礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年3月3日

ルツ記連講(9)

「贖いへの希望」

竿代 照夫 牧師

ルツ記2章17〜23節

中心聖句

2:20 ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

20節)


はじめに

  先週は、「落ち穂拾いのスピリット」と言うテーマで学びました。どんなスピリットだったか思い出してみましょう。それは、小さな事に忠実なスピリットです。一本一本の落穂を無駄にしないで、丁寧に拾い集めるスピリットです。またそれは、喜びのスピリットであります。本来なら値しない自分に、その場所が与えられていることに対する感謝と感恩に基づく喜びをもってするのが落穂拾いスピリットです。そしてそれは忍耐のスピリットでした。落穂拾いは簡単そうに見えて、実際は容易な仕事ではありません。とてもくたびれる仕事ですが、それを朝から晩まで継続したルツの姿を見ることができます。

 今週はナオミに焦点を当てます。ナオミはルツとともにモアブの地から故郷のベツレヘムに帰って来ました。帰ってきたときには、皆に「ナオミさん」と呼ばれて気を悪くしました。その理由は、ナオミとは「快い」という意味であり、「ナオミさん」(日本語だと「快子さん」?)と呼ばれるのが相当皮肉に聞こえたからです。帰って来た時のナオミにはそのような苦いスピリットが見られました。その様子は1章20節と21節に描かれています。

1:20ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。。

1:21 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」

 この中には、神ご自身に対する恨み節を見て取ることができます。こういう状態は暫く続いて、彼女は塞ぎこんでいたようです。

 しかし、第2章に入ると変化が見られます。このようなつらい環境にあっても神が彼女とその家族に憐れみをそそいでいて下さるという神の摂理に気がついたとき、彼女はそれまでの苦いスピリットを捨てて、神を賛美するようになりました。

 


A. ルツの報告とナオミの喜び

1. ルツの帰宅と「お土産」

 2章17節にはルツが帰ってくる姿が描かれています。

2:17 こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。

 落穂拾いの後、脱穀までしてから帰ったとなると、日はとっぷりと暮れて、街も真っ暗だったことでしょう。そんな時間に重い荷物をかかえてルツが帰って来ました。今のように携帯電話がある訳でなく、ナオミの側からすると、道に迷ったのではないか、悪い人にかどわかされたのではないかと心配して、一生懸命お祈りしていたことでしょう。ですから、ナオミはルツを見たときにさぞかしほっとしたことでしょう。それだけでなく、彼女が輝かしい顔をして、23リットルもの小麦を抱えているのを見て二度びっくりしました。18節の「持って・・・その拾い集めたのを見せ」と言う言葉は、やっこらさーと重々しく運んだ(brought forth)という意味の言葉が使われています。さらに昼御飯の残りの炒り麦を見て三度びっくりした事でしょう。それも、食べたいのを我慢して残したのではなく、充分食べた残りという説明さえ加えられていたのです。

2. ナオミの質問

 その喜びが、あられのような質問となってルツに向けられました。それが19節です。「きょう、どこで(どのように=と言う言葉が原語には入っている)落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」たたみかけるようなあわただしい質問です。

3. ルツの報告

  ルツはしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました。」と報告します。

4. ナオミの驚きと感謝「ボアズは贖い人の一人!」

 「えっ、ボアズさんですって?」とナオミは驚きます。やっぱりそうだったのか、と納得したナオミは、でもいきなりボアズさんとは誰かを説明せず、まず主を賛美します。

 私には、貧しくはあっても、姑が嫁を思い遣り、嫁が姑を思い遣る本当にほのぼのとした家庭の様子が目に浮かんで参ります。ベツレヘムに何軒の家があったか分かりませんが、このローソク一本のあばら家ほど心暖まる家庭はなかったのではないでしょうか。

 20節でナオミは神を賛美して、「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」と言っています。生きているものとは、自分とルツの事でしょう。死んだものとは、夫エリメレクと息子のマフロン、キルヨンを指しているでしょう。この捨てられたような家族に光明が灯った、それは主の憐れみだ、とナオミは考えたのです。ひと呼吸おいて、ナオミは重大な符合をルツに説明します。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。

 今日はここで少し物語を止め、ナオミの言った「買い戻しの権利のある親類」という言葉と思想、制度についてやや詳しく説明したいと思います。

 


B.贖いという言葉と思想

1. 贖い人

  ナオミがここで「買い戻しの権利のある親類」と言っているのは、ヘブル語ではたった一語ゴエル(goel)です。実はこの言葉の中に聖書全体の中心的なテーマが込められています。

 ゴエルとはガーアルgaal=買い戻す、近親者として買い戻しや復讐の務めを果たす)という動詞から来た名詞です。英語ではredeemです。日本語では贖いと訳されています。しかし、現在では贖いという言葉は日常生活ではほとんど使われておらず、クリスチャン用語に限定されていますが、昔は代価を払って買い戻す行為をさす言葉として使われていました。

2. 贖いの要素

 ガーアルという言葉は今申し上げましたように、元々自分の所有であったものが何らかの理由で人手に渡った場合、それを価を払って買い戻す行為をさすものです。この贖いの行為に含まれる要素を幾つか掲げます:

1)買い戻す者と買い戻されるものとの密接な関係

 それはあかの他人であってはだめで、親戚関係の近い者から順に義務がありました。

2)落ちぶれた状態

 それは土地が売られてしまった、とか人が奴隷として売られたとか、持ち物が奪われたとか、命が理不尽な理由で奪われたといった状態の時に贖いが必要とされました。

3)買い戻す際に払われる高価な代価

 落ちぶれた原因は何であれ、その状態から抜け出る為の高額な代価が必要とされました。土地の場合には、代価の計算の方程式があって、それに従って代価を払う必要がありました。奴隷の場合にも必要な額の計算式がありました。あるいは、命の場合には、旧約聖書には「命には命を」という法則がありますから、正当な復讐が許されておりました。ただし、どうか新約聖書の教えもそうであると思わないで下さい。これはあくまで旧約聖書の時代の方式です。

3. 贖いの精神的な意味

 さて、この家族的な贖い制度は、精神的な意味で、神が私たちを救いなさるという意味でも使われるようになりました。そのひとつの例は出エジプト(出エジプト15:13)です。

15:13あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

 これは奴隷状態となったイスラエルの民を、神が大きな代価を払って救われた贖いの業の代表的な事例です。

 もうひとつの代表例はバビロン捕囚からの釈放(イザヤ43:1)です。

43:1だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

 ここではイスラエルが紀元前7世紀にバビロンによって虜となって根こそぎ連れ去られたのですが、そこからもう一度祖国に戻して下さった歴史的なできごとを、神が「贖った」と表現されています。

 それは個人の霊的な救いにも当てはめられました(詩篇103:4)。

103:4あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

 これは個人が、危険な状況、悲惨な状況にあるとき、そこからの救いを表しています。

4. 新約への発展

  ガアルと言う言葉が旧約聖書ギリシャ語訳に訳されるとき、ルトロオーlutrow=切る、釈放する)と言う言葉が使われました。そして、キリストがご自身の肉体という尊い代価を払って、罪の中に沈んでいた私達罪人を釈放されたその代価をルトロンと言い表わしたのです。

 その例をひとつ見てみましょう。第一ペテロ1:18,19です。

1:18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

1:19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 贖い出すという言葉を考えると、小さいときの遊びを思い出します。2つのチームに分かれて、つかまった人は奴隷となって木に数珠繋ぎにされます。それを助け出すためには、つかまらないように、そこに忍び寄って、数珠繋ぎになってつないでいる手のできるだけ根元をすぱっと切ると、その先の人が皆助け出されます。贖い出すというのはちょうどそういうものなのです。

 私たちには罪の奴隷となって、こういう習慣はやめたいと思いながらやめられないことが誰にもあることでしょう。聖書はこう言っています。「罪を犯すものは罪の奴隷である。」と。悪いことを喜んでする人はいません。人間には良心がありますので、皆正しいことをしたいと思っています。しかし、それができないのは、罪の奴隷になっているからです。それをイエス・キリストが、鬼ごっこの敵陣に来て根元を断ち切るように、私たちの罪を全部十字架に背負うことによって、そこから釈放して下さったのです。代価を払って、神の手に回復してくださったのです。これが、新約聖書が語っている「贖い」です。

 つまり贖いと言う思想は旧約時代の社会制度から始まり、神の奇跡的な救いを表わす言葉となり、新約聖書のキリストの完全で決定的な救いを表わす言葉になったのです。

 そして、旧約聖書は贖いの意味を本当に理解するための準備教育の役割を果たしています。

 贖いとはなんと素晴らしい制度でしょう。そして今に至る素晴らしい制度がその中に含まれているのです。


C.土地の贖いについて

1. イスラエルの土地制度

 イスラエルの土地所有制度は今日の私達が日本で行っているものとは大きく異なっています。日本の土地制度は、その私有が基本であって、売買も一定の登録手続きさえ踏めば全く自由です。イスラエルの土地所有制度を、レビ記25章の記述を基に以下の項目に纏めてみました:

1)  土地は神のもの(23節「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。」)

2)  それはイスラエルの各部族、士族、そして家族に割り当てられている。これが始まったのはヨシュアがカナンを占領したときです。

3) その地境は変更してはならない(「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。」(箴言22:28)。

4) どうしても窮したときは、土地の耕作権(地上権)は売ることが出来る。

5) しかし、それは50年毎に元の持ち主に無償で返却しなければならない。その50年をヨベルの年という。

6) 地上権の価格は、次のヨベル年迄の年数x予想される年収穫利益である。

7) 地上権の買い主は、売り主の買戻権を認める。

8) 売り主は、その買戻権に基づいて、適当な時期に地上権を買い戻せる。

9) 売り主に近い親戚があれば、その人は、売り主に代わって地上権を買い戻すことが出来る。その親戚を贖い人(ゴエル)と言う。

10) 贖い人は地上権を贖った後、その土地の地上権を元の所有者の名義とする。その人が女性であればその人を妻として受け入れる。

11) その贖い人の優先順位は売り主との関係の近さによって定められる。しかし、近い贖い人でも遠い贖い人にその権利を譲ることが出来る。つまり、中には土地は良いが、お嫁さんは困るという人もいます。そういう場合には第一権利の贖い人が、第二権利の贖い人に権利を譲ることができます。そのときはその土地に行って、靴を脱いで第二権利の人に渡すと、権利を譲ったことになります。

 実はボアズは第二権利の贖い人だったのですが、それがどうやって第一権利になったかは、この後の物語で出てくるのですが、今日はここで話を止めます。

 私はこの贖いの制度はなんと素晴らしい制度だろうと思います。そしてその制度が、なんの希望もなかった、ナオミの心をほぐしてくれたのです。ルツが迷い込んだ畑がたまたまお金持ちの贖い人のボアズのものであったこと、そのボアズがルツに好意と関心を示してくれた事で、全てを無くしていたナオミの心にぽつんと希望の火がともったのでした。


D.私達にとっての贖い

 私たちはこのことを自分の生涯にあてはめて考えたいと思います。

 贖いというのは落ちぶれた状態を前提にしていると申しました。私たちは本来どういう状態だったでしょうか。パウロはこう語っています。「あなたがたは神無く、望み無く、キリスト無く、この世に何のとりえもないものであった。」と。キリストを知る前の私たちがそれ以上のものであったと言える人はいないはずです。私達は、何の取り柄もない、それどころか神に背き、望みなく、力なき人生を辿って来た者でした。しかしそのような私たちのために、イエス・キリストが地上に来られ、尊い命を捨て、血潮を流して、贖いの代価を払ってくださいました。そして私たちは今、その贖いの枠の中に入れられているのです。私はこのことを思うと感謝の念が絶えません。「ああ恵み我にさえ及べり」と歌われていますように、その贖いが私達個人に及びました。私たちはそのことに感謝し、神を賛美したいと思います。それが、私たちの信仰の原点であり、スタートラインであり、あるべき姿です。

 最後に一人一人に訴えたいことは、この信仰の原点を毎日確認してから一日を始めましょうということです。どこかで時をとって、静まって、いつでもスタートラインを確認したいものです。ちょうどコンピュータを立ち上げる時に、何とかラムがルーチンの活動をして、さあどうぞ入力して下さいと準備ができるのと似ています。私たちの信仰生活のスタートはいつでも、イエス様の血潮によって贖われているという原点です。その恵みにたって一日一日をスタートすることは、なんと素晴らしいことでしょう。

 最後に私たちが直面している会堂問題についてもあてはめたいと思います。聖書には「我を贖う者は強し」と書かれています。このお方を信じて、いろいろな課題があるでしょうが、贖いの証をまっとうしたいと思います。

 私たちは3千年前のルツの物語を学んでいますが、このルツの物語を21世紀の東京で再現させていただいているという喜びをもって進みたいと思います。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on 2002.3.12



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