天国の入り口でペテロさんが立っていて、「あなたは天国に入れますか?」と聞かれた時に、「はい私はイエス様を信じています。」とは答えることができても、「では、あなたは何人の方をイエス様のもとに導きましたか?」という質問には「すみません。努力はしましたがゼロでした。」という場合でも恵みの故に天国には入る事ができるでしょう。けれども多くの人を主に導いたことによって星のように輝くということはどんなに素晴らしい褒賞でしょうか。

 昨週は私達が天国で頂くはずの冠についてのメッセージでしたが、ダニエルは、それを「星のように」と表わしています。星のように輝く永遠の報いを望みつつ、労させて頂きましょう。 

 最後にケニア人のジョークをひとつご紹介しましょう。天国の入り口でペテロさんが、その人が地上でどれだけ多くの人を救いに導いたか、その働きに応じていろいろな冠を渡していました。星が沢山ついている冠とそうでない冠がありました。そこへ多くの人を主に導いた大伝道者がやってきて、沢山の星がついた立派な冠をいただいて満足して天国に入りました。彼が振り返ると次の人はみすぼらしい格好をしたおじさんで、あの人はたいしたことはないだろうと思っていると、何と自分よりも沢山の星がついた冠をもらっているではないですか。ペテロさんどうしてですか?と疑問に思っていると、そのおじさんは実は私はケニアで乗合自動車の運転手をしていたのですと言いました。ケニア人ならここでピンと来るのですが、ケニアの乗合自動車というのは、ものすごく乱暴な運転と限りない定員オーバーと、多くの事故で有名です。旅行していて乗合自動車がひっくりかえっていないのを見たことがないほどです。従って、全ての人は乗る前によく自分を吟味して、深く反省し、今日死んでも天国にいけるかどうか真剣に祈ってからでないと乗れないのです。それで運転手は大伝道者よりも貢献しているというジョークなのです。

 私達も多くの人を主に導く器となりたいものです。

 お祈りいたします。


Message by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on September 8, 2001