礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2002年2月3日
ルツ記連講(6)
「予期せざる恵み」
竿代 照夫 牧師
ルツ記2章1〜13節
2:3 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。 (3節) |
アウトライン
ハードワークであった落ち穂拾いで生計を立てていたルツが働いていた畑が、はからずも後の夫となるボアズの所有する畑であったことを通し、ひとつひとつの出来事が「人生のあらゆる面において、その良き意図をもって導」く--神の摂理--を学ぶ。
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始めに
1.昨年12月以来のルツ記連講になります。前回はナオミが気がつかなかった恵みについて学びました。それは、彼女とルツがベツレヘムに戻ってきた時期に関する事ですが、それが大麦の刈り入れの始めであり、しかも外国人ウェルカムウイークに当たっていた事でした。
2.今回はその続きですが、神がその摂理を通じてルツに恵みを注いで下さった事を学びます。摂理についてはこの前もお話しましたが、英語では providence ?プロビデンス?です。"Pro"は「前もって」 、videreはラテン語の「見る」という言葉から来ています。神は私達の全ての道筋を前もって見ておられ、その良き御心に沿って私達を導きなさるのです。
A.ボアズの紹介
1.1節には、後にその名前が意味を持ってくる人物が紹介されます。この説明は後からの物語で大きな意味を持ってくる伏線のようなものです。
2:1 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。
2.その名前はボアズは、「速さ」という意味で、彼はルツの姑ナオミの亡夫エリメレクの親戚で、「有力者」でした。この有力者という意味は、地位に於いて、そして財産において有力であるという意味です。その立場がベツレヘムの市議会議員的なものであったことは、4章の記事からも伺われます。
B.ルツの勤労
1.畑への出発
次に、2節を見ましょう。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。
1)切実さ:ベツレヘムでどういう家を見つけたかは良く分かりませんが、腰を落ち着ける間もなく、どうやって食べていくかが緊急の課題となりました。
失業率が史上最悪5.8%と言われる今日、ルツの問題は他人事ではありません。ルツは落ち穂拾いが貧しい人には許されることを知っていましたし、今なら大麦の刈り入れの最中で あるから何とかしようと考えたのです。
2)単独で
細かいことを言うようですが、ルツはその姑のナオミと一緒に行きましょうとは言わな いで、「私が行きます、お母さんはお留守番をよろしく。」と言ったのです。実に健気なお嫁さんだと思います。
外国人として、見知らぬ人々の間に入り、自由 でないヘブル語を使って会話をするなんて気が引けたかも知れません。でも背に腹は代えられません。決行することにしたのです。
3)そして、このあと述べますように、落ち穂拾いは貧しい人には一種の権利ではありましたが、いやがる農夫も沢山いたようです。
ですから、「当たりの柔らかそうな人を探して、その後についていこう。」と考えたのです。これが、実は大きな結果を生むのであります。
2.落ち穂拾いの制度
まず、この落ち穂を集めると言う習慣について振り返ってみますが、弱い立場にある者達を顧み給う愛の神は、彼等への供えを律法に記しておられます。レビ記を読んでみますと、
レビ記19:9-10 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
とあります。また申命記24章をお読みしますと、
申命記24:19 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人やみなしご、やもめのものと しなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
申命記24:22 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
とあります。
ルツの場合、貧しく、外国人であり、しかも寡婦でしたから、この受給の条件をみんな満たしていたと言えましょう。 社会福祉の条件を満たしていたわけです。
この前にも申しましたが、日本はほぼ一民族一言語の国ですから、異民族への配慮が大変乏しいと私は感じています。外国の人が日本国籍を持つための条件が厳しいこと、亡命を受け入れる基準の厳しいこと、指紋押捺を含む外国人登録制度の厳しいこと、世界一と言って良いでしょう。グローバリゼーションに向かう21世紀、この国をもっと外国人に優しい社会にしたいものです。
3.ルツの一生懸命な働き
1)困難にも拘わらず
働き始めた単身の婦人のルツにとって、この落ち穂拾いは必ずしも易しい仕事ではありませんでした。いわゆるセクシュアルハラスメントのようなものが絶えず起き得たからです。これはボアズがその若者に警告した言葉の中から伺えます。
2:9 私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。
また15、16節にも
2:15b 恥ずかしい思いをさせてはならない。
2:16b あの女をしかってはいけない。
と警告しています。逆から見ると、辱めたり、叱ったり、邪魔したりという行為が一般的であったことが伺えます。
2)休みも取らず
こんな中にあってルツは朝から昼まで、殆ど休みも取らずに働き続けました。7節には、
2:7 朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。
と記されています。
肉体的には大変疲れていた事でしょうが、その肉体に鞭打って不自由な姿勢で一生懸命働きました。いわゆるハードワーキングだったのであります。その細腕に彼女とその母ナオミの夕食がかかっていたのです。
さらに、彼女は外国人として奇異な眼をもって眺められ、虐められる危険をも恐れず懸命に働きました。彼女の中に真の勤労の精神を学びます。
15節では昼休みも長くは取らなかった様子が伺えます。
2:15a 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、
とあるからです。17節では夕方まで落ち穂を拾うだけではなく、それを脱穀して家に帰ったとも記されています。
3)謙遜と礼儀をもって
ルツは又、謙遜と礼儀正しさをもって働きました。彼女は落ち穂拾いの権利を主張することもできましたが、それをしないで、「どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。」と言いました(7節)。
最近聞くのが少なくなった言葉の一つが「どうぞ」です。英語圏で躾の度合いの良い悪いは「どうぞ」がきちんと言い得る子どもとなるか否かです。テーブルマナーにおいても、バターをもらうときに、目で即したりせず、"Please pass me butter."といわないと、しつけられていない、といういわれています。ルツ記に は多くの実践的教訓が含まれていることを忘れてはなりません。
4)神の嘉納
どんな人であれ、その与えられた仕事に打ち込んでいる姿というものは美しいものです。神は一生懸命働く人間をご自分の栄光の為に用いなさいます。
エリシャは12くびきの牛を懸命に操っているときにエリヤに呼びとめられました。羊飼い達が夜も寝ないで羊の番をしているときに、クリスマスのメッセージが与えられました。漁師達がガリラヤ湖で一生懸命漁をしているときに、主イエスは彼らを弟子にと召しなさいました。神は怠け者には大切な仕事を任せないのであります。
5)私達へのチャレンジ
今の時代は勤労の貴さ、美しさを見失っている時代です。動機や背景はともあれ、一世代前の日本では勤勉が美徳とされた時代でした。残念ながら、この気風は失われつつあります。私達はルツのこの美しい物語の中に多くある教訓の一つとして勤勉・勤労の貴さを学びたいものです。
職場において、学校において、聖書を学ぶ姿勢に於いて私達は勤勉でしょうか。落ち穂を一つも残すことなく集めきったルツの勤勉さを私達も身につけたいものです。
ルツに戻りますが、実に陰日向なく、よく働きました。それは見られるためではなく、ナオミを喜ばす為でした。人が見ている時は働く、人が見ていないときは怠ける、こういった二面性をもってはなりません。
C.神の摂理
1.ボアズの畑へ
さて、そのルツが懸命に働いている畑は「はからずも」ボアズの畑だったのです。
ルツは慣れない土地でどこでどうやって働き始めたら良いのか、大いに不安であったと思います。ですから、出かける前に「私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」と姑に言い残しました。
あちらに麦畑、こちらに麦畑という状況で何処にしようか迷ったことでしょうが、何となく親切そうな働き人に許可を求めたと想像されます。それはある意味で「はかった」とも言えるでしょう。
また、ボアズは大変親切であるばかりか、部下をきちんと訓練していましたから、ルツにとって取っつきやすい農場だったのでしょう。しかし、それがまさか親戚のボアズの畑とは知らなかったという意味では、偶然だったのです。
2.はからずも
この「はからずも」について考えてみますと、英語では"It happened to be in Boaz's field."となっています。ヘブル語でも 同じような意味で、偶然(chance)と訳すことができます。そして彼女がそこに入ったちょうどそのころ、ボアズ本人がやってきて、その使用人と 会話を始めるのです。
私達にとって「機会」とは不思議な巡り合わせでやってきます。 先週後半ですが、私達の会堂候補地の地主さんと正式にお会いしました。その時も世には偶然とは存在しないのだ、ということを感じ増した。その方は、私達の広尾の教会の近くに住む方で、「教会のチラシも何度も受け取りました。教会の側も何度も通りました。教会の動きも見ていました」と仰いました。
また、ケニアにも二度ほど行っており、共通の友人もおりました。そういうことで、お互いが心を開くのに時間はかかりませんでした。そして、会堂のことにもいい意味で反映しました。
この会堂問題の一節一節にも神様の力が働いてくださったことを思いますときに、神の摂理の不思議さを讃えずにはおられません。
3.摂理について(再)
ルツにとって、自分の姑の親戚であるボアズの畑に迷い込んだこと、そこにボアズがやってきて会話が始まったこと、そしてそれがルツの生涯の一大転機となったこと、これらを見るとき、神にとって偶然はない、全てが神の御手の中で、摂理によって動かされていることを感じます。
摂理とは前にも申し上げましたように「愛の神が私達の人生のあらゆる面において、その良き意図をもって導きなさること」です。まさに、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のです。
4.最後に:私達がいるところは?
私達は今どこにいるのでしょうか。ボアズが予表するキリストの畑に導かれています。何という光栄、何という恵みでありましょうか。私達が選んだからでしょうか。違います。イエス様が選んで下さったのです。
私が以前いた、仙台教会にいた方で、盆踊りを見ようと早く家を出たために、当時の路傍伝道に出会い,結局家族みなが救われました。ちょっとした間違いでさえも、主はそれを良い目的のために用いられます。
どうぞ、主の恵み憐れみを賛美いたしましょう。
Message by Rev.T.Saoshiro; Compiled by K.Otsuka,Feb.3.2002