礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年9月30日

聖日礼拝説教

「その所の名はギルガル」

井川 正一郎 牧師

ヨシュア記5章1-12節

中心聖句

9 すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。

(5章8,9節)


始めに:

 今日は聖餐式を伴う大切な礼拝です。聖餐式の意味については過去にもいろいろと教えられてまいりましたが、今日少し復習をしながら、与えられた御言葉に心を留めたいと思います。

 聖餐式は主イエス様が「私を覚えてこれを行いなさい。」と言って定められた恵みの手段のひとつです。聖餐式を通して私達に届けられる恵みには、少なくとも次の三つの面があります。

1) ひとつは、過去的に、罪の赦しと救いの恵みです。

2) ふたつめには、現在的に、信仰の刷新と聖化の成長、徹底ということです。

3) 三つめは、将来的に、来るべき栄光の約束が込められています。やがて天において聖餐にはべることができるという約束を信仰者の心に与えて下さいます。これは必ず実現する確かな約束です。

 このような聖餐式ですが、現在信仰を求めておられておられる方には馴染みにくい面もあるように思われます。またなんとなく仲間はずれにされたような気持ちにもなるものです。しかし、そのような思いではなく、それに加わる日が近くなったというプラスの期待感を込めて式に侍っていただきたいと思います。

 また、自分はふさわしくないと思っておられる方こそ、是非聖餐式に加わって、上述の三つの恵みを確認していただきたいと思います。聖餐式は恩寵の手段です。新しい恵みが加えられ、原点に立ち返ることができるのが聖餐式です。

 聖餐式にあたって、そのようなことに思いを巡らしていた時に与えられた御言葉が本日の聖書の箇所、ヨシュア記の第5章です。

 9節には「その所の名は、ギルガルと呼ばれた。」とありますが、ギルガルがどこにあるかと申しますと、モアブの地からヨルダン川を渡った民が、これからエリコを攻めようとするそのすぐ近くにあるのが、ギルガルです。ヨルダン川を渡った民の最初の宿営地がギルガルでした。ギルガルにはヨルダン川を渡った記念の12の石が建てられました。

 ヨルダン川を渡ってエリコを攻める前に、きちんとした準備がなされたのがこのギルガルという場所です。

 ギルガルはイスラエルの民にとって重要な場所です。士師記には、主の御使いがギルガルからボギムに登ってきたという記事が記されていますし、サムエルは、毎年、ベテルやギルガルを巡回したと記されています。またサウルはギルガルで王権を授けられました。エリヤやエリシャの時代にはこの場所に預言者学校があったといわれています。

 本日はギルガルがイスラエルの民にとって重要な場所となったいわれは何か、また信仰者にとってそれがどのような意味があるかについてお話したいと思います。


(1).霊的扱いがなされたところ

 第1番目は霊的扱いがなされたところです。

 奴隷であったエジプトから約束の地に向かうイスラエルの民ですが、その路上で罪を繰り返したために、っ第一世代は皆死んでしまい、第二世代だけがヨシュアともにヨルダン川を渡りました。エリコを攻める前に第一に成すべき事は、神様によって霊的に扱われるということでした。

 ギルガルという名前にはころがすという意味があります。また石の輪という意味があるとも言われています。いずれにしてもギルガルは大切な場所でそこは神によって霊的な扱いがなされた場所です。

 A.3つのことがなされる

 そこでは次の3つのことがなされました。

1)割礼

2)過越のいけにえ

3)主の軍の将のあらわれ(軍旅の将)

 今日は3番目の軍旅の将のあらわれについては省きます。

 割礼とは男性の体の一部を切りとって、神との契約がなされた印とするユダヤ教の儀式です。エジプトを出発した割礼を受けていた第一世代は荒野で皆死んでしまい、荒野で生まれた第二世代の者達は未だ割礼を受けていませんでした。

 ヨシュア記の5章4節と5節には割礼が行われた理由が述べられています。

5:4 ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。

5:5 その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。

 荒野で生まれた第二世代の者達は未だ割礼を受けていませんでした。これから新しい約束の地カナンに進もうとするとき、まず成すべき事は神様との関係をきちんとしようということです。

 さらに過越のいけにえがささげられます。過越の子羊の血を鴨居に塗ったものだけが、エジプトから脱出することに成功したということを覚える大切な過越の祝いです。

 割礼を受け、過越のいけにえがささげられたことにより、約束の地に向かおうとする民に、神との関係が正しくなされたということが示されます。

B.そしりが「転がして」取り除かれる

 9節には、「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」とあります。エジプトの奴隷時代のそしりが今日全て取り除かれましたという象徴的な御言葉です。過去はきれいに拭い去られ、これからの新しい道に正しい神様との関係を確立しながら進んで行けばよい、割礼と過越のいけにえによって神様との契約の完全な回復がなされたことが意味されています。

 割礼がほどこされたのが敵の目の前であったことに大きな意義が感じられます。割礼によって体が傷つき弱ったところに敵が攻め込んできたらひとたまりもありません。しかし、神様は不思議な御業を成しておられます。5章1節を見てみましょう。

5:1 ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。

 また、6章の1節を見てみましょう。

6:1 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。

 これは激しく抵抗するために堅く門をとざしているのではなく、イスラエルの民の前にエリコの人々が恐れおののき心がなえてしまっている様子を表しています。そして、神様が準備期間を十分に与えて下さっていることを示しています。これはいつの時代にも真実です。

 傷が癒えるまでの3日か4日の間ではありましたが、動き出す事ができるだけの時間を敵前で神様が与えて下さったことを聖書は示しています。

 時間が無い、時間が無い、いや時間は十分に与えられています。

 割礼と過ぎ越しは、新約ではそれぞれ、洗礼と聖餐にあたるとも考えられます。洗礼は一度きりですが、聖餐はこれからの信仰生活の中で何度も繰り返されていくべきものです。このような霊的な営みが果たされてはじめて、地上の戦いは神様との関係によってなされていくものです。

C.原点に立ち返ること、原点が何であったか悟る

 ギルガルとは原点に立ちかえり、原点が何であったかを悟る場所、また第一になすべきことが何であるかを悟る場所です。

 原点とは何でしょうか?それは神様に、イエス様に立ち返ることにつきます。

 その原点にいつも戻り、そこから出発していくことの大切さが教えられます。

 とうてい勝てそうもない敵が、実はおそれおののいて固く門を閉じられている姿を前にして、信仰の目が閉じられていると、自分には勝つ事が不可能と思われ、あきらめてしまうかもしれません。そのようなときにまずなすべきことは神様の元に戻り、神様との関係を確立することです。あわてる必要は無いのです。霊的な整えをまずなすべきです。

 第一に成すべきことをまず果たすのはなかなか難しいことです。「神の国とその義を第一に求めよ。」というのはわかっていても難しいものです。

 先日本屋で「何故か仕事がうまくいく人の習慣」という本を立ち読みしましたが、そこには仕事に優先順位をつけずに、仕事が与えられたらすぐにやれ、と書かれてありました。私達は案外管理者的な精神をもって優先順位をつけて仕事をするように教えられます。そのようなことをしてはいけないとは書かれていませんが、言い訳をしてすぐに仕事に手をつけないことが多いのではないかとその本は指摘しておりました。以前から頼まれていた大切な原稿でも実際に書くのは一日前というのはよくあることです。

 ギルガルという場所は、自らの信仰を吟味し、確認し、新しくさせていただくことを、いつも第一にするのだということを確認させていただく場所です。神様はそのために必要な時間を十分な時間を与えていてくださいます。


(2)戦いの基点、根拠地となったところ

 第二番目は、それが戦いの基点,根拠地となったところということです。

A.そこから出発し、そこに戻ってくる

 ヨシュアはここに根拠地をおいて、その後の戦いに出ていきました。聖書を順に調べてみましょう。

 まず、ヨシュア記の9章6節には、

9:6 こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、…

 とあります。ギルガルの陣営にヨシュアは留まっています。続いて10章の6、7,9,15,43節には、それぞれ、次のように書かれています。

10:6 ギブオンの人々は、ギルガルの陣営のヨシュアのところに使いをやって言った。…

10:7そこでヨシュアは、すべての戦う民と、すべての勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行った。

10:9それで、ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。

10:15ヨシュアは、全イスラエルを率いてギルガルの陣営に引き揚げた。

10:43それで、ヨシュアは全イスラエルを率いて、ギルガルの陣営に引き揚げた。

 ギルガルが根拠地となって、中央戦線、南部戦線、北部戦線の攻撃に打って出て、またそこに戻ってきています、ギルガルが軍事上、重要であっただけでなく、霊的に重要な場所であったからです。

 根拠地としてそこから出ていき、またそこに戻ってくる場所を原点と呼びます。

 ちょうど私達にとっての教会もそのような場所ではないでしょうか。教会は皆が集まってくるところでもありますが、伝道のために聖き器を派遣する場所でもあります。

B.あくまでも霊的意味における場所

 しかし、あくまでもそれは霊的な意味における場所です。

1)どの場所であっても、ギルガルはある

2)目に見えるギルガルは永遠ではない

3)固執、あるいは偶像化されてはいけない

 ギルガルというのは目に見える場所です。それはどんな場所に移ってもなければならない場所です。しかし、目に見えるギルガルという場所は永遠ではありません。同じように目に見える教会の建物は永遠ではありません。それが神聖化されたり、固執してしまってはいけません。

 創世記26章22節には次のように書かれています。

26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。

 イサクはレホボテを与えられましたが、そこから他の場所に移っています。

 ヨシュア記の5章に戻りましょう。目に見える場所は永遠ではありません。それが偶像視されてはいけません。私達は良い意味で腰軽に主の導きに従って必要に応じて場所を変える必要があります。

 しかし、霊的な意味でのギルガルは確保されるべきです。きちんと霊的な扱いがなされる場所を持ちつづけること、それが第一になすべきことです。

 目には見えなくても、いつもそこに立ち戻る場所、神様との契約場所をいつも持ちつづけるお互いでありましょう。


終わりに

1.立ち返るべきところへ帰ろう=私のギルガルをいつも持ち続けましょう。

2.常に新鮮な「霊的扱い」を受けよう=それはギルガルから派遣されることです。

3.そのギルガルからの扱いが、「きょう初めての心地して…。」

 私は聖餐式は、大切で、慕わしいものと思っています。極端な話、毎週あっても良いと考えています。ふさわしくない自分だからこそ、神様によって霊的な扱いを受ける事ができるのが聖餐式です。どうかお互い、マンネリ化した聖餐式ではなく、「きょう初めての心地して」侍るものでありたいものです。

 そして毎日、聖餐に侍るかのような礼典的生涯を送られていただきたいものです。

 今日のメッセージは「その所の名はギルガル」です。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。


Message by S. Ikawa and Edited by T. Maeda on October 7, 2001