礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年1月27日

教会総会を迎えて

「全ての事において神が崇められる為」

竿代 照夫 牧師

ペテロの手紙第一4章7〜11節

中心聖句

4:11  語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべての ことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。

(11節)

アウトライン

 主都中央教会創立以来節目の年となる今年、今回は「教会の営み」を通して「神の栄光」がどのように顕れるかを学んだ。すなわち、

 1.愛 …「愛しあう」ことを通して
 2.接待…「互いに親切にもてなし合うこと」を通して
 3.奉仕…「賜物を用いて」、つまりそれぞれが持っている賜物によって奉仕をすることを通して
 4.説教…「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り」とあるように、ストレートに語ることを通して

神の栄光が顕わされる。


はじめに

 第54次教会総会を迎え、私達の教会の約半世紀の歴史において、今年はエポックメーキングとなるような大切な年です。

 その事を念頭に起きつつ、この1月は「神の栄光」をキーワードに、総会への準備を進めて参 りました。

 第一はイザヤ書から、人皆神の栄光を見る、とイスラエルの釈放とキリストの贖いを通して民が神の栄光を見るようにとの預言を学びました。第二は、ラザロの復活を通して、神の力を信じる者が見る神の栄光についてでした。第三は井川先生を通して、紅海を二つに分けられた奇跡からその意義を学びました。

 今回はその締めくくりとして、教会の営みを通して顕われる神の栄光について学びます。

 ペテロはこのことを

4:11b すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるため。

と言い表わしています。

 「あがめる」とは「栄光を顕わす」という言葉です。どんな状況で神の栄光が顕わされるのでしょうか。

 この文脈から四つの状況を見ることにします。


A.愛

 愛し合う事を通して

4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおう

からです。

1.愛の優先

 「何よりもまず」との言葉は強調的です。

 活発な教会であるとか、熱心な教会であるとか、立派な建物であると言われるよりも勝って、「愛しあう教会」と言われる事は教会の勲章です。

 逆に言えば、愛のない教会は教会ではありません。愛こそが教会の教会たる理由なのです。

2.熱心に

 熱心に、と語られています。原語では「エクテーネース」で、intensity--インテンシティ--つまり、「集中的に」あるいは、「力を込めて」という意味です。

 一面から言えば、愛とは自然発生的なもので、別に熱心に、力を込めて愛さねばならぬと言う事はないとお思いでしょう。

 でも、人間的な愛では足らない、神の力を乞いつつ力を込めて愛したいものです。ではどんな点でしょうか。苦手と思われる人、ウマの合わない人、こちらが挨拶しても反応の乏しい人、そういう人に目をとめて、ことさらに愛する、これが「熱心に」の意図する所でありましょう。

3.互いに

 愛は一方的ではなく、互いです。ということは、愛を受ける事おいても私達は上達したいものです。

 愛は注ぐだけではなく、愛を評価し、感謝し、その心を受け入れる事です。親切にされると、「何か意図があるのではないか」などと勘ぐるのではなく、素直に人の愛を受けたいものです。

4.多くの罪を覆う

 愛は多くの罪を覆うという効果があります。

 罪や悪に蓋をすると言うのではなく、悪意や誤解や中傷や噂話といった、およそ愛に相応しくない行動でも、真実な愛はそれを乗り越えて働くというのです。

 これが信じられますか?信じられたら、教会はずいぶん変わるでしょう。愛は他の人の悪意に気を留めず、それを赦し、包んでしまうということです。

5.ですから、

 主が、私達を「熱心に愛し合う教会」として育てて下さいますように祈りましょう。それこそが教会を通して神の栄光を顕わす一番大切な要素だからです。


B.接待

 愛し合う事を通して

4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

1.「もてなす」ということは、

 人を家に招き入れて接待することです。

 ここで使われている言葉は、原語では「フィロス」は愛する、「クセノス」はお客さん、他人ということで、合わせると、「客人を愛する」「客人をもてなす」という意味になります。

 難しい事はありません。予期しない旅人、あまり嬉しくないように感じる人も含めて、旅人を懇ろにもてなす必要が訴えられているのです。これは、きちんとしたホテルがなかった当時には不可欠の習慣でした。

2.呟かないで

 当時の習慣であったとしても、やはり呟きながらするケースもあったのでしょう。私も、忙しい時、夜寝ようとして戸を叩かれた時、呟きたくなった事をおぼえております。

 「どうしてこんな事をしなければならないのだろう」とか、「招いてあげたのにあまり感謝されなかったとか、ペテロはそれを良く知っていたのでしょう。「呟かないで」もてなしなさい、と言っています。

3.心から

 「親切に」という言葉は、原語の意味を敷衍したもので、翻訳者が挿入したものと思われますが、相応しい言葉です。 つまり、早く帰ってくれないかな、などとほうきを逆さに立ててみたりしないで、「この時間はその人のため」と思って、心からもてなしたいものです。

 むかし、有名な伝道者といいますか、エバンジェリストの方が、上京するときに家に電話をかけてきまして、「いま東京にいます。お世話になりたいのでお茶漬けを用意してください」といいました。母はその通りお茶漬けを用意しました。愚直ですけれども、飾らない人でした。

 ごちそうはなくてもよい、家は大きくなくてもよい、少しくらい汚れていてもよい、でも人を家に招じ入れることは、その人を心に迎え入れることです。

4.互いに

 「互いに」という言葉の中に、クリスチャン同士が、他の人々以上にもてなしもてなされる関係を持っていたこと、持つべきことが示唆されています。

 私達日本人は、一般に家で接待する事を躊躇します。 ごちそうが出せない、家は小さい、汚れて散らかっている、友だちも遠くにいるから来て頂くのが申し訳ない、お互いに忙しい、と理由をあげればきりがありません。

 でも招く側も招かれる側もあまり気張らないで互いをもてなし合う習慣がもっと作られて行かねばならないのではないでしょうか。

 この一年、会場の制約で定期集会以外はあまり活動ができませんが、これを奇禍として、家庭集会や家庭ごとの交わりを強化して頂きたいと思います。

 初代教会は家庭での集まりから始まったことを考えますと、これは原点に戻る事でもあります。


C.奉仕--仕え合う事を通して

 愛し合う事を通して

4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

4:11a 奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。

1.それぞれの賜物の認識

 私達は賜物を与えられている事を自覚しましょう。聖書でいう賜物とは必ずしも、持って生まれた能力とか、積み上げた経験というのではなく、聖霊が教会の中で私達を用いなさるために与えなさった特性や能力の事です。

 それは互いにみんな違います。パウロは預言、説教、教え、行政、財的奉仕、体を使っての奉仕、励まし、慰め(今で言えばカウンセリング)、分け与える事、指導する事、慈善などの賜物をローマ人への手紙12章6節から8節までリストにしていますが、この他にもありうることでしょう。それが一つもないというひとはいない、とみことばは述べています。問題はそれを見つけだし、活用する事です。

2.賜物の活用

 私達はその賜物の管理者、つまり良く使うか死蔵するかの責任を委ねられています。賜物は自分のものではなく、主の栄光のためにだけ使うものであり、自分の都合や利得のために使うものでもありません。

 また、主が与えなさったのに、自分の都合を並べ立てて死蔵してしまうのは、過った謙遜です。

3.豊かに備えてくださる力によって

 ですからこそ、ペテロは、「神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」と語っているのです。

 賜物は一度に全部与えられるのではなく、使う度に強められ、必要に応じて増し加えられます。それを信じ、より頼みつつ仕えましょう。

3.豊かに備えてくださる力によって

 ここでは、「互いに」という言葉を忘れないようにしたいと思います。私は神に仕えているのであって、人には仕えない、ということはあり得ません。目に見える人間に仕える事が出来なくて、どうして目に見えない神に仕えることができるでしょうか。

4.互いに仕え合おう

 今日の総会の時に、それぞれの委員会の所属申し込みがなされますが、この教会にとっては委員会という形が私達の賜物を活かす場所です。


D.説教

 愛し合う事を通して

4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

4:11a 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り

1.語る内容--神の言葉を

 神の言葉である聖書を解き明かし、人々を養う人は活ける神が彼に語られたという事実を重く受け止めて、それに相応しい恐れとおののきを持って語るようにと勧められています。それに勝手な解釈を加えたり、自分の意見を加えたりして神の言葉を曲げてはなりません。まして、聴衆の誰かを意識して講壇 から攻撃するのはもっての他で、講壇の冒涜(ぼうとく)ですらあります。

2.語る態度--神の言葉に相応しく

 相応しさは語る態度にも顕れます。神の権威を持って語る事が、この相応しさに含まれています。

 聞くものが救われ、拒むものは滅びると言う厳しい側面が神の言葉にはあります。冗談やふざけ心をもって神の言葉を説くことも相応しくありません。もちろん、ユーモアを一つも交えなかったら眠くなりますから、必要な時もありますが、いかにして有効に神の言葉を伝達しようかという苦心の現れならば許されるでしょう。

 さらに、その語るものの相応しさは、語るように生きるということです。これ無しにただ語るだけというのは無責任であり、冒涜ですらあります。説教者が皆この水準に生きるように、伝道者のため」に格別祈って頂きたいのです。

3.そして、神の言葉が

 このように説かれ、聞かれるとき、神の業は進み、神の栄光が顕れます。

 この年、聖言に真実に聞く年となるように、それによって魂が救われ、きよめられ、献身に導かれるように祈っていただきたいのです。特に、今年、定期集会が主な活動となりますので、説教者のために祈り、説教のために備えして祈り、祈りつつ聞いていただきたいと思います。


総論

 神の栄光は

 (1)まず、これら全ての営みに於いて

 (2)そして、その力の源であり給うキリストの贖いを通して顕わされます。

 そのような年となるように、お互い祈りましょう。


Messege By Rev.T.Saoshiro,Edited by K.Otsuka



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