礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年10月28日

「犠牲の羊はどこに?」

井川 正一郎 牧師

創世記22章1〜14節

中心聖句

22:7  イサクは父アブラハムにに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

22:8  アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

(7、8節)


はじめに

 創世記の22章第7節と8節をもうひとたびお読み致します。

22:7 イサクは父アブラハムにに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

 あまりに有名な箇所です。神への徹底した信頼、徹底した献身・服従ということを学びます。と同時に神はなぜ、アブラハム親子にこれほどまでに過酷な試練を与えられるのか、考えさせられる記事でもあります。

 過去、この箇所からどれほどのメッセージが語られてきたことでしょうか。そのつど、恵まれ、挑戦を受け、そして考えさせられてきたことであります。なお、本当の解決というか、答えをみない思いであります。

 でこの箇所、言うまでもなくほとんどはアブラハムの試練、アブラハムの信仰・献身・服従といった点から扱われます。でも、きょうは少し角度を変えて、犠牲となるイサクの側から思い巡らしたい、と導かれております。

 あまり聖書に明確に記されていないことを推測したり、拡大解釈・霊的解釈に走り過ぎてもいけないことを十分に弁えていますが……。

 イサクが尋ねた質問はこうでした。「でも全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか。」

 イサクのこの質間には、深刻な問題が含まれております。当時イサクは18から20歳で、神の前に出るためには、血が必要なことを知っていたのでした。

 イサクは、私のための犠牲、私のために血を流す犠牲の子羊が必要ということはわかっていました。しかし、まさか、私が犠牲になるとは……。この私のために血を流す子羊といけにえとされるイサク自身との大きなギャップというものを改めて気付かされたのです。

 今日、犠牲となるイサクの側から、このギャップを考えてみたいと思っています。3つのことを学びます。


1.今までのイサクは死ぬ(過去のイサクは死んだ)

1)全焼のいけにえとは

 全焼のいけにえとは、「昇っていく」という意味があります。ささげられた動物を祭壇の上におき、そのすべてを焼き尽くすのです。神への完全な献身・犠牲を示しています。

 そしてそれは申すまでもなくキリストを示すのです。すべてをささげ、神のみこころを成し遂げられるイエス・キリストなのです。

2)イサクが「全焼のいけにえ」となる

 犠牲となるとは、完全な焼き尽くしが一つの意味なのです。すなわち、死ぬことと同じです。イサクが祭壇の上に置かれました。犠牲、死を意味します。いままでのイサクは死ぬのです。

 後にイサクは肉体的には死なずにすむのですが、事実、イサクは捧げられてしまったのです。少なくとも今までのイサクはいなくなったといってよいでしょう。今までのイサクは死んだことを意味しているのです。

 死とはすべてのものから切り離されることを意味します。親兄弟家族、友人からも。自分のもっている所有物、趣味、楽しみ、国、ふるさとからも。全部のものから切り離されるのが死なのです。犠牲なのです。すべてが焼き尽くされる。これで終わりなのです。ある人はこれをきよめの経験の一つの面であると述べています。徹底した死、自己否定なのです。罪の自我、エゴがなくなるのですが、決して自分が消えてしまうわけではありません。神の御旨、みこころに自分の意志を合わせ、従って行くことなのです。


2.新しいイサクの誕生、出発

1)新しい生命の付与

 イサクはすでにささげられたということは、もはやイサクはいなくなったということです。にもかかわらず、返されたということは、どういうことでしょうか。

 そこにいるのは誰かというと、新しいイサク、別のイサクなのです。自分は自分であるが、もはや今までの自分とは違う自分なのです。新しい生命を与えられたといってもよいでしょう。

2)新しい人生の歩み

 それ故に、その後の歩みにおいてもそれらしく歩んだといってよいでしょう。もとより、子供の問題で苦労し、また晩年の老衰による過ちなど、人間的な弱さ・足りなさはありましたが、イサクは新しいイサクとして神の生命を頂いた者らしく信仰の器として歩みました。リベカとの結婚、あるいは井戸掘りの苦労などです。

 彼の人生・生涯を大きく変える出来事・きっかけとなったのが、犠性となったこの場面なのです

 「全焼のいけにえの羊はどこに」――それはあなただ!それは私だ!

 で、実はこの時こそ、「神が私たちのために何かを」ということから、実は「私たちが神のために」であることを悟らされる時だったのです。そういう一大転機なのです。

 そして、それが具体的にはどういう意味をもつ生涯となるかというのが次です。


3.新しい人生目的=「血潮」を意識した生涯・歩み

1)血潮は「死」を意味する

 犠牲は血が流れます。血が流されることによって、人は神の前でゆるされ、生きるのです。

 血とは「死」が意味されます。血の中に命があるのです。古いイサクは死んだ。今までのイサクは死んだのです。徹底した死の意識を持つことです。

2)血潮は「生」を意味する

 と同時に、血は生きることも意味します。

3)「誰か」が「私のために」流された血潮

 どなたかの血潮が流されて、私は生きているのです。私の体内の血潮は実は、今までの私の血潮でないのです。それは私のために流されたキリストの血潮だといっても言い過ぎではありません。

4)血潮は「誰かのため」を意識する歩みに人をかりたてるもの

 コールマン先生の「キリストの血潮」という書物の中で、39〜40ページに、ロバート・リー先生の証(エピソード)が書いてあるところがあります。読んでみます。

 「説教者のロバート・リー先生が初めてのイスラエル旅行でカルバリの丘を訪ねた時の忘れない体験を話しておられます。リー先生は興奮のあまり、ガイドを追い越して、先に丘の上へ駆け上がり、頂上に着き、主がまさに血を流された場所に立つと、この偉大な説教者の感情は高ぶり、思わず身震いしました。

 ようやくガイドがリー先生をとらえると、息を切らしながら尋ねました。『先生、前にもここにいらっしゃったことがあるのですか?』しばらくして胸の鼓動がおさまるとリー先生は答えました。『ええ、私は確かに二千年前、ここにいました。』

 友よ、私たちは皆二千年前、十字架の上に立っていたのです。主イエスは私たちの身代わりとなって死なれました。私たちを代表して苦しみを受け、正しい方が悪い人の身代わりとなったのです。私たちを神の御許に導くためでした。」

 血潮は「誰かのため」を意識する歩みに人をかりたてるもの、であります。

 新しいイサクが生まれていくということが、それは、「私は神様のために捧げられていく必要がある」という理解の一大転換、そういった出来事になっていったと申し上げたいのです。

 「アドナイ・イルエ(=主の山の上には備えがある)」(19節)の元々の意味は「神様がそこに現われなさった」です。すなわち、神さまは、新しいイサクを生まれさせるべく、犠牲の羊を備えたのです。新しいイサクの誕生のための羊の備えです。

 そしてイサク、あなたが死ぬ、血潮を流すとはどういう意味か。それは、神につながるものなのです。そして、他の人を生かすためにつながっていくんです。犠牲の羊はあなたなんです

 この物語はアブラハムの信仰とともに、イサクよ、あたなにそういう人物になって欲しい、そのように思い巡らすことが出来ます。

 「犠牲の羊はどこに?」「イサク、あなたが実は犠牲の羊なんです。」血潮は「誰かのため」を意識する歩みに人をかりたてるものであります。


しめくくりー今週の実際生活への適用ー

1)神の求めに応じよう=徹底した死と生の経験

2)ある日突然=予測しない出来事への対応

3)血潮を意識した一日一日=神のために、他人のために生きる私でありたい

 どうぞお互い、イエス様の血潮によって生かされています。同じように、今度は私たちが犠牲となって、神のために生きる、人のために生かしていくことができるように、そのような生き方をしたいと思っています。

 「主の山の上には備えがある」皆さん方、ひとりひとりが備えなのです。神様がひとりひとりをどうもちいなさるか。死ななければならないなら死にますという出来事が必ず人生のどこかであります。と同時に新しく生まれ変わって、神のために全く捧げきって生きる、お互いこのような出来事を早いうちにさせていただいて、歩んでいきたいと思います。

 「犠牲の羊はどこに?」これが今日の神様のメッセージです。

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2001.10.30