礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年1月6日

年頭メッセージ

「全ての者が共に栄光を見る」

竿代 照夫 牧師

イザヤ書40章1〜11節

中心聖句

40:5  このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。

5節)


はじめに

1. 2002年の展望

 1948年に丸の内教会として創立されて以来54年を経た主都中央教会にとって、2002年は記念すべき年として覚えられる事になりましょう。それは、昨年来の祈りの課題でありました会堂建設に向かって大きなステップを踏み出す年だからです。また、その建設期間はお茶の水のOCCにおいて礼拝を持つことになりますが、私には、かつての丸の内時代が戻ってくるような感じがしております。そのような意味においても今年は記念すべきとしとなるでしょう。

2.神の栄光を見る事を期待

 この記念すべき年の始まりに当たって、そのすべての営みを通して、神の栄光が顕わされるようにということが私の切なる祈りであり、また教会の祈るべき課題であります。
 「人間が何故存在するか?」ということについては、教理問答の中にも記されておりますが、その答えは「神の栄光を顕わす」ことです。イザヤ書 43:7には、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」とあります。「クリスチャンは何故存在するか?」については第1コリント6:20に、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」と語られています。ですから、神の栄光を顕わすことは今年に限らず、私達の全生涯的な目的を言えましょう。それでも尚、会堂の移転・建設という大きな節目に立った年にあって、今年の目標としてこの神の栄光という言葉に導かれ、今週と来週の2週にわたって学びたいと考えております。

3. イザヤ書の約束

  本日の中心的な御言葉はイザヤ書40章の5節です。

40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。

 今日はその背景についてお話してから、この御言葉自体の意味に戻りたいと思います。


A. 40章5節の背景

1.イザヤ書の概観

 イザヤ書は66章からなる預言書であり、BC700年代に活躍した預言者イザヤによって記された書です。当時のイスラエルは北と南に分割されていましたが、彼は南のユダ国で宮廷預言者として、国のあり方について王様に指南した人です。

 イザヤ書は、次のように大きく二つに分けられます。

1)前編(1−39章)同時代人へのメッセージ    イスラエルへの審判

 この時代のユダの国は、@アッスリヤに従うか、Aエジプトにより頼んで独立を保つか、B少数民族による少数派連合党を結成するか、という選択に迫られていました。しかし、イザヤはそのどれにも属さず、そのメッセージは「神に頼って独立を保とう」というものでした。イザヤが仕えた王様のヒゼキヤは、そのメッセージを受け入れて独立を保ちました。しかし、その後の他の王様はそのような信仰を持たなかったため、そのせいかイザヤから約100年後にユダは滅ぼされてしまいました。

2)後編(40−66章)将来的メッセージ      イスラエルの回復

 後編では、やがて起こるであろうバビロン捕囚(BC500年代の始め)からの釈放(BC500年代の後半)に焦点が当てられます。この捕囚からの釈放は、イスラエルの歴史の中では、BC1400年代に起きた出エジプトに匹敵する大きな出来事として覚えられています。出エジプトにあたっては、神は紅海を二つに分けるなどの大きな奇跡をお示しになりましたが、イザヤはこれから起こるであろうバビロン捕囚からの釈放は、それに勝るとも劣らない大きな奇跡であると語っております。イザヤはこの捕囚からの釈放だけを預言しているのではありません。このことはやがて来たるキリストによる救いの御業を象徴していると預言しているのです。これをまとめると下の図のようになります。

[大いなるみ挙ロ

  出エジプト(BC1400年代)
    ⇒出バビロン(BC500年代)     ⇒キリストの来臨(AD0年)

2.40章:贖いの序曲

 今日のテキストである40章は、後半部分の最初のところですが、バビロン捕囚からの釈放とキリストの来臨の2つが預言されています。ヘンデルのメサイアは40章の1節が透き通ったテノールで歌われ、11節迄が合唱で、または独唱で歌い上げられます。その内容を要約しますと、

1)釈放の宣言(1ー11節)

a.慰めの声(1ー2節) 

40:1 『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼び。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』

 これはイスラエルの民が捕囚という民族的な屈辱、苦しみを通して、十分に罰を受けたのだから、これから釈放に進むのだという慰めの言葉です。

b.備えよとの声(3−5節)

40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。』

 この備えよという声は王様が来る道を備えよという声です。
 王様が来るために土木工事が行われるという考えは私たちにはあまりなじみませんが、このような考え方は当時の王様の振舞いを良く表しています。彼が通る所はどこでも、先遣隊が遣わされ、道をきれいにするのです。王様のたった一回のお通りの為に、凸凹道が平らにされ、曲がりくねった道も真直ぐにされるのです。
 私が宣教師として行っていたケニアでは、大統領が行く所まさにこのような大袈裟な準備がなされておりましたので、私はこの聖書の記事を読んでもあまり驚きません。ケニアに赴任して間もないころ、私が大統領のお通りとは知らずにのんびりと車を運転していたところ、御付の人にひどくしかられました。ケニアでは大統領のお通りの時には車は左右の端に寄せて停車して道をあけなければなりません。そして大統領の車は道の真ん中を200キロ近いスピードで走って行くのです。
 この道は王様がとおるための道、そして具体的には、イスラエルの民が捕囚から帰還するためのスムーズな道が備えられるということを意味しています。イザヤ書43:14には、「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。」と記されています。これは実際に歴史にあった記事です。クロス王がバビロンを占領する際には、ユーフラテス川のほとりに密かに溜池を作って、そこに川の水を一気に流し込み、川底が干上がったところでペルシャの軍勢が川を渡ってバビロンを占領したことが歴史に記されていますが、おそらくこのようなでき事をさしていると思われます。続いて、43:16から21には「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。(中略) 確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(中略) わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」と記されています。このようにしてイスラエルの民が奇跡的な方法によってバビロンの捕囚から釈放されるということが「道が備えられる」ということによって表されています。

 同時に救い主が来られる、そのためバプテスマのヨハネが来てそのための心の備えをするということが、預言されています。

c.福音の声(6ー8節)

40:6 『呼ばわれ。』と言う者の声がする。私は、『何と呼ばわりましょう。』と答えた。『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』

 人間が本来持っている力、命、栄光のはかなさが、神とその言葉の永遠性と比べられます。その神と神の言葉を信ずることが私たちを永遠に生かすことだというのが福音の言葉です。

d.神の来臨を告げる声(9ー11節)

40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』
40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」

 ここでは来るべきメシアがどんなお方であられるかについて、@その力強い統治と豊かな恵み と、Aひとりひとりを顧みて下さる羊飼い的なケアが述べられます。

2)神の偉大さ(12ー31節)

  ここは省略して、今日の主題である5節に戻ります。

  


B.神の栄光(5節)

  40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。

  以上のような背景の中で、神の栄光が現れるというのがこの5節です。だんだんと背景の中に絵が浮かび上がって来ました。

1.神の栄光とは何か

 神の栄光が顕わされる、とあります。神の栄光とは何でしょうか。栄光とはヘブル語のカボードから来ており、その元々の意味は重さとか価値高さを表します。神の栄光とは、「見えない神の存在や性質や力が、目に見える形、特に光り輝きをもって示されること」と定義できましょう。

2.どのようにして?

 5節は、「このようにして」とありますが、どのようにしてなのでしょうか。先ほど申し上げましたように、イザヤの預言は以下の二重の意味を持っています。

1)「バビロン捕囚からの釈放を通して」

 ひとつはイスラエル民族が、バビロン捕囚から奇跡的に解放されて自分たちの国に戻ってくることを通して、神の御力、素晴らしさが顕されました

2)「救い主の来臨を通して」

 また同時に、それは神ご自身が私たちと共に住んで下さった救い主イエス・キリストの来臨を通して、神の栄光が顕されるという二つのことを表しています。
 二つめのことについて、ヨハネは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)と言っています。 ヨハネはイエスの間近にあって彼を観察した人ですが、彼は恵み真理に満ちた人であると述べています。もし、栄光という光をスペクトル分析すると恵みと真理という二つの光に分けることができるでしょう。イエス・キリストご自身が神の栄光を顕すお方でした。

3.「すべての者が共にこれを見る。」

 大切なのはその神の栄光または救いを、同時代のイスラエルの人達だけではなく、全世界の民が見ると言っていることです。捕囚からの帰還だけでは人々全体が見たとは言えませんが、キリストによる救いは全世界に及び、すべての人が、神の聖さ、力強さ、御愛を見るのです。

 


C.私達の顕わす栄光

  私たちは今年、この御約束を私たち一人一人のために信じたいと思います。

1.私達の品性と言葉と行動を通して

 神の栄光は私たち一人一人を通して顕されます。自分などを通しては神の栄光を顕すことはできないと考えるのは、大切な謙りの心でしょう。しかし、私たちのあたりまえの言葉や行動を通して、神の栄光を顕すことができるのです。
 パウロは、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10:31)と言いましたが、これは大げさに何をするにも神の栄光を表さなければと意識することでは無くて、私達の様な者を造りかえて下さった神の恵みに対する感謝の気持ちを持って日常生活を送りさえすれば、自然に顕すことができるものなのです。

 栄光を現さなければといって頑張る必要は無いのです。あたりまえの行動、飾らない、気張らない行動を通して主が栄光を現して下さることを祈り求めつつ歩みたいと思います。

2.教会の前進と建て上げを通して

 それは教会についてもあてはめることができます。
 私たちは今年、会堂建設という大きな課題に向かって進むことですが、どのような形であれ、私たちが心を一つにして祈りつつ、信仰をもって進むとき、主はその道筋を通して栄光を顕して下さるのです。

 今年私たちは、「全てのものは共に栄光を見る。」というお約束を信じつつ歩もうではありませんか。

 お祈り致します。


Written bySaoshiro and Edited by T. Maeda on 2002.1.15

Since 2002.03.24