礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年12月16日

クリスマス講壇(3)

「大いなる救い」

竿代 照夫 牧師

ルカの福音書1章57〜80節

中心聖句

1:74-75  われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

(74-75節)


はじめに

 ルカの福音書の第1章、先ほど司会者にお読みいただきました。格別に、74、75節を鍵の言葉として捉えさせて頂きたいと思います。

1:74-75 われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

 前回はマリヤの賛歌であるマグニフィカートから、「謙るものの幸い」を学びました。今日はキリストの先駆者であるヨハネの父ザカリヤの賛歌を学びます。別の言葉では、「べネディクトス」と呼ばれております。


A.べネディクトス

1.その冒頭:「誉むべきかな」

 ザカリヤの賛歌はその出だしの「ほめたたえよ」(68節)という言葉から「べネディクトス」と呼ばれています。

2.その背景:天使ガブリエルによるヨハネ誕生の告知

 この賛歌の背景を簡潔に説明します。このザカリヤは祭司としての努めを果たしている時、天使ガブリエルによって自分に子供が与えられること、その子供がキリストの先駆者たるべきことを告げられます。しかし、彼はその可能性を信じることが出来ず、その不信仰への罰として、物を言うことが出来なくされてしまいます。その不自由が続いたのが約10ヶ月、その苦しみからやっと解放されたのが、その息子の誕生日だったのです。

 誕生のニュースは近所の人々と親戚にアッという間に広がりました。彼らは不妊という(当時の女性にとっては面目の立たない)立場にあったエリサベツに神が顧みを与えたことで、皆は大変喜びました。

 8日目に割礼が行われ、そこでいわゆる「命名の儀」がなされました。その時親族は、当時のユダヤの習慣がそうであったように、第一子の男の子には父親の名前を付けようとしました。ところがエリサベツは彼に「ヨハネ」と付けたのです。ヨハネはヨハナンという旧約聖書の名前から来ており、「主の恵み」という意味です。因みにザカリヤは「主の記念」、エリサベツは「私の神の休息」という意味です。

 それに反対を唱えた人々は、ザカリヤに意見を求めます。それも手で合図した、と記されていますから、ザカリヤは物が言えなくなっていただけではなく、聴力も奪われていたのでしょう。何れにせよ、「書き板」(松の板を薄く削って、蝋を塗り、黒板状にしたもの)を求めたザカリヤは、そこに「ヨハネ」と書いたのです。エリサベツと意志疎通が出来ていたからであったと思われます。

 その瞬間、ザカリヤの舌が開かれ、耳も開かれ、今まで暖めてきた不信仰への反省と神の恵への感謝が爆発したのがこのベネディクトスなのです。

3.そのテーマ:神の救い

 ザカリヤの喜びの理由は、単に子供が与えられたことだけではありません。その子供が神の大いなる救いの管として用いられること、子供の誕生がキリストを通してなされる神の救いの到来を告げる鐘の音であるという事実に基づいていました。

 ですからザカリヤの声明は文字通りの予言であって、この幼子キリストがもたらす筈の救いを予言した言葉です。それはこのベネデイクトスの中に救いという言葉が5回も繰り返されていることから分かります。

 71節には「敵と憎む者の手からの救い、罪と死と悪魔からの救い」とありますし、74節には「すべてわれらを憎む者の手から救い」と記されています。

 77節には罪の赦しに基づく救いについて記されています。

 この歌から神の救いの二つの面について学びたいと思います。


B.何からの救いか

1.敵から

1)イスラエル民族の隷属状態からの解放

 「われらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手から」(71節)とか「われらの敵の手から」(74節)とは何を意識した言葉でしょうか。ここではイスラエル民族の救いが主に歌われていますから、彼らの民族的な隷属状態からの解放が第一義的に意味されていますが、それ以上に、霊的な敵であるサタンとその配下の者が意識されていると思われます。

2)全人類のサタンによる隷属状態からの解放

 サタンは我々の最大の敵であり、しかも大変活動的であります。彼の目標は神の民を滅びに陥れることです。彼は我々の欠点を数え上げ、過去の失敗や恥ずかしいことを思い出させて我々の確信を揺るがせて信仰すら奪おうとしています。

 罪の中に留まり続ける限り罪の奴隷です。自分ではしたくないと思う罪を続けるのは正にその奴隷となっていることではありませんか。ヨハネ8:34〜36で主イエスは「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と語っておられます。

 感謝すべきことには、キリストは悪魔の全ての業を破壊するために世に来られました。彼は依然として強い力を持ってはいますが、我々は勝利者であるキリストの聖名を信じ称えることによって彼に打ち勝つことが出来ます。サタンの力を過小評価して足を滑らせてはいけませんが、反対にその力を意識するのあまり、畏縮して彼の術中にはまってもなりません。

 キリストは贖いという代価を払って私達を罪の縄目から解き放たれました。通常の身代金の代金は数百タラントという金額でした。キリストは十字架でその命を捨てられることによって、この代価を払われました。虎穴に入らずんば虎児を得ずと言う諺のように、キリストは堕落した人間社会の直中に飛び込んで下さって、私達をそこから引き上げようとされたのです。

2.恐れから

 我々は色々な意味で恐れを持っています。高所恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症、孤独恐怖症、爬虫類恐怖症、ゴキブリ恐怖症、ネズミ恐怖症、伴侶者恐怖症(?)などなど数えきれない程の恐怖症を持っています。そして死の恐れはそのうちの最大のものでしょう。死の恐れは、実はその先にある神の裁きに対する本能的な恐れから来ます。

 感謝すべきことに、我々の罪は十字架によってみな購われ、償われたのです。もし我々が赦されない罪を持っている限り、我々は本当の意味での幸福な人生をおくることはできません。箴言28:1に「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。」とありますし、同じ章の13節には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」と記されています。

 主イエスは私達の刑罰をその身に受けて下さることによって、裁きへの恐れから私達を完全に救って下さいます。感謝しましょう。


C.何への救いか

 この答えは74、75節に見いだされます。「われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

1.豊かな人生

1)きよい心

 聖とは心の動機を顕わし、神にのみ仕えることです。聖とは内面的なもので、キリストの心との一致を指します。

2)正しい行い

 義とはその聖の社会的行動です。義とは福音の教えとの外面的な一致を指します。

3)喜びから来る奉仕

 主に対する喜びに満ちた、また自発的な奉仕が救いの第三の方向です。私達が両親を助けるとき、義務感や恐れからするということはありません。もしそうでしたら、その奉仕は喜びではなく重荷となってしまいます。しかし、私達が両親を尊敬し、愛していますならば、喜んで彼らに仕えることが出来ます。

 主への愛は主のみ体である教会への自発的な奉仕となって顕れる筈です。献金その他が重荷となるというのは、その出発点が違っているように思います。

2.可能とする力

 イエスキリストは現実のお方であり、力あるお方です。75節の「許される」とは、「可能として下さる。」という意味で、私達の努力を励ましておられるのではありません。しかし私達が心を開いて彼を個人的に受け入れなければその救いは私達の物とはなりません。

  しかもそれはある日一日だけというのではなく、私達の全生涯、否毎日毎日がそうであるというのです。


終わりに

 この素晴らしい救いを完全な意味で私達のものとしようではありませんか。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2001.12.16