礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年10月14日

「教会の勝利」

ロバート・コールマン 博士

黙示録12章10-12節


中心聖句

10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

12 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

(10-12節)


紹介:

 まず、ロバート・コールマン先生のご紹介をいたしたいと思います。先生はアズベリー神学院をご卒業され、また教鞭を執られました。先生と言うより熱血教授と言う評判の高いお方で、教室が聖別会になったり、生徒を連れて町に伝道に行ったりという熱血の器であります。

 先生はシカゴにありますトリニティーカレッジ神学校で長い間宣教学部長であられましたが、今年の6月に勇退された後、ゴードンコーンウェル神学校にて特認教授として活躍されております。

 個人的にも私(竿代主任牧師)がトリニティカレッジにおいて、ケニヤ宣教師時代に何回か学ばせていただきました。個人的にも何度かお家にお招きいただいたこともあり、非常に大きな恵みを頂きました。今日このようにしてお招きできることを大変喜んでおります。拍手を持ってお迎え下さい。


初めに

今日、この蔦田二雄先生が断たれていた講壇にこのように立てることは大変な光栄であります。蔦田二雄先生は日本だけでなく、世界中で知られた方であります。またトリニティにおいて生徒であった者と講壇に一緒に立つと言うことも大きな光栄です。

皆さんの歌を聴いて、私はすでに大きな恵みを頂きました。それは天国で用いられる言葉でありましょう。若い人たちが歌われた美しい歌には大きな恵みでした。竿代先生がその内容を訳して教えてくれましたが、その内容に大きな感動を受けたのです。

それは主イエス様の救いの業を賛美しておりました。まさしく神の栄光を賛美することが、我々がこの世に生きている大きな意義であります。

今日の黙示録のテキストはそのことに焦点が当てられております。12章をお開き下さい。この黙示録は、その当時激しい迫害を受けていたアジアの諸教会に向けて書かれたものであります。

彼らは、「なぜ神がそのような悪がはびこり、栄えているのか?なぜ教会がそのような継続的な厳しい境遇におかれているのか?」という疑問を持っていたのでしょう。この章は、そのような質問に対する実に単純な解答を示しています。

10節の箇所に声明がありますが、そのちょっと前に悪魔が蛇のような存在であるとか書かれています。この悪魔は、キリストに取って代わろうと試み、そのことによって天から追放されました。彼はキリストに勝つことは出来ませんでしたが、地において性懲りもなく主を賛美する者を貶めようとしているのです。そしてここにはまた、神の教えに従い、またキリストを証ししようとしている人々が説明されております。

私は皆様のなかには、昨今においても、このような悪の存在を感じている方いらっしゃると思います。聖書には、悪は丁度吼え猛る獅子のように獲物を狙っていると書かれています。さらに、この悪魔は主をまだ信じていない者たちの目をくらませて、キリストの素晴らしさから目を離そうとしているとも書かれております。また聖書は、神に選ばれた人たちさえも騙そうと悪巧みをしていると書いております。

これこそ今世界で進行中の戦いです。

パウロも語っておりますが、我々が戦っているのは人間ではなく、悪魔に対してであるのです。つまり神の民を騙そうとしている悪の存在と戦っているのです。神の民に対する敵意は世の終わりに連れて増大するのです。

悪魔はすでに時の終わりが近づきつつあることを知っています。私たちはこのような悪しき見知らぬ者に取り囲まれ、悪魔の攻撃の最中にあります。

しかし、私たちは恐れる必要はありません。10節において天からの声が記されています。

10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

皆さん方は悪の告発に耳を貸したり、悪魔が何をしてくるかに恐れをなす必要はありません

最近、特にアメリカにおいて、テロリストの攻撃がさらにあるのではないかと恐れる人がたくさんおります。私が日本に来るときも、シカゴの空港で恐れをなした乗客のために、1時間も飛行機の出発が待たされてしまいました。客がいなくなったので、彼の荷物も出さなければならなかったからです。

私たちはこのように恐れの中に生きる必要はありません。私たちは悪魔が何が出来るかなど恐れる必要もありません。

この箇所に、私たちの主が悪を既に打ち負かして下さったと書かれているでしょう。悪魔は既に天の御座から追い落とされています。

しかし悪魔はしばしの間、地上の民を惑わす時間が与えられています。彼らは最後には火の中に落とされますが、それまでの短い時間悪さをすることが出来るのです。

しかし、神の教会は勝利するのです。

なぜ、私たちの教会が勝利することが出来るのでしょう。これからその理由についてみて参りたいと思います。


理由1:小羊の血

第一の理由は小羊の血ですが、このことが11節に書かれております。

11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

このメッセージは地上で苦闘する我々に向けて、天から与えられたものです。

最初の宣言は福音のエッセンスを示しております。すなわち「小羊の血によって打ち勝つ」ということです。

この「」ということばは聖書の中に460回出て参ります。それに関連する似た言葉(犠牲など)を含めるともっと出てくるでしょう。この「血」ということばは、主イエスの十字架の代名詞として用いられているものです。この「小羊の血」はつまり「主イエス・キリスト」の血を指しているのであり、これこそ福音の核心です。

何千年もの間、神は民にどの様にしたら救われるかについて教えてこられました。罪の故に我々は死に、みな神の前にさばきを受けます。

しかし、神は自ら創造された民を愛されました。ですから神の民がどの様に救われるかについて、生け贄という制度を通じて教えられました。

生け贄については旧約聖書に多く書かれています。傷のない動物が注意深く選ばれ、幕屋という神殿の入り口で手に掛けられるのですが、その行為によって私たちの罪を告白するのです。そして、鋭い刃物によって動物の喉を切り裂きます。

このことは具体的な目に見える教訓となります。その血は祭壇に注ぎ出されますが、祭壇は神の臨在の象徴です。このことは旧約聖書時代の原始的な目に見える教訓です。

この血は罪に対する罰をあらわすだけではなく、あなた自身を完全に主に捧げると言う献身をも意味しております。

なぜ生け贄が与えられなければならいかというと、それは罪の代償だからです。

もし生け贄を捧げるとしたらその時、皆さん方は罪を無い状態になって、神と和解したいと願っているでしょう。そのことを神様は見ておられるのです。その願いが純粋で完全なものであり、心から神を愛そうという気持ちがあるなら、神様はその心を受け入れて下さるのです。

この愛が全うされるとき、聖書に書かれている律法が全うされるのです。

祭壇の血は、神が生け贄を受け入れたと言うことをも象徴しております。

主イエスは無実でありながら生け贄となりましたが、この時の「血」は、主イエスの臨在の中、あなた方が回復することが願われている、と言うことを象徴しているのです。

これは神は正しく清いお方でありながら、私たちを受け入れなさると言うことを示しておられます。このことによって、神の無謬性が示されているのです。

これらのことは、神との和解がどの様になされるかと言うことを、当時の人々に原始的で目に見える形で教えたものなのです。

このような生け贄は、決して終わらなかったのです。毎日毎日繰り返されました。これはある意味では、神への献身を継続的にあらわすという意義もありました。

しかし、これは後に主イエスの十字架という最後の生け贄によって全うされる事の準備であったのです。過越しの祭りがユダヤの祭りにあり、この時小羊が犠牲になりました。イエスが十字架上でたく殺されたときもこの過越しの祭りの時でした。その時、イエスの血潮が十字架から滴って、プールのようになっていました。

イエスは罪のないお方でしたが、正しくない者のために十字架に身代わりとなって架かり、犠牲となったのです。彼の体は痛みによってもだえ苦しみ、そして最後に「完了した」と叫ばれたのです。何千にわたって準備され、予告されていた救いが今や完成し、成就したとおっしゃったのです。

皆様方はもはや、生け贄のような具体的な儀式をなぞる必要はありません。この主イエスが流された血潮によって、今あなた方は神様と和解することが出来るようになったのです。

私たちは儀式的なものによって救われるのではなく、小羊イエスの血潮によるのです。これこそ福音の核心部分であります。

罪が増すところに、神の恵みも増すのです。イエスキリストの血潮は私たちの罪が及ぶ以上に深く、私たちに及ぶものです。今日ここに、何か心に咎めるものを持っていらっしゃる方はおりますでしょうか?あなたはその咎めの中に生きる必要はありません。

神は正しい真実なお方であられるので、私たちの罪を許し、全ての罪から私たちをきよめてくださるのです。ここにいらっしゃるどなたも、咎めを感じながら今晩ベッドに向かう必要はないのです。私たちはこの小羊の血によって勝っているのですから。それこそが天国から伝えられている福音のメッセージなのです。


理由2:証詞(あかし)の言葉

次に第2の理由を見てみましょう。それは、私たちの「証詞(あかし)の言葉」です。冒頭の引用箇所の中には短いですが大きな真理が含まれています。

これは、救われた者たちの言葉によって、世界が神の福音の言葉を聞くと言うことです。

竿代先生の牧師室に行きましたところ、パネルのところに野球のボールが飾ってありました。そのボールはアメリカ大リーグで活躍しているある日本人選手(=イチロー)のサインボールでした。私は竿代先生が野球が好きだったとは知りませんでしたので、「これは一体なんですか?」と聞きました。

すると、これはある日本のビジネスマンが、ホテルのディナーで証詞をされた時の記念に下さったものだったと教えてくれました。これはなんと素晴らしい福音の伝え方でしょう!

しかし皆さんは別のやり方で証詞をすることができます。あなた方は何もホテルのディナーに行く必要はありません。どこででも、この世の人々に主イエスを証詞をすることが出来ます。

機会があれば、世の人々と愛にある信頼関係を作り、愛の架け橋を作って心が通いあうようにしましょう。その信頼関係の上に、私たちの証詞をすることが出来るようになります。

私たちはみな伝道者・説教者になる必要はありません。イエス・キリストの血によって救われたすべての人が証詞をすることができるのです。その証詞によって、世界のキリスト教会はここまで成長してきたのであります。

ある時イエスは弟子たちを集め、イエスについてどの様に証詞しするか尋ねました。その時ペテロが立ち上がり、「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。

この答えは主イエスを大変喜ばせ、「このことは神の啓示として与えられたことです。この岩の上に私の教会を建てます。」と言いました。このことは素晴らしい証詞でしょう。

ギリシャ正教やローマカトリックの聖書学者は、この岩はペテロの事ではないかと言っています。これは必ずしもそうではないかも知れません。ある人はこれは主イエスを指していると言っています。そのことは確かにそうかも知れません。

より重要なポイントは、このキリストの声明「岩の上に...」がペテロが証詞をした後に出されたと言うことです。信徒たちがキリストの御名を証詞する事によって、教会が拡がることを指しているのでしょう。このようにして教会は勝利するのです。

御座からの声が聞こえませんか?小羊の血と証詞の言葉の故に、教会は悪に打ち勝ったのだと言う声を。


理由3:主イエスへの献身

教会はなぜ勝利するのか、もう一つ最後の理由が語られております。それは主イエスへの献身です。主イエスを主と信じる中で、私たちは死に至るまで献身を続ける者です。私たちは十字架を自分のものとし、主イエスと共に十字架に自分を張り付けにしたのです。

「証詞をする」ということばと、「殉教する」という言葉は新約聖書では共通です。イエス・キリストは弟子たちを遣わしたときに「証詞をしなさい」と語られましたが、つまり「殉教」も覚悟しなさいと言うことだったのです。

しかし中には、まぁそこまでせずにこの世に適当に妥協していこうじゃないかという人もおります。

一方、パウロは繰り返し語っています。皆さんはキリストともに死んだ者、あるいは十字架に張り付けられ、世・罪に対して死んだ者と思いなさいと。

私たちは神のあかし人です。私たちは世に対して宣言をしました。「私たちを愛し、その故に私たちの命を救ってくださった方を、私たちは愛しています。またこの方に属しています。」と宣言いたしました。

私たちはキリストと共に十字架につけられた者です。それだからこそ私たちは悪のさまざまな告発を恐れる必要がないのです。なぜでしょう?それは私たちは罪に対して死んだ者だからです。

私たちの心の中には天国の歌があります。

ある方がアフリカ・ルワンダの宣教地に赴かれました。ここは内乱がずっと続いている国です。

ある時反乱軍の兵士が、ミッションスクールにやってきて、「ついてこい」と命令しました。指導者たちは躊躇しましたが、他の道はなく、トラックに押し込められ、ケダレと言うところに連れて行かれました。ある橋を通り過ぎたとき、車に乗せられた三人の宣教者たちはこの兵士たちが何をしようとしているかがハッキリしてきました。後ろ手に縛られた三人はトラックから出るよう命じられました。

ところが反乱軍の兵士たちの間に議論が起こり、その間に3人にお祈りする時間が与えられました。そのうち反乱軍の兵士が、3人のうちの一人の宣教師ヨマに向かって、「橋の向こうまで歩いていけ」と命じました。

彼は歩きながら賛美歌を歌い始めました。アメリカでも、あるいは日本でも歌われていると思います。

私たちは信仰によって素晴らしい国を見ている。天の御父が私たちのために進むべき道を備えてくださる。私たちはその素晴らしい場所で、向こう側の岸を見ることが出来る。その素晴らしい岸の向こうを。

みなさん歌えますか?さあ一緒に歌いましょう。「...イエスは我の咎を洗い去りて、雪のごとく白くなさせ給う...

素晴らしいですね。ヨマ牧師はこの歌を最後まで歌いきることは出来ませんでした。橋のたもとにたどり着くまでに、彼は撃ち殺され、その屍体は橋の下に蹴り落とされました。

学校の校長先生は次は自分の番だと覚悟いたしました。ところがまた反乱軍の兵士が議論を始めました。そして縄がゆるめられ、「ジャングルに逃げろ。もう帰ってくるな。」と言われたのです。

後日談ですが、その反乱軍の兵士たちが言っていたのは「もう一度あの歌を歌われたら大変だ」と言うことだったそうで、それで残りの二人は解放されたのだそうです。

このような証詞が、世に対して勝利をもたらすのです。

そして喜びに満ちた主イエスに対する献身。神に従っている献身が勝利をもたらすのです。


私たちは今自由の国に生きていることを幸せに思わなければなりません。今現在に置いても世界の多くの人々が、継続的な迫害のもとに生活しております。

しかし、私たちも自由ではありますが、サタンの攻撃を受けております。自己中心に生きようとしたり、自分勝手な生き方に妥協したりしてしまうかもしれません。そのような形で悪魔は私たちを負かそうとしております。

しかし私たちはこのことを恐れたり、怖じ気づいたりしてはならないのです。

なぜなら教会は勝利するからです!

私たちは悪魔のささやきに耳を傾ける必要はありません!

天の御座から来る声を聴きましょう。今や神の救いと力と国とまたキリストの権威が現れたのです。

悪魔は滅ぼされ捨てられるべき者です。私たちは勝利の内に生きることが出来ます。

私たちはこの悪魔に満ちた世にあって、どの様に勝利の生涯を生きることが出来るでしょう。神の御座からの言葉が私たちにわかりやすく語っています。

私たちは小羊の血と、自分たちのあかしの言葉と、命を惜しまない献身の故に、打ち勝つことが出来ると。だからこそ私たちは喜びの内に生きることが出来ます。

今朝私たちは、心から力ある賛美をいたしましょう。この世にどんなことがあったとしても、私たちは永遠に続く勝利を得ることが出来ます

お祈りいたしましょう。


Message by Dr. Robert Coleman and Edited by K. Ohta on Oct 20, 2001