礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年9月9日

愛老聖日
祈りの家で楽しむ

竿代 照夫 牧師

イザヤ56章1-8節

1 主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るの ..............は近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」
2 幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。
3 主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官も言ってはならない。「ああ、 私は枯れ木だ。」と。
4 まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
8 ――イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。――わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。


はじめに

今日は愛老聖日で、今までの長い人生を導いて下さった神に感謝を捧げ、今後の人生により勝る祝福を祈る日です。

日本は文字どおり高齢化社会に入って来ました。1978年には子供2人に対して老人が1人の割合でしたが、2022年には子供1人に対して老人2人の割合になるそうです。44年間で老人比率が3倍に上昇する事になります。このような状況で、老齢者にも活動をもっとしていただこうと言う雰囲気になりつつある昨今です。

しかしながら、実際には多くの高齢者は、伝道者の書 12:1にあるように、「何の喜びもない、という年月」を送っているのが実情です。

若い時代には事業、名誉、芸術活動、スポーツ、グルメなどに楽しみを求めるものですが、健康の衰えはそれらの機会を奪ってしまうものです。例えばグルメでは、せっかく美味しいものを食べても総入れ歯ですと昔ほど美味しく味わえない等と言うことが出て参ります。

しかし今日取り上げます箇所で、イザヤを通して主は、このような老齢者の方々にも「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。」と語っておられます。ここで、彼等とはどんな人々か、祈りの家とは何か、楽しませるというないようは何かと言う3つの面を学んで見たいと思います。


I. 「かれら」=疎外された人々

イザヤ56章の位置

1)救い主キリストの贖いを預言した有名な53章に続く数章は、いわばイザヤ書の頂上のようなところで、その贖いの恵が世界中に及んでいく様を示しています。その特徴を良く表しているのが55:5です。

見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、 あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。

2)56章はその続きであって、イスラエル人から疎外されていた外国人も神の救いの恵みに入れられる事、すなわちすべての人への宣教=世界宣教について預言されています。

ここで「かれら」と表現されている人たちには、具体的にはふた通りおります。

1.外国人:

まず第一は、外国人・異邦人です。イスラエルの民は神の処罰を受け、BC6世紀に世界に散らされました。全世界に散らされたユダヤ人は各地でシナゴーグと言われる会堂を造り、安息日を守っていたようです。

散らされる前には不信仰に陥っていたイスラエルの民ですが、外国ではむしろより強く純粋な信仰を守り、安息日もイスラエルにいたとき以上に真面目に守っていたようです。

これが外国人の目に大変興味深く映ったのでしょう、一部の外国人が礼拝に集わせてくれと言ってきたのです。その中には信仰を確立しているほどではないが関心のある求道者的な人々や、割礼を受けた改宗者のふた通りの人がいたようです。

しかしたとえ改宗しても、彼らはユダヤ人とは区別されていて、礼拝は一応許されてはいたものの、神殿の入り口にある「異邦人の庭迄しか入ることが出来ませんでした

ですから彼等は、その偶像を棄て、誠の神に連なってはいても、「主はきっと、私をその民から切り離される。」と不安に思ってしまうことがあったのであります。

私もかつての赴任先であるケニヤで似たような経験をしたことがあります。当時ケニヤは政情が不安で騒動が起きる可能性が高かったのですが、そのような状況の外国人を安心させようと、米国政府関係者がある集会でこう言いました。「皆さんご安心下さい。いつ何が起きても大丈夫なように、米国海兵隊が全ての米国人を輸送できるだけの艦艇やヘリコプターの準備をして待機しております。」これを聞いた米国人宣教師以外の日本人・インド人・イギリス人等の他国の宣教師は「自分たちは置いて行かれるのかな?」と顔を見合わせて苦笑したものです。

2.身体障害者:

宦官とは、昔の高級官僚です。こういう人は王様の近くにいましたが、当時の王様はハーレムを作っていたので周りに美しい女の人がたくさんいました。そういう女性に気を取られないようにと、随分乱暴な話ですが、高級官僚達は去勢されていたのです。このような習慣は、異邦人の政府高官に多く見られました。

この人々は礼拝の座に出ることが出来ませんでした。申命記23:1には、男性たる機能を失った人々は「主の集会に加わってはならない。」と記されています。

(もっともこれは、イスラエル人でありながら異教の習慣に従って去勢し た人に向けられた規定ですから、それなりに意義はあったのですが・・・)

何れにせよ異邦人として生まれ、高い地位につくために男性機能を失った人々は、「ああ、私は枯れ木だ。」といって、自分の肉体の弱さ、自分が子孫を残せないという悲しみに加えて、生ける誠の神を信じる信仰者の群れに加えて貰えないという寂しさをかこっていました。

私達も健康が衰えたり、集会にも出られない環境になりますと、自分は価値がない、枯れ木のようなものだ、何の役にも立たないと自分を卑下したくなります。


II. 「祈りの家」=神による受容

しかし、主はここで「失望してはならない。」と語られます。このような人々でも、私は受け入れるよと、その道を示していて下さるわけです。ではその内容をもう少し詳しく見て参りましょう。

1.神を畏れた生活

1)安息日を守ること:

安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。」と2節に記されています。

また、4節にも「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには」とあり、6節にも「また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら」と安息日を休息と礼拝の為に清く保つことの大切さが強調されています。

ただ形式的な安息日遵守ではなく、そこに現われる敬虔のスピリットの大切さが訴えられています。

2)悪事に手を出さない:道徳的に正しい生活

3)神の喜びを喜ぶ

4)契約(律法)を保つ

2.祈りの家

1)神はこうした真実な心を持った礼拝者を受け入れなさいます。その現われが、神の家(神殿)の内側で礼拝する自由を与えるという神の約束です。従って主を礼拝する人が、日常生活において愛の足りない人であったり、何か取っつきにくい冷たい人だったりするはずはないのです。

2)なぜそのような約束が与えられたのでしょうか。その理由は、神殿はイスラエル人に独占されるべきものではなく、全ての人が、自由に近づいて、自由に礼拝することが出来る場所として建設されていたからです。

全ての人の為の祈りの家」という表現の中で強調されているのは、「全ての人」という言葉です。神の前には人種も、性別も、年齢も、社会的地位も、身体的なハンディも何も関係なく、その心の真実さだけによって受け入れられるのです。

神の前には一切の区別はありません。主は完全なバリアフリーを宣言されています。教会もこのような完全なバリアフリーでなければなりません。全ての人が歓迎されるのが教会です。

3)「使徒の働き」の8章に、エチオピア人の宦官がエルサレムに礼拝に詣でた記録がありますが、もし申命記の教えが守られていたなら、この宦官は礼拝所には入れなかったはずです。このことは、当時このイザヤ書の預言が適用されていて、宦官であった彼も礼拝が許されていたものと思われます。

エチオ ピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。」(8:28、 29)


III. 「楽しませる」=本当の喜び

イザヤを通して主は、「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。」と語っておられます。

祈りの家とは、しかつめらしく厳かに礼拝するが、ちっとも面白くない営みと多くの人は考えているようです。長い礼拝に出席して、結果として得たのは「忍耐のレッスン」だけだったというのは何とも残念なことです。

でも主は、そこで「楽しませる」(ASVで はmake them joyful, ヘブル語ではサメクでcause to joy)と語っておられます。どんな楽しみでしょうか。

1.神との交わりの喜び

それは、神ご自身を、そのご人格の故に、またこのお方とのお交わりの故に楽しむ楽しみです。この喜びは他のどんな喜びにも勝るものです。

ダビデは、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)と言い、また、詩篇 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は 喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(同8、9 節)と言い、また「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」と言っていま す。

ダビデは全てのことに恵まれていた人物でしたが、その全てを上回って主に礼拝することが喜びであったのです。このように何よりも、主のご臨在が私達の魂にとって大きな楽しみ、喜びです。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇2 7:4)という実に単純素朴な願いをダビデはもっていました。

それは神の宮において神と交わり、その恵みを味わう営みを一生続けたい、というものでした。それは「主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける」ことでした。

言葉を替えていえば、主ご自身との生き生きした交わりを楽しむ霊的な心の営みでした。ダビデはその厳しい政治的、軍事的、家庭的環境の中にあって、何としても静かな時を持って、主のご臨在の麗しさ、恵み深さ、力強さをしっかりと捉える必要性を痛感していたのです。

2.神の民と交わる喜び:

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、な んという楽しさであろう。」(詩篇 133:1)

祈りの家における喜びとは、主にある兄弟達が共に主を賛美し、喜びと悲しみを分かち合う家族の交わりにまさる真の交わりです。今日ここに共に集っていること自体がどんなに素晴しい喜びでしょう。そして、この喜びは、やがての日、天国で相集う素晴しい交わりの予行演習なのです。

3.神に記念される喜び:

「5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

共同訳では 「息子、娘を持つにまさる記念の名を私の家、私の城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」とあります。

宦官は自分の子孫を残せないという大きな悲しみを持っていましたが、神は彼等の名前を消し去らず、永遠に刻み付け、記念なさるお方です。

4.神の業に携わる喜び:

イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。――わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」(8 節)

全世界の民が集い来る預言がなされています。これはいわば世界宣教の予言であるとも言えましょう。また、イスラエルについては、捕囚からの回復のみならず、終末におけるより広範な世界からの帰還が預言されています。


終りに

健康の問題があって、毎回の礼拝出席が困難であっても、私たちの体を主は神殿として下さいますので、この神殿で礼拝し祈ることが出来るのです。

そして、この教会が世界宣教の礎となるようにお祈りして下さると幸いです。

わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。

この約束は、私達に大きな励ましと希望を与えます。主ご自身が与えて下さる楽しみ、喜びを自分の物として頂いて、残された人生を喜びをもって進もうではありませんか。


Message by T. Saoshiro, Edited by K. Ohta on Sept. 9th, 2001