礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年1月13日

「信じるなら、神の栄光を見る」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書11章39-45節

中心聖句

11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(40節)


始めに:

先週はイザヤ書から「全ての者が共に栄光を見る」という年頭メッセージとともに、新会堂建設や新しい教会の計画に対する私たちの願いを重ね合わせて見ました。

本日は広尾における最後の礼拝、そして今年に入っての第二の礼拝という二重の意味合いを考えつつ、その「神の栄光を見る」というテーマの続きを取り上げたいと思います。

今日はヨハネ11:40の「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」というテキストを3つの角度から取り上げます。テキストに入る前に、その背景となる出来事を概観したいと思います。

この言葉は主イエスの信奉者であったマルタ、マリヤの弟、ラザロの復活に関連する言葉です。ラザロの復活は主イエスの十字架の2ヶ月ほど前の出来事、つまりAD30年の1月前後の出来事で、死者をよみがえらせるという大変な奇跡でした。

またこの奇跡は、主イエスをメシアとして信じる人々の信仰を決定的にし(ヨハネ11:45)、他方、主イエスを亡き者にしようという宗教家達の策謀を決定的な物にした(11:53)という点で、エポックメーキングな出来事でした。

ラザロは、イエスがエルサレムにはいる前にいつも立ち止まっていたエルサレム郊外のベタニヤ村の住人でした。彼が重病になり、マルタとマリヤは主イエスを呼ぶのですが、主は直ぐには来られず、ヨルダンの東(ペレヤ地方)に暫く滞在し、伝道を行っていました(1−6節)。そのため主がベタニヤ村へ着かれた時、もうラザロは死んで4日も過ぎていました。

主は悲嘆に暮れた姉妹達を慰めつつ墓に行かれました。その墓の入り口にあったドア代わりの石を除けなさいと語られた時、マルタは「もう4日も経って腐っていますから、今更体を見るのも耐え難いことです。ご遠慮願えませんか。」と語りました。それに対する主の答えが40節である、とこんな風にご理解頂きたいのです。それで今日は、この40節から、主が語られた事の意味、私達への語りかけを以下の三つの角度から学びたいと思います。


A.信仰の根拠

1.信仰は約束に基づく

「もしあなたが信じるなら」と主は語られました。信仰とは何か当てずっぽうにある事柄を信じ込む事ではありません。信じるとは何かの根拠がなければ信じられません。この場合は何を信じることが期待されているのでしょうか。主イエスの言葉に基づき、その確かさを確信する事です。

2.その約束とは「ラザロの復活」

その主イエスは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。 」(4節)と語られました。更に23節を見ると、「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』」と記されています。マルタはこの言葉を「精神的に」理解して、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(24節)と言いました。これに対して主は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(25、26節)と語られました。

3.復活の主への信仰

言い換えますと、「私は復活であり命であると言う私を前にして、朽ちた体の回復がどうして不可能と言えるでしょうか。あなたは、『信じる者には、どんなことでもできるのです。』(マルコ9:23)という私の言葉が信じられないのですか」というニュアンスが含まれています。


B.信仰の難しさ

1.難しい状況

「わたしは言ったではありませんか。」という言葉の中に、マルタの信仰の欠如が指摘されています。それもその筈、いくら主イエス言葉ではあっても、信じるには困難な状況でした。ラザロは死んでおり、しかも死後4日も経っていたのです。そのラザロが甦るというのは、常識を超えたものでした。

2.マルタの信仰の限界

マルタは主イエスが神の子、来るべきメシアであるという認識を持ってはいました(が、それでも尚キリストが死を乗り越え給う力あるお方という信仰にまでは至っていませんでした。27節を見ると「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」とは言っていますが、彼女の信仰はそれ以上のものではありませんでした。

3.マルタ個人的の信仰へ

「もしあなたが・・・」と主は問い掛けておられますが、それはマリヤとか家族とかの信仰ではない、マルタ個人の信仰の問題として主はこれを突き付けられました。

4.信仰は栄光へ

神は私達を困難な状況に置きなさる事があります。しかし、それは通常の状況では起き得ない程の神の栄光を顕わすよすがである事を覚えましょう。その時に試されるのが私達の信仰です。神の善なるご計画と全能のみ力を信じ、信じ切る事、委ねて安心する事、が本当の信仰です。


C.信仰の結果

1.神の素晴らしさを見る

4節には「イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」神の栄光とは、輝かしい神の業であって、その中に神の力と善良が示され、神の御子が栄光を受け給うものです。マルタの場合、その兄弟の病気と死によって大変な悲しみと失望を経験した訳ですが、それが大きければ大きいほど神の栄光とキリストの栄誉が顕れました。

2.イエスの素晴らしさを見る

4節の「神の栄光を見る」というのは御父のの栄光の輝きであるキリストを見ることです。そして、マルタは今キリストご自身をその目で見ているのですし、この方が神の子、来るべきメシアであるという認識を持ってはいましたが、それでも尚キリストが死を乗り越え給う力あるお方という信仰にまでは至っていませんでした。つまり、キリストの内にある神の栄光を明確には見てはいなかったのです。「詩篇 63:2 私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」とありますように、信仰を働かせる者こそが神の栄光を見るのです。その栄光とは、キリストの御顔の中にある物であり、その摂理の中に、また、そのお約束の実現の中にあるものなのです。

3.人々も共に栄光を見る

1)神は私達を困難な状況に置きなさる事があります。しかし、それは通常の状況では起き得ない程の神の栄光を顕わすよすがである事を覚えましょう。その時に試されるのが私達の信仰です。神の善なるご計画と全能のみ力を信じ、信じ切る事、委ねて安心する事、が本当の信仰です。

2)「神の栄光」という事について付言します。どんな形で神が栄光を顕わしなさるかを、人間である私達が予め予想したり、まして指定したりして、その通りにならないと失望したり、果ては神に向かって怒ったりしてはならない、ということです。神が栄光を顕わしなさる形は神御自身がお決めになること、神の主権に属する事です。

ですから、私達は「こんな風な結果だから神が栄光を顕わされた。」とか「こんな風な結果で無かったから、神の栄光が顕われなかった。」という風に、いわゆる外見的な成功や失敗の概念を軽々に持ち込まないようにしたいのです。私達の為すべき分は、信じ従う事だけであり、結果を評価するのは神のみであると言う事です。


終わりに

1.主は、言ったではないか?とマリヤに挑戦に満ちた質問を投げかけておられます。マリヤはどう答えたでしょうか。私達はどう答えるでしょうか?

2.言われたけれど忘れている、言われたけれど信じない、言われたけれど本当だろうか、という気持ちが混じっていませんか。単純に、大胆に主を信じましょう。

3.会堂の土地の問題で、去る金曜日、主は大いなる前進を許して下さいました。私の心は燃えています。神を誉めましょう。

 お祈りいたします。


Message by I. Saoshiro and Edited by K. Ohta on December 14th, 2002

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