礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年9月16日

臨時教会総会に臨んで

「主の戦い」

竿代 照夫 牧師

出エジプト記14章1〜25節

中心聖句

14:13  それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。

14:14  主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

(13、14節)


はじめに

 司会者がお読み下さいました出エジプト記14章、今日の中心的聖言であります13節と14節をもう1度、お読み致します。

14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。

14:14 があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 今日は特別な意味をもった教会総会を迎えておりますので、普段の連講から離れ、摂理的に丁度ヤコブ書も連講が終わっておりますので、今日はこの出エジプト記の14章を取り上げることに致しました。

 この中におけるところの真理は、「主は民を導きなさる」という出来事であります。これはイスラエルの長い歴史の中で示されたところの真理です。

 特にその中でも顕著なのが出エジプトと呼ばれるイスラエルの民が奴隷の中から逃れてカナンの地、今のパレスチナの地に導き入れられたところの出来事であります。

 神はエジプトに多くの災いを下し、イスラエルの解放を実現させ、更に紅海を二つに分けてその民を導きなさいました。この出来事は詩篇に於いては繰り返し言及されており、いわばイスラエル建国の基礎となった出来事です。

 今日はこの出来事の中でモーセが13,14節に語った言葉から、「主の戦い」について学びたいと思います。それは、会堂問題に直面している私達にとって大切なメッセージを含んでいると思われるからです。ここから、主の戦いの中に含まれる意味合いは何か、そして、私達の取るべき態度・行動について学びたいと思います。


A.主の戦い

1.主が始められた戦い

14:2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。

14:3 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。

14:4 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。

 この戦いは基本的にイスラエルとエジプトとの戦いなのですが、第一に覚えなければならないことは、これは主が始めなさった戦いであるという点です。モーセとイスラエルが好んでエジプトと戦った訳ではありません。

 状況を詳しく見てみますと、主がある目的をもって彼等をそのような環境に導きなさった、と考える方が適当でしょう。具体的に言いますと、一方に於いて主はイスラエル人を袋小路に追い込み、他方エジプト人の心を頑なにしてイスラエル人を追跡するように仕向けられました。

 その目的とは4節にありますように、「パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」というものでした。神の栄光を顕わすために始めなさったのが神の戦いです。

 私は1998年5月にこの教会の主任牧師として赴任して来ました。その前には勿論、その後にも、会堂移転の可能性については殆ど何のアイデアもありませんでした。その後の様々な会議、交渉、語り合いを通して一歩一歩この段階に導かれて来たというのが正直な感想です。その一歩一歩の中に主の御手を感じ、道の備えられていくプロセスを、恐れと戦きを持ちながら見ているというのが偽らない心境です。

 教会とはどうあるべきかについて、何の見解もビジョンもなく、ただ成り行きでここまで来たと言っているのではありません。教会とは何か、どうあるべきかについては、私達の最高のテキストである聖書と取り組みつつ真剣に考え、それはあるはっきりしたビジョンとして結晶しつつあります。ただそれを性急に今の主都中央教会に結びつけてある方向に進めようと言う姿勢は厳に謹んで来ました。

 今日のこの動きは主の雲の柱の動きであり、それを感じる私達信徒の反応の結果であると信じております。

2.主が進めなさる戦い

14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

 主は大いなる力をもってエジプト人と戦いました。その道は二つです。

 主は紅海を二つに分けて、人の歩く道を作られました。これは正に意想外の、しかも奇蹟的な主のみ業でした。イスラエル人は袋小路に追い込まれ、正に絶体絶命のピンチに直面しました。その時のうっちゃり、逆転劇が紅海を分ける奇跡です。

 こんな馬鹿な事をどうして信じるのか、と近代人は申します。でも私は単純に神は何でもお出来になると信じています。もう少し説明すると強い風が水を二分することは容易なことであり、その風が壁の部分に吹き続ければ、風のない真ん中の部分は歩道となりうるのは実に簡単な事です。勿論その風がこの時に、この方向に、またこの期間だけ吹いたことは正に奇跡そのものではありますが・・・。

 第二の点は、エジプト人をその道に導き入れ、道を困難にされたということです。イスラエル人が渡りきった後、追いかけてきたエジプト人が難儀を始めたとき彼らは、「主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから」と感じて恐れました。その先にはもっと恐ろしいことが始まりました。風が止んで水が戻り、彼らは皆水没したのです。

3.主の栄光の為の戦い

14:31 イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

 主の戦いの結果を見ましょう。

 イスラエルは、神の大いなる力を信じ、賛美し、帰依しました。その歌が15章に示されています。

 1〜3節に「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。」と歌われています。また、14:31には、これを通して民は主を信じ、その僕としてのモーセを信じました。これによってイスラエルが民族としての結束を固めたのです。

 イスラエルだけではなく、敵側のエジプト人も同様でした。対岸で観察していた残りのエジプト人も主の大いなる力を信ぜざるを得なかったのです。人間側の何物の力も働かず、ただ一方的に主の御業、御力によって勝利が得られたという点で、正に「主の戦い」でした。

 私達は今会堂問題に真っ正面から取り組もうとしています。私達の祈りと願いは、私達が喜ぶための場所を獲得するとか、私達が何かを成し遂げて満足するとかいった人間的な目的ではなく、主の栄光が顕れるというただ一つの目的が成就することです。


B.私達の取るべき態度

  確かに主の戦いではありますが、私達の側ではどうあっても、主は独りでに戦いを進めなさるのでしょうか。そうではありません。私達の取るべき態度も大切です。

1.信頼vs恐れ

 1)恐れるな

 13節には「恐れるな」との命令があります。彼等は武器も持たず、戦いの訓練もなされておらず、恐れるのは当然でした。でも、主は敢えて恐れるなと語られました。主ご自身が戦って下さるからです。

 2)なぜ叫ぶのか

 モーセに対しては、「なぜ叫ぶのか」と、戒めておられます。この章でモーセが叫んだという記事は見当たりません。恐らく彼は心の中で、溜息か、呟きか、呻きかを小さな声で囁いたのでしょう。でも主はそれをご存知であり、その中に不信仰の要素が混じっていると、問い質しなさるお方です。

 3)静かにしなさい

 そのモーセは民に向かって、静かにしなさい、と命令しました。私達が徒に立ち騒ぐことは主の働きを妨げることにもなります。特に不信仰の精神をもって騒ぐことは、信仰的な精神をもって事を進めようとする人々への妨げとなり得ます。

 ある船が嵐に遭い、船を救うための懸命な努力が船員たちによってなされました。ある乗客が心配になって、私も助けたい、と船長に申し出ました。船長は断わりましたが余りしつこく申し出るものですから、「そうですね。そう、そのロープをしっかりと引っ張っていて下さい。」と言いました。かれは喜んで、そのロープを握り、嵐の間中懸命になってロープを引っ張っていました。

 やがて嵐が過ぎ、船長がその乗客の所に来て「おかげで船は助かりました。どうもありがとうございました。」と感謝をあらわしました。乗客はすっかり満足して船室に戻りました。船長は小さな声で「静かにしていて下さってありがとう」と付け加えました。

2.服従

 1)杖を伸ばせ

 杖を伸ばすことをモーセは命じられました。杖そのものに魔術的な力があったのではありません。神の業が始まるというシンボルにしか過ぎません。でも神の命令に従うことは神の業を拝するための条件として大切です。

 2)前進せよ

 主はまた、まだ海が分かれていない段階ではありましたが、前進を命じられました。私達は海が分かれたら前進しようなどと日和見的な行動をしがちなものです。でも主は、海は分かれると信じて前進せよとおっしゃいます。40年後に似たような奇跡がヨルダン川で起きました。この時も祭司達の足が水に浸ると同時に川がとまりました。信仰によって前進することが主を喜ばせる道です。


終りに

 教会の働きは主が始められた、主によって進められ、主の栄光のためになされる主の戦いです。

 このことは教会の働きだけでなく、私たちの事業においても、あるいは学業においても家庭においても、すべてにあてはまるところの真理であります。

 「社長はイエスさま」という本を著しなさった方がおられますが、私たちの会社の社長はイエス様です。私たちの学びにおきましても主人公はイエスさまです。私たちの家庭の主人公はイエスさまです。ですから、私たちの抱えている1つ1つの戦いは実は私の問題、私の家庭の問題、私たちの事業が傾いているから何とかしてくれ、ではなくして、主の戦いであるのです。

 どうぞ、きびしい経済状況の中にあって戦っていらっしゃる兄弟姉妹もおられると思います。私が戦っているんだ、神様、何とか助けて下さい、それも大切であります。

 けれども、考えてみると、この事業もイエスさまの戦いです。どうぞ、主が御業をあらわして下さるように。その信頼をもって、事業の戦いであれ、家庭の戦いであれ、すべての戦いに臨ませていただきたいと思います。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2001.9.17