礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年11月18日(暫定版)

『大切な忘れ物』

竿代 照夫 牧師

ルツ記1章15-22節


中心聖句

22 こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。


始めに

前回はルツの信仰告白を学びました。その告白とは

16 あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。

17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。

です。

意訳しますと「私はナオミお母さんと血のつながりはありませんが、お母さんと私は一体です。どんな事があっても私はお母さんを離れません。また、私はモアブ人ですが、イスラエル人と同じ気持ちです。モアブの神であるケモシとかその他の神々を拝んでいましたが、それを止めてただ一人の真の神、ヤハウエのみを拝みます。」というものです。

これは打算を越えた姑への愛と献身でした。また、人間的な望郷の念や今までの習慣への愛着を超えた活ける真の神への献身でした。

彼女は決心しました。「どんなに犠牲があったとしてもこの生けるお方に仕えよう。主は生きたお方として必ずその翼の許に身を寄せる者を守り給う。」という信仰(2:12)に立った訳です。


A.ルツの決意(18節)

1.ナオミの納得

ここまで聞けば、ナオミは何も言えません。18節「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心している(自分で自分を強くしている)のを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。」のです。

堅く決心している」とは、直訳では「自分で自分を強くしている」といことで、決心が固い、それに固執している、といった意味です。

自分の国には帰らない、ナオミの行くところは何処までも行く、何事が起きても、ルツの初期の目的を変え得ない、と言うことがはっきりした訳です。

2.旅行の継続

この事がお互いにはっきりして腹の探りあいのようなもの、遠慮がなくなって、二人の旅は楽しいものとなっていきました。


B.ベツレヘムへの到着(19節)

19 それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。

1.故郷へ

もし18節のやり取りがアルノン川(前回ヨルダンと言ってしまいましたが、訂正致します)、つまりモアブとユダとの国境でのこととしますと、そこからベツレヘムまでは約100km、女性の足で2、3日と言った所でしょうか。

ルツにとっては初めて見る異郷の地、見るもの聞くものが珍しかったことでしょう。ナオミにとっては懐かしの故郷、きっと二人の会話が弾んだ事と思われます。微笑ましい光景が思い浮かびます。

2.女性達の噂

それも束の間、やっと懐かしいベツレヘムで待っていたのは、人々の驚きでした。

今のような世界のニュースがテレビを通して駆け巡る時代ではありませんでしたから、この話題の少ない狭い町は「騒ぎ出し」たのも当然でしょう。

ナオミのご主人、エリメレクはベツレヘムではかなりの有力者であったことが後の記事でも想像されますから、尚のことだったでしょう。原語ではこの町が「かき混ぜられた」(stirred)と記されています。

特に口うるさいのは(申し訳ありませんが)女性たち(オバタリアン)です。これは昔も今も変わりません。

「まあ。ナオミではありませんか。」という言葉の中に、「良く帰って来ましたね。」という暖かい歓迎も籠められていたでしょう。

「まあ。あのおきれいだったナオミさん、すっかりやつれて、見るのも痛ましいわ。」あるいは、「可哀相に、ご主人も二人のお子さんも亡くされて、お寂しいこと」という同情もあったでしょう。

さらに、「まあ。ナオミなんていう言葉に似合わず、ご不幸にあって、ほっほっほ・・・」といったからかいの意味も含まれていたかも知れません。

善意であれ悪意であれ、こうしたひそひそ話がナオミの心に矢のように刺さってきたことは、想像に難くありません。 


C.ナオミの自己憐憫(20、21節)

20 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。21 私は満ち足りて出 て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。

1.「ナオミでなくマラ」

ナオミがそのひそひそ話に答えるのが20,21節です。

あなたがた、そんなに皮肉を込めて私をナオミ(美しい、または快い)と呼ばないで下さい。それよりか私をマラ(苦い)と呼び直して下さい。私にとって人生は苦いものでしかなかったからです。

と切り出します。

2.神が苦しみを(?!)

問題は次に続く文章です。

20節後半では、その人生の苦さの原因を事もあろうに神に帰しているのです。

ナオミは神を「全能者」と呼びました。それは充分に満たし給う神という意味です。

その方が、「ひどい苦しみに会わせた」(文字どおりには 「苦くさせる」(enbitterred))ことは全くの矛盾なのですが、動転したナオミはその矛盾すら気付きません。

さらに21節では

なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者 が私をつらいめに会わせられましたのに。

と言っています。

卑しくし」とは文字 どおりには「苦しめる」(afflicted me)です。

つらいめに会わせる」とは文字どお りには「私に向けて悪を起こし」(caused evil to me)です。20節の「ひどい苦し みに会わせた」という表現もその感情を表わしています。

また、1:13でも「主の (裁きの)御手が私に下ったのですから。」と言っています。

呪われた地モアブを選択して、私はずっと神の祝福から見放されてしまった、これからも苦しい人生しか約束されていない、とナオミは言っています。

信仰者としてのナオミは何処に行ってし まったのでしょうか。苦境の中にあるとはいえ、神を悪の原因と言うことはあってはならないを思うのですが如何でしょうか。

仮に百歩譲って、神が苦難の原因だったとしても、何故という理由をどうして思い至らなかったのでしょうか。

ヨブという人物は自分に降りかかった災いについて、この問題を神の前に持ち出してのたうちまわるような苦悩を経験しました。しばしば引用される「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)と割り切って微動だにしなかったのではありません。その後に、彼の心情を吐露した部分が続きますが、何故神は私を標的として苦しめなさるのか、何度も何度も彼は悲痛な訴えと疑問を神に提出します。

でも最終的には神がご自分を顕わす出来事で、彼の疑問は氷解します。

理解したのでなくて、疑問を出すことの愚かを感じたのです。ナオミがここまで「主の前に」出続けたならば、この様な泣き言はでなかったのではないか、と思われます。

3. 悲観という悪循環

もっと悪いことには、過去の事実についても一方的な解釈で自分を憐れんでいることです。

私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。」といいましたが、本当にそうでしょうか。

確かに、家族関係では夫と二人の息子をもって満ち足りていたかも知れませんが、食糧という点では全く違います。彼等は飢饉の為にモアブに亘った訳で、その時は何の食料も持たずに故郷を出たのです。

土地に関 する地上権を売ったお金はある程度持っていたことではありましょうが、満ち足りていた、というのは言いすぎです。帰ってきた時も、同様に無一文であったし、夫も息子も、そして彼女の若さも奪われてはいましたが、全くのロスではありませんでした。ルツという忠実で頼り甲斐のある嫁と一緒でしたから。

私達は往々にして人生の苦境に立たされるとき、あの時は良かったとばかりに過去の良き事ばかりを強調して、それとの比較で現状を嘆くという傾向を持っています。更に現状認識においても、辛い事ばかり意識して、恵みを忘れ易いものです。

これを自己憐憫と言います。ナオミのような信仰の器でさえもこのような自己憐憫に陥ったということは、人間の中にある自己憐憫への傾向の強さを物語るものではないでしょうか。

D.ナオミの忘れ物(22節)

22 こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。

この節こそは、ナオミが見落としていた大切な要素を示唆しています。


ルツの存在

嫁のモアブの女ルツといっしょに」と言う言葉は何と意味深いものでしょうか。ルツがどんな祝福をナオミの後の生涯に齎したかはこの際語らないことにしましょう。ナオミは将来の事まで予測は出来なかったでしょうから。

でもこれ迄の生涯にルツがどんなに助けとなったか、今助けとなっているか、それは計り知れないものであったでしょう。毎日の炊事、選択といった家事一般はもとより、大切な話し相手、相談相手としてのルツはナオミの生涯になくてはならないものでした。共に祈り、共に恵みを分かち合う家族は何よりも変え難いものであったと思います。

でもベツレヘムの女性達の皮肉に満ちたゴシップによって動転したナオミは、その恵みを見失ってしまったのです。嘗ては良かった、今は全く駄目だ、その上、その原因は主の厳しい御手にあるという、全く悲観的な見方という悪循環に陥ってしまいました。

如何に困難な、出口の見えないようなトンネルの中を通ろうとも、神の絶対的な善に対する信仰と恵みを数える感謝の念を忘れてはならないことをナオミは私達に反面教師として教えています。

イザヤ50:10には、「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」と記されています。主に信頼したいもので す。

刈入れ時

もう一つ彼女が忘れていた恵みは、その帰国の環境です。大麦が熟れている頃であり、しかも豊作にぶつかったというのです。これについては、次回に譲りたいと思います。


終りに

ナオミの忘れていた大切なもの、それは神の恵みです。

「望みも消え行く迄に世の嵐に悩むとき、数えて見よ主の恵み、汝が心は安きを得ん」と賛美歌にあります。この賛美歌を歌としてではなく、文字どおり実行しましょう。


Message by Isaac.T.Saoshiro, edited by Kunihiro Ohta