礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年12月9日

アドベント礼拝(2)

『謙る者への顧み』

竿代 照夫 牧師

ルカの福音書1章46-56節


中心聖句

48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

luke- 1:48


始めに

「マリヤの賛歌」はそのラテン語の出だしである「あがめる」から、マグニフィカートと呼ばれています。

マリヤの賛歌は、先週学びましたエリサベツの祝辞への応答として歌われた物です。エリサベツは、不可能を可能とする神の言葉を信じきったマリヤ、それ故に女の中で一番祝福されたマリヤ、救い主の母となったマリヤへの祝福を、心を籠めて叫んだのです。


A.マグニフィカート

1.ハンナの賛歌との比較

さて、マグニフィカートの特徴は、その千年も前に、不妊であったハンナに子供が与えられたとき、感謝の心をもって歌われた歌と並行しているという点です。パワーポイントでその二つを比べて書きましたので、ご参照下さい。アンダーラインした所は、マグニフィカートととの共通的な表現です。

ルカの福音書 1:46-

46 わがたましいは主をあがめ、 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます
47 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
48 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く
49 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
50 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし
51 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ
52 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました
53 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
54 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。

サムエル記第一 2:1-

1 ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。
2 主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。
3 高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。
4 勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、
5 食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。
6 主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。
7 主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。
8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。
9 主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。
10 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。

この観察から言えることは次の諸点です:

1)マリヤは、ハンナの賛歌を良く学び、覚えていました。マリヤは、聖書を良く学ぶ敬虔な生い立ちをしたということが伺えます。

2)しかし、マリヤは、ここでハンナの賛歌をそっくり復唱したのではなく、自分なりに消化した物として、自分の賛歌として歌ったのです。

3)その特色は、救い主の誕生というハンナの知らなかった新しいそして驚くべきポイントを含んでいると言うことです。

2.さてマリヤの賛歌、マグニフィカートの要点は何かと言いますと、

1)マリヤを含む卑しきものへの神の憐れみ
2)
高ぶるものへの神の裁き
3)
その両者の現われとして、今到来した救いへの感謝
という三つに纏められましょう。

そしてこれこそクリスマスのメッセージなのです。

今日は特に「卑しきものへの神の憐れみ」に焦点を当ててお話を進めましょう。


B.卑しい者への顧み(マリヤのケース)

1.卑しい状態の自覚

48節でマリヤは「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(主はそのはしための卑しい状態を顧みて下さった)。と語っています。マリヤや自分を卑しいものという自覚を持っていたのです。

1)この自覚は38節にも現われています。

マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』

私達は美しいマドンナの絵を見ることで、美化されたマリヤを思い浮かべてしまいます。美しい着物を着て、後光が差している、輝くような美人としてのマリヤです。

彼女はカトリック教会が教えているように、無罪で生まれた訳でもなく、昇天した訳でもありませんでした。

聖書の描くマリヤは、全く平凡な少女です。特別な金持ちという訳でもなく、大工さんの嫁になるはずの田舎の少女です(大工さんは、その当時は余り高い地位ではありませんでした)。

2)でも平凡さを自覚することは大切ではないでしょうか。

彼女の素晴らしさは自分をいと低いものと見ていたことです。その謙遜の故に彼女は救い主の母として選ばれたと私は思います。

神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(1ペテロ5:5)

後のペンテコステの記事を見ますと、聖霊を求める祈りのグループに、マリヤが加わっていたことが記されています。

この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒1:14)

救い主の母となって、使徒達から認められるようになった後でさえ、マリヤは特別扱いされるのを拒んで、人々の間に混じり、神の恵を植え渇いた心をもって求めたのです。これが本当の謙遜ではないでしょうか。

3)さらに、彼女が低い状態と言った時、ダビデの末裔ではあるが、経済的にも社会的にも落ちぶれてしまった自分とその家族のことを考えていたかも知れません。

54節には「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。

低いものの代表として、マリヤはイスラエルを引き合いに出しています。

イスラエルは今や外国に蹂躙されています。その王家であるダビデの末裔も貧しげな暮らしをしています。しかし神はイスラエルを祝福するという約束(例として創世記22:18)をお忘れにならないで、今や救いの御手を延べようとしておられます。

2.神の顧み「目を留めてくださったからです。」(主はそのはしための卑しい状態を顧みて下さった)。と語っています。

1)顧みるとは、最も優しく同情的な態度で好意的に見て下さるということです。

その理由は私の中にある価値ではなく、単純に神の親切と愛の故なのです。マリヤや自分を卑しいものという自覚を持っていました。主はその様なものを顧みなさいます。

まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」(詩篇 138:6)

それがどんな形で現われたかを考えて見ましょう。

2)神は高くあられるのに、低くなられました。全ての物の上に君臨しておられるのに、世を救うために、その御子を汚れた世に生まれさせなさいました。

これこそがクリスマスのメッセージです。神の御子がこの卑しきはしための子供として生まれなさる。これは神の謙遜でなくて何でしょう。

マリヤはこの神の謙遜を思って心が震えたことでしょう。神が人となられた、しかも貧しい人として、馬小屋に生まれなさったのです。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)

この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」(エペソ4:9)

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」(ヘブル2:9)

3)それは引き上げる恵です。卑しき状態から光栄ある状態に高く引き上げて下さる恵です。その思想が52、53節の「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」とと言う言葉であらわれています。


C.人間一般として

1.人間一般の低い状態

1)人間は元々偉大なる神の御目から見れば、卑しく小さい、虫のような存在に過ぎません。自分が低い、卑しいものという自覚は、神を畏れる真実な畏れへと私達を導きます

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇 8:3、4)

2)その元々小さく低い人間が、罪の故に互いに憎しみ、互いに傷つける悲しい存在になってしまっていました。彼女が「低い状態」と言った時、そうした悲しい社会状態を自分に重ね合せていたことでしょう。

2.神は謙った者を顧みて下さるお方です。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。」(詩篇 113:5ー8)

神は低い者を高くして下さる。神は低いものであるにも拘わらず顧みて下さる、というよりも、低いものである故に顧みて下さるという方が正しいでしょう。

神はへりくだるものを愛しなさいます。貧しいものは、毎日神の支えなくしては生きていけないという切実な依り頼みをもって神に近づきます。金持ちは反対です。


終りに

1.今日私達は「誇り」の時代に生きています。教育の誇り、民族の誇り、富の誇り、社会的地位の誇り、社会的な知識や科学技術の誇り、などなど、私達は神なしに何でも出来ると考えがちです。誇りこそ現代の大きな病です。

2.マリヤでさえも自分の卑しさを自覚したのですから、まして私達は、自らの虚しさ、無力さ、罪深さを真実に告白しましょう

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:14)


Message by Isaac.T.Saoshiro, edited by Kunihiro Ohta on 2001.12.9