礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2001年11月4日
伝道礼拝説教
「聖書、この不思議な本」
竿代 照夫 牧師
第二書テモテ3章14-17節
中心聖句 16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
(16節)
始めに:
今日は「聖書という不思議な本」というタイトルで、比較的基本的な話しをしたいと思います。
ある調査によりますと、もし無人島で一年間過ごさなければならない、そして一冊だけ本を持っていくとしたら、という問いに対して圧倒的に多いのは聖書です。次は電話帳らしいのですがそれはどうしてだか良くは分かりません。
A.世界のベストセラー
いずれにしましても聖書は世界の超ベストセラーです。
1.頒布数
聖書教会によりますと、頒布の数は2000年度の統計では、572,673,838冊だそうで、超ダントツです。世界の人口が約60億人ですから、その約10%に相当します。
2.翻訳数
翻訳の数も超ダントツで、同じ2000年度には、2,261の言語で出版されています。さらに、その翻訳作業にあるのは現在700言語だそうです。世界人口の97%の人が、自分の国の言葉で聖書を読むことが出来るのです。
3.影響力の大きさ
その頒布数が物語るように、その影響力も非常に大きなものがあります。
アブラハム・リンカーンは「私は聖書を、これまでに神が人類に与えた最上の賜物と信じる。世界の救い主から発する一切のよきものは、この書を通して私達に伝達される。」と語りました。
ナポレオンは「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。」と述べています。
同じ時代に生きたフランス革命の思想家であるヴォルテールは「聖書などと言う非科学的な本は100年の内にこの地上から忘れ去られるだろう。」と言って死にました。しかし、忘れ去られるどころか益々ベストセラーとして広まって行きました。皮肉なことに、彼の家は聖書協会が買い取ってその倉庫にしたと言われています。
さてそんな聖書とは一体どのような本なのでしょうか。
B.その多様性と統一性
まず第一に申し上げたいのは、その多様性についてです。
1.多様性
その著作年代、著者、執筆場所、文学形態等において聖書は一冊の本として私達は持ち歩き、読んでいますが、実は図書館のようなもので、66冊の独立した本の集まりです。英語でバイブルと言いますが、その語源は「書物の中の書物」という意味です。
聖書の著者は各時代にまたがる40人ほどですが、その身分や職業は実にバラエティに富んでいました。王様(ダビデ王、ソロモン王など)、預言者(イザヤ、エレミヤなど)、祭司(エゼキエル)、使徒(ペテロ、ヨハネ)、宣教師、税金取り(マタイ)、農夫(アモス)、詩人、学者(エズラ)、医者(ルカ)、哲学者など、身分の高い人・低い人、学問的な素養のある人無い人、ユダヤ人が殆どですが、ギリシャ人も入っていると言う具合でした。
その文体も、歴史物語があるかと思えば詩があったり、手紙形式のものもあり、説教の記録のようなものもあり、将来に関する予言もあり、という具合にまちまちです。
著作の年代も始まりは、1400年bcから終わりは100年adまでの1500年に亘っています。書かれた場所もエジプト、パレスチナ、ローマ、ギリシャ、イランまで地中海世界の全域に及んでいます。
2.統一性:同じテーマで貫かれている
こんなにお互いが違っているのですから、内容もまちまちでありそうな気がするのですが、驚くなかれ、そのお互い同志が一人の著者が書き記したように統一されているのです。
どんな風かといいますと、同じテーマである人類の救いと救い主に向かって全ての本が貫かれ、それが歴史的にキリストの十字架に向かって集約し、十字架から拡大されているといったいわば壮大なドラマなのです。ドラマには必ずシナリオライターがありますが、聖書のドラマのシナリオライターは誰でしょうか。誰かの個人或いは聖書編集委員会のようなものが、ユダヤの宗教文書を一つのテーマにそって編集したのでしょうか。
聖書の実際の編纂の歴史は、そうした人為的なプロセスによってではなくて、自然に纏められていったことが分かります。
3.本当の著者である神
では聖書のシナリオライターは?となると、私達は40人のバラバラな著者達の背後にあった見えざる神の御手があったことを信じております。
C.聖書は聖書について何と?
1.神の霊感によって記された神の言葉
冒頭に掲げました聖書の一節に
16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
と記されています。
これは、実は新約聖書の大部分を書いたパウロという使徒がその弟子に宛てた手紙の一部分です。これは聖書が聖書について書いている自己紹介と言えます。
その紹介の内容は、
1)聖書はすべて:
どの部分は神の言葉で、他の部分はそうではない、という区別無く、みな神の言葉であるという主張です。勿論厳密にいえばここで聖書と言っているのは旧約聖書のことですが、同じ霊感をパウロは別な場所で主張していますから、広い意味では旧新約聖書全体と取って差し支えないでしょう。
2)神の霊感による(ギリシャ語ではセオプニューエイン):
「霊感」とは、霊感商法のような怪しげな意味ではなくて、直訳では「神に息吹かれた」という意味です。
確かに聖書の著者は人間で、彼の個性や経験や思想が色濃く表れています。でも、彼が筆を執るとき、神の感動が加えられて、その御心を表す内容を書くことが出来た、その意味で聖書は神の言葉です。著者は人間です。でもその背後にあって彼を導いたのは神です。
3)全肯定か全否定か
そんな自己紹介は信じられないという方もあられるでしょう。それはそれで結構です。でもこの聖書の自己紹介の重みはしっかりと受け取って頂きたいのです。
例えば私が「私は世界一お金持ちである。」という自己紹介をしたとしましょう。
それに対する反応は次の2つにひとつでしょう。ひつは、すごーい、本当ですか、という素直な反応です。あるいは、きがくるっているというものです。そのどちらかであって、中間というのはありえません。
聖書について当てはめて見ましょう。聖書は自分が神の言葉であるという自己紹介をしている訳ですから、皆さんの反応は二者択一しかあり得ないでしょう。
ああ本当にそうかといって肯定的に受け取るか、それは嘘だといって否定するかのどちらかです。
ところが、世の中の多くの人は、良く勉強せずにその中間を語っているように思われます。つまり、聖書はいいことが沢山書いてあるということは認めていますが、神の言葉であると信じてはいないようです。インドの独立の父、ガンジーも聖書を愛読した人でした。彼は「もし全ての人が、山上の教えのイエスの言葉を実行したなら、世界はもっと平和になるだろう。」と言いました。けれども彼は残念ながら、聖書が神の言葉であるというところまでは信じなかったようです。
しかし、聖書自信が神の言葉であると自己紹介しているのに、それを信じないということは、聖書は嘘つきだといっていることになります。良いことも書いてあるが、嘘も書いてあるというのでは矛盾しています。
ですから、良く学びますと、どちらかに態度を迫られる時が来るものです。私は聖書の言葉を学び、実行して、書かれている事が本当にそのとおりであると確信しています。それをここにおられる全ての方におしつけるつもりはありませんが、この秋の夜長に、本当にそうだろうか、という気持ちで学んで欲しいと思います。
2.有効性:「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」
先程の16節の後半には「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。
その聖書の目的は私達を、
1)教える:正しい道が何かを教える
2)戒め:悪しき道に進まないように警戒を与える
3)矯正する:実際に悪しき道に歩んでいる人を、正しい道に導き返す
4)訓練する:より深く神を愛し、隣人を愛することが出来るように、私達を訓練する
3.目的:「知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせること」
15節の後半には以下のように書かれています。
15 …。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書は単なる格言集、座右の銘として使われるのではありません。キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせるために書かれています。
キリストご自身がこう言われました、「聖書が私について証言している」(ヨハネ5:39)と。随分大胆なことを言っているようですが、これは本当です。つまり、旧約聖書はやがて来る救い主を待ち望む本です。また、新約聖書はその救い主が本当に実現し、その救いが世界に広がっていく様子について書かれた本です。
「信仰による」とありますが、これが大切なところです。多くの人達は、自分の努力によってだんだんと良い人間になると考えていますが、聖書は人間はそんなに良いものではなく、神の前に罪をおかした弱いものだということを表しています。それを自覚して、キリストにすがる信仰による救いを求めるのが、聖書の目的です。
まだ聖書をお読みになったことがないお方は、是非お買い求めになって読みつづけて下さい。最初は戸惑うところもあるかもしれませんが、ときどきこんな良いことが書いてあるという宝石のような言葉にぶつかるときがあるでしょう。
でももっと読み続けると、自分はとてもそんな理想には及ばない、自分の心の弱さ醜さを思い知らされます。聖書は私達の心を映し出す鏡です。私達の心の表面や、その奥にある今まで気づかなかった動きを示して下さいます。そうすると、読み進めるのがつらくなるときがあるかもしれません。そこまで読みつづけていただきたいと思います。
三浦綾子氏の処女作である「氷点」は、主人公である医者が「汝の敵を愛せよ」という聖書の教えをとことん追求し実行しようとするが、それを不可能にする人間の弱さ、原罪にぶつかって苦悩する物語りです。主人公は自分の娘を殺した犯人の娘を引き取って育てて、「汝の敵を愛せよ」という聖書の教えを実行しようとしますが、どうしてもそれに沿う事ができない心の中にある堅いもの、氷点を見出します。聖書はそれを原罪と読んでいます。
このように聖書は人間の罪深さを示すものではありますが、そこで止めてしまってはいけません。
そんな弱い醜い人間のために十字架にかかって救いの道を開かれた主キリストを信じる信仰によって救われる、と言う納得を持つまで読み続けて頂きたいのです。そうすればこの世の旅路を感謝と平安をもって歩む事ができるようになります。
それこそが聖書の書かれた究極の目的なのです。
終わりに
最後に、ある青年に実際に起きた物語を紹介して、今日のお話を終わりたいと思います。
その青年は今から約70年前に、5年の間肺病で苦しみ、医者にも見放されて人生を絶望していました。悪い事に彼の父が始めた霞ヶ浦の干拓事業が失敗して、財産を全て失ってしまいました。そしてその日の生活にも困るような状況でした。
そのとき叔母が彼に与えたのが聖書です。その見返しには僅か三行、「読んで下さい。信じて下さい。実行して下さい。」と記されていました。そして、聖書の御言葉の中から「全て重荷を負うもの我に来れ。我汝らを休ません。」という一説をプレゼントし、教会に行くように勧め、励ましました。
自殺の場所を探していた彼は、教会に行きなさいという勧めを得て、そうだ教会で死ねば良いと考えたのです。そんなぶっそうな考えをいだいた青年は病床を抜け出して、単身上京し、下宿から教会に通いました。九日間通いましたがさっぱりわかりません。彼の心掛けが悪かったのか、牧師が悪かったのか、あるいはその両方だったのでしょうか。
だんだん金はなくなってきて、そんな病人を雇ってくれるところもなく、懐中には10数円しかなくなり、下宿代も払えず、彼は絶体絶命の境地に追い込まれました。
遂に意を決して、牧師と対座すること約3時間、真剣な質問を試みました。5ヵ年の病床生活から得られた自分の貴重な人生観も、独善的なものに過ぎず、天地を創造された偉大なる神、聖なる神、愛なる神の前には、いかに自分が貧弱かつ醜悪なものであるかを示され、過去の神なき生涯、神を度外視した生涯から、神中心の生涯へと転換すべく悔い改めて誓いの祈りをしました。彼の心には大きな変化が生じ、夜の12時、人通りのない下宿までの足取りも軽やかでした。翌朝彼は床を上げ、薬も全部捨ててしまいました。
神は暗黒と絶望の中から彼を見事に救って、希望と平安を与えて下さったのです。牧師さんや多くの信者さんが彼のために熱心な祈りを奉げてくださったことに彼は心から感謝しました。
一冊の聖書がこのように一人の青年の人生を変えたのです。その青年とは私の父です。
皆さんにも、父の聖書に書かれていた言葉のように、「読んで下さい。信じて下さい。実行して下さい。」と心からお勧めします。
神様がそのような不思議な方法によって、私の家族を救ってくださったことに感謝します。そしてこの聖書の言葉が単なる字面ではなくて、私達の人生を変える力をもつものであることを、皆様の生涯を通して経験していただきたいと願っております。
お祈りいたします。
Message by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on November 12, 2001