礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年2月17日

「同労者」

井川 正一郎 牧師

ピリピ2章25〜30節

中心聖句

2:25  しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らなければならないと思っています。

(25節)


はじめに

 ピリピ2章25節をお読み致します。

2:25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らなければならないと思っています。

 過日の野村寿美子姉の召天に関わる国光先生のお話、またかつてお母様を天に送られた際のお話において、「同労者をなくされた」と表現されたことを覚えております。

 伝道者同士、教師と神学生との関係は勿論、また時として夫婦の関係も、同労者と言えるのではないかと思います。

 キリスト教、聖書の宗教はキリスト(神)と私との個人的関係で成り立つものです。しかし、同時にそれは個人的なものにとどまらず、他の人との関係に広がっていく社会的性質をもっているものです。あくまでも最終的には個人的なものではありますが、他の人との関わりを無視できない、否、それは欠かすことのできない大切な要素となっているのです。

 今日は聖書の幾つかの箇所を開いて、「同労者」について学びたいと導かれております。

 そもそも、同労者とは、一般的には、身分地位や主従の上下関係ではなく、同じ立場で自主的に、同じ使命目的のために働く共働者のことをいうのであります。


A.同労者の種類

 同労者の種類として3つあげてみます。

(1)神とともに働く同労者(キリストとともに)

 第一に、「神とともに働く同労者」です。

 原語では「ともに働く」とのみ記されています。「神と」はありません。

 パウロはみずからを神とともに働く者としての立場から、コリント教会の人々に語っているのです。私は「神とともに」働く者は、神の同労者だと考えております。

 彼は言っています。神の恵みをむだにしないように、と。そして、その務めがそしられないように、神の同労者ではあるが、神のしもべとして自分を推薦しているのです。

 ここでは、神の働きに自分も参加できる、加わることのできるとの意識です。

 第1コリント3:9の「神の協力者」も同じ趣旨です。

 参考として、マルコ16:20「主が彼らとともに働き」は、キリストとともに働く同労者ということです。

(2)ともに働き、戦う同労者

 第二は、「ともに働き、戦う同労者」です。

 ローマ16:3に「キリストにあって私の同労者プリスカとアクラ」とあります。

 ポント生れのユダヤ人のアクラとその妻プリスキラです。パウロは二人の家に住みました。そして一緒に仕事をしました。彼らの職業は天幕造りです。パウロを霊的にも物質的にも助けた夫婦です。しかも、アポロの奉仕に足りなさを感じたとき、それを建てあげるべく、彼を招きいれて正しく説明を加えたのです。

 ローマ書の彼らは自分のいのちの危険をおかしてパウロのいのちを守った人たちであったとあります。そして、パウロだけでなく、すべての異邦人の教会の人々にも感謝された器たちです。いのちの危険をおかして戦ってくれた同労者なのです。

 ピリピ2:25には「私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者…」とあります。また、コロサイ4:11には「神の国のために働く私の同労者」とあります。

(3)信仰の勇者、多くの証人、殉教者たちとも同労者

 第三は、「過去の信仰の勇者、多くの証人、殉教者たちとも同労者」ということです。

 へブル12:1に「このように多くの証人たちが…」とあり、前の11章に記載されている過去の信仰の勇者、多くの証人、殉教者のことを述べております。

 特に11章にある彼ら(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、…)とも、同じ列に並べられる同労者ということなのです。

 一方、現在、知り合っている同労者もいるでしょう。また、名前も顔も知らないが、同じ福音のために戦っている(戦った)人々も、同労者ということなのです。

 過去、現在、また将来においても信仰者たちは多くの同労者とともに歩んでいることを知らされるのです。


B.同労者と言われるためには

 それでは、同労者と言われるために大切なことは何でしょうか。特にピリピ書のエパフロデトから学んでみたいと思います。

 まず、エパフロデトという人物ですが、名前の意味は、「魅力あるもの、チャーミング」です。コロサイ書のエパフラス(別人)の名前の意味と同じです。

 人物像は次のとおりです。

 ピリピ教会の牧者でしょうか?そうでなく、役員クラス(会計役員)の人物でしょうか?

 ピリピ教会のパウロヘの贈物をもって、ローマ獄中にあるパウロのもとへ届ける使者でした。単なる使いでなく、パウロの下で懸命に福音の奉仕をもしました。

 パウロの窮乏にも心を込めて仕え、奉仕をしました。その働きぶりは死に至るような病にかかるまでのものでした。

 その彼が回復し、ピリピに戻ろうとする時、パウロは彼を心から迎えてほしいと勧めるのです。病気になったが、それはパウロの足手まといになったのではありません。すばらしい奉仕をしてくれたのです。ここに来れないピリピ教会の人々の分を十分に補ってやまないよき奉仕でありました。

 ここに、パウロの彼に対する大きな評価をみるのです。そして何よりも彼の形容のことばにそれがあらわれています。兄弟、同労者、戦友(アルキポとここの2回だけ)です。

 以上のことから、エパフロデトは、真の意味で同労者なのです。

 で、同労者と言われるために、大切なことを6つにまとめてみます。

(1)共通の信仰

 キリストへの信仰です。

(2)共通の性質

 兄弟、性質・品性、神の性質を受け継ぐものです。

(3)共通の使命・目的

 キリストの仕事=福音のため、を使命(目的)としていることです。

(4)共通の献身(意識)、代価・犠牲

 いのちの危険をおかして(=プリスキラとアクラと同じ)、窮乏のとき仕えてくれた、ピリピ教会の代表として、それを意識してピリピの人々の分も十分に果たそうとしました。主のため、またパウロのために!

(5)共通の戦い

 戦友、戦い・苦闘・苦労が意識されています。

(6)共通の栄光

 直接的にはピリピの教会の尊敬?でも、それはヘブル11、12章にあるような、主の栄光、天の栄光です。


しめくくり

 締め括りに2つのことだけ申し上げたいのです。

1.戦いは、決して一人ぼっちではない!

 隣の方は実は同労者なのです。私の主人、奥さん、実は同労者なのです。一人で戦っている人がいたとしても、実は教会の人、同労者なのです。

 戦いは、一人ぼっちではないのです。

 私の同労者?そんなものいるか、そうではないのです。

 目に見えなくても、過去の多くの証人、殉教者たち、否、イエス様ご自身が同労者なのです。今日、神様はそのように語って下さるのです。

 どうそそのことを、励ましと慰めを頂戴して、今日立ち上がり、この一週も心を強くして進みたいと思うのであります。

2.同じものをもっている恵み!

 同じものをもっている恵みを覚えましょう、ということです。

 ですから、その逆に、「同じものを持っていますか?」ということが、今日、神様の問いかけでもあるのです。

 勿論、私たちは、違った人格、個性を持っています。しかし、共通のものがあるのです。

 同じものを持っている夫婦でありますでしょうか。同じものを持っている兄弟でありますでしょうか。同じものを持っている教会員同士でありますでしょうか。

 同じような信仰、同じようなイエス様に対する献身と犠牲でしょうか。

 私たちは最後の素晴らしい天の栄光、主の栄光を目指しながら、共通の栄光を目指しながら、望みと希望をもって進んでいるお互いでございます。

 「同じものを持っていますか?」もし、違うもので、それが反発し合うものであるならば、主の前で申し訳ないことでございます。

 今日、私たち、同労者です。そしてお互い、同労者として、同じものを持ったものとして、進んで行きたいのであります。

 神とともに働く同労者、人とともに働く同労者、過去の多くの証人、殉教者たちとも同労者、このことを感謝しながら、この一週を一歩一歩、歩ませていただきましょう。

 お祈りしましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2002.2.17



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