礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2001年11月18日
ルツ記連講(5)
「祝福の徴(しるし)」
竿代 照夫 牧師
ルツ記1章19〜22節
1:22 こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。 (22節) |
はじめに
前回はナオミの自己憐憫というテーマで、ルツ記1章20、21節を学びました。
1:20 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。
1:21 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」
この中から彼女の自己憐憫の要素を見ます。
a)自分の存在に関して:ナオミ(美しい、または快い)ではなくマラ(苦い)であるという自虐
b)神の意図に関して:神が、「ひどい目に遭わせる」という恨み節
c)自分の過去に関して:「昔は良かった」式のノスタルジー
d)自分の現在に関して:「無一物になってしまった」という悲観
ナオミの置かれた状況から、一概に彼女の言葉を批判は出来ないでしょうが、一つの事は言えます。それは彼女が大切な忘れ物をしている、ということです。
このナオミが見落としていた忘れ物は何だったでしょう。
1)ルツの存在
忠実な嫁として、家事一般はもとより、大切な話し相手、相談相手、共に祈り、共に恵みを分かち合う何よりも変え難い宝物でした。
2)神の恵み
そしてその全ての背後にあったのは神の恵みです。「望みも消え行く迄に世の嵐に悩むとき、数えて見よ主の恵み、汝が心は安きを得ん」
今日は、もう一つ彼女が忘れていた恵みとしての帰国時の環境を見たいと思います。大麦が熟れている頃であり、しかも豊作にぶつかったというのです。
そして今日の中心的聖言として、ルツ記1章22節をもう1度お読み致します。
1:22 こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。
格別に、その後半の「大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。」ここに焦点を当てたいと思います。
A.ユダヤ農業の背景
このタイミングを理解するのには、パレスチナの農業のパターンを知ることが助けとなります。ユダヤの暦については、表を作りましたのでご参照ください。
そこで注目して頂きたい点は、パレスチナの気候は温暖で、二毛作に適しており、春と秋と二度の収穫がなされていたということです。春は大麦と小麦、秋は果物と言った感じです。
大麦と小麦は秋の雨(または前の雨)と共に蒔かれ、春の雨(または後の雨)で熟した後収穫されました。小麦の方が珍重されましたが、生育期間が長いため、それより短くしかも乾燥に強い大麦がより一般的で重要な穀物でした。夏に育つのは稗のような穀物、そして乾燥に強い果物でした。柑橘類、ぶどう、無花果はこの期間に熟し、秋の収穫を迎えたと言うわけです。
そしてその農作物の収穫と宗教的な祭が連関していました。春の収穫期の始めが過越の祭り、その終わりが五旬節、秋の収穫の終わり頃が仮庵の祭りという具合でした。
B.二人の帰国の環境
さて、ナオミとルツの物語に戻ります。彼らがベツレヘムに帰ってきたのは、「大麦の刈り入れの始まったころ」であった、と記されています。何でもない様な記事ですが、この中にも神の恵の徴を見るのです。その恵を列挙してみます。
1.良い年:丁度豊年に当っていた
これについては、連講の第一でも触れました。1:6には、「主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さった」と記されています。「主はその民を顧みなさる」とは、何という慰め、励ましでありましょうか。神は存在しておられる、その神はその民を覚えておられ、訪問をして下さる、そして恵みを注いで下さるお方です。黒雲の下にあって日の光が見えない時にも厳然として太陽は存在します。
2.良い場所:農業の中心地・ベツレヘムに
ナオミにとっての第一の慰めは、ベツレヘムに再びパンが与えられたことです。ベツレヘムとは「パンの家」という意味があります。パンの家(ベツレヘム)にパンが戻ったのです。
3.良い季節:大麦収穫の始まり
さて、大麦の収穫は、過越の祭の直後に始まるのが常です。祭のクライマックスはユダヤ暦1月15日(太陽暦では3月終りか4月始め)の過越でした。タルグム書には、「この二人がベツレヘムに着いたのは、大麦を刈り取って主の前に振る揺祭を行う日であった。」と説明しています。この事実は第2章から始まるルツの落ち穂拾いに符合します。
レビ記 23:10 イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。
レビ記 23:11 祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。
大麦の刈り取りの前であったら、彼らは食べる物が無かったでしょう。それより後だったら、全部収穫が終わって、畑の残り物はカラスが食べてしまっていたことでしょう。本当にこれはグッドタイミングでした。
4.良い雰囲気:「外国人ケアウィークス」
過越の祭はイスラエル人にとって、厳しかったエジプトでの奴隷生活とそこからの救いを感謝するときでありましたが、同時に、イスラエルの中で外国人として暮らしている人々を自分達の嘗ての立場と重ね合せて思いやり、親切さを実行するときでもありました。このスピリットは過越から五旬節に至る7週間の収穫感謝の一連の流れで、強調されたものでした。
申命記16:11、12には「11 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。12 あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行ないなさい。」と記されています。
先ほどのレビ記の23章には、「22 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」と記されています。
このよい雰囲気、このきまりは後でルツが落ち穂を拾うときにどんなに大きな助けとなった事でしょう。正にナオミとルツはベストタイミングで帰ってきた訳です。
5.良き親戚
ボアズという有力者がナオミに近い親戚としてベツレヘムで活躍しており、彼がこの二人の大きな助けとなることは、次回に詳しく学ぶことと致しますが、これも神の摂理の御手が大きく働いていたとしか言えないような良き環境の一つでした。
終わりに
こうした物語りの細部に亘る事実は、摂理という糸で私達の人生を導き給う神の御手を教えます。ナオミが全ての事を計算してモアブを出、ベツレヘムに到着したとは思えません。彼女としては、たくまなかった行動だったでしょうが、すべて神の御計画にフィットしていたのです。
摂理(英語ではprovidence=前もって見て導くこと、神のご計画、provisionは同じ語源だが、前もって備えること、供給することという意味)とは、「神の間断無き活動であって、それによって神が自然界、精神界、道徳界のあらゆる事件をご自分の目的達成の為に用いられること」を指します。
この信仰に立ちますと、たまたま、とか偶然にということはあり得ません。全てが善なる神の善なる目的に従って動いていく訳なのですから。ルツの物語は、正に神の摂理の素晴らしさを私達に教えるものです。
私自身、多くの出来事を通して神の摂理の不思議さに驚き、感謝を捧げたことを忘れることができません。宣教師としての働きの始めに、最も収穫を必要としている場所を備えて下さったこと、会堂の為に祈った四年間の祈りに答えて素晴らしい場所を3,800坪も、しかも無料で備えて下さったこと、そのプロセスの一つ一つが神の備えの現れでした。
勿論、神に祈ればすべて順調に、人間の注文通りに事が進む、という御利益的な理解を持たないで欲しいと思います。人間的に見れば、祈っても祈ってもうまく行かない、逆境の連続だ、という生涯もあります。
主は深い御心の故にその様なことをヨブに許しなさいました。ですから、神の恵みというものを直ぐに繁栄や成功に結びつける事は厳に戒めねばならないことですが、同時に神は目に見える形で、恵の徴を与えなさるということも真理です。大切なことは、神にとってのベストを受け入れて従うことです。
さて、本題に戻ります。ナオミとルツがが帰って来たのは「大麦刈の始まる頃だった。」こんな小さな記事の中にも不思議な不思議な神の摂理を感じます。
主のタイミング、主の御業の方法に間違いはありません。遅延もありません。その事を信じ切る人間を信仰者と呼びます。私達はこのような信仰を持っているでしょうか。この神を信じ切って平安の内に歩んでいるでしょうか。
お祈りを致します。
Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2001.11.18