礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年3月17日

受難週を前に(2)

「血による新契約」

竿代 照夫 牧師

ルカ22章7〜23節

中心聖句

22:20  食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

(20節)


はじめに

 来週から受難週を迎えます。例年ですと日曜日を棕櫚の聖日として守り、それに続いて受難週には早天祈祷会を持つ等して、特別な行事を持つのですが、今年は、年会や会場の都合でそれが出来ません。どうか個人個人でこれを良く覚えて過ごして敬虔に頂きたいのです。

 今年のカレンダーで主な出来事を述べますと

3/24(日):エルサレムへロバに乗って入城

3/25(月):実のない無花果の呪い

3/26(火):多くの論争 → 終末についての預言

3/27(水):ベタニヤでの休息とマリヤの塗油

3/28(木):最後の晩餐 → ゲッセマネの祈り → 捕縛 →

       深夜の裁判、ペテロの裏切り

3/29(金):夜通しの裁判 → 十字架刑 → 死と埋葬

3/31(日):復活

 となります。カトリックの人々は聖金曜日から逆算して40日間をレントといって肉を食べず、克己して過ごしますが、プロテスタントである私達も、形はともかく同じ思いを持って過ごしたいものです。

 今日は聖餐式も控えていますので、聖餐式の元となった最後の晩餐の記事から、「これは契約の血です。」と語られた主の言葉を中心にお話します。


A.過越の食事

1.過越の意義:出エジプトの記念

 7、8節を見ましょう。

7 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。

8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」

 ちょうど日本人にとって元旦の雑煮が一番大切であるように、ユダヤ人にとって一年で一番大切な食事は過越の食事でした。過越とは、いにしえ、イスラエル人が出エジプトをした時に遡ります。天使が全てのエジプト人の長男を滅ぼした時に、小羊の血をドアと鴨居に塗ったイスラエルの家々を過ぎ越したことに由来しています。

 その小羊の肉と、イースト菌を炒入れないパンと、苦い野菜を食べてそれを思い出すのが、今に至る迄の習慣です。

2.場所の設定

 9〜13節を読みます。

9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」

10 イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。

11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。

12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」

13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。

 その過越の食事が主と弟子達との最後の晩餐になった訳なのですが、場所の設定はペテロとヨハネに委ねられました。勿論委ねたのは主で、それを行ったのはエルサレム郊外のベタニヤ村においてです。

 主は二人に、「水がめを運んでいる男」に出会い、彼に着いて行き、彼に食事の場所をたずねなさい、という不思議な命令をくだします。そして、彼らが出かけて見ると、「イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。」のです。

 この不思議なエピソードは、裏切り者であるユダが身内にいたこと、そしてエルサレムには主を亡き物にしようとする勢力が満ちていたことから来た物と思われます。誰にも分からない、しかし主と家主だけが分かる方法で連絡をしたのです。特に裏切り者のユダがイエスを売る交渉を終えて、何くわぬ顔をして帰って来たばかりでしたから、事は秘密の内に運ばねばならなかったのです。

 そんなに危険ならば、ベタニヤ村で過越の食事をしてもよかったのではと思われますが、主はどんな犠牲を払ってもエルサレム城内でこれを行いたい、しかも時ならぬ逮捕劇は避けたい、という必要から、このような謎めいた場所選びをなさったのです。

 意義深い過ぎ越しと最後の晩餐を、誰にも邪魔されず、しかもエルサレムで行う事を主は目論まれました。また、これが福音書記者マルコの実家であったという伝承は、使徒の働き12:13から見て信ぴょう性の高いものと思われます。

3.食事の順序

 メニューは5つ:種無しパン、苦い菜、葡萄酒(当時の風習に詳しいイーダーシャイムという聖書学者は、濃い葡萄酒を二、三倍の水で薄めたものと説明しています)、カロシェトという干した果物で出来たフルーツケーキ、そしてパンを浸す酢、そしてメインは小羊の肉でした。その肉は規定に従って殺されたもので、贖いの意味を持っていました。その肉を共に食しながら、世の罪を除く神の小羊であるキリストが正に屠られようとしていました。

 着席についてルカは「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。」(14節)と記しています。太陽が落ち、ユダヤの暦ではもうこの日は木曜ではなく、次の金曜日になっていました。

 彼らは思い思いに座ったのではなく、一定の順序に従って座ったと思われます。座ると言いましたが、現在の様な椅子ではなく、ソファの様な椅子に寝そべって頭だけがテーブルに向かうという形であったと思われます。(図を参照して下さい)。

 それから洗足は晩餐の始め頃の儀式として行われましたがルカはこれについて言及していません。

 開会の言葉:15、16節を読みましょう。

15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

 この過越の食事兼最後の晩餐を心から大切に考え、待ち望んでおられたかを強調されます。それは「望みに望んだ」という強調語によって示されています。

 ユダの裏切りの告知が次になされました。そしてユダは外に出たと思われます。ユダの外出の時期については、ルカの記事は聖餐式制定の後のような印象を与えます(21、22節)が、時間的順序により忠実であるマルコの記事によれば、これが先に来る様です。

4.聖餐の制定

 儀式は食事の最初ではなく締めくくり的な意味で行われました。19節から20節を読みます。

19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」

20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

 そこに荘厳さ、厳粛さがあって、弟子達は印象深く覚えていたようです。ルカの記事では、杯が二度回されたような印象を与えます。イーダーシャイムは、これは三度目の杯、一般には祝福の杯と言われていた、と説明します。

 これが過越の食事の締めくくりとして行われていました。パンは裂いて(というよりは割って)一人一人に分け与えられました。葡萄酒は一つの杯で回し飲みされました。主はご自身が捧げる供え物の血をこの杯に象徴されたと思われます。


B.新契約の血

1.契約は血によって保証

 神と人との約束は、血を流す事によって有効とされました。その意義は、約束は絶対に違反しない、違反したら、命を持ってそれを償うと言う責任の大きさを象徴していました。ヘブル9:18を見ますと「初めの契約も血なしに成立したのではありません。」と記されています。日本でも血判という習慣がありますが、それと共通の点があります。

2.罪の赦しときよめの為

 この契約は血を流す事(命を注ぐ事)自体に意味がありました。血によって承認されるという意義と共に、否、それ以上に、身代わりとしての血が流されることに意味があったのです。

 私達が負わなければならない罪の罰を、キリストが十字架の上で全部引き受けて下さった、それが「血によってなされる新しい契約」でした。山羊や牛の血は私達の心の内側ではなく、外側の物を清いものと見なす儀式にしか過ぎませんでした。それが本当に私達の良心の呵責を解消し、私達の生活の在り方を実際的に変革し、罪に勝つ力を与えるためには、儀式以上のもの、神の子の命が注がれる必要があったのです。

 マルコは、14:24に「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」と多くの人のため、流されるものとしての血について言及しています。血は生命が暴力的な方法で奪われる事の象徴です。主イエスが自然死ではなくて、刑罰を受けることで死ぬ事をこの血は象徴していました。ですからマタイは、26:27に「罪を赦すために」という言葉を付け加えています。

3.新しい契約

 それは新しい契約でした。古い契約とは旧約聖書全体と言えます。英語ではいみじくもOld Testament(古い契約)と言い、新約の事はNew Testament(新しい契約)と呼んでいます。

 古い契約とは、律法に基づくもので、行為による救いを示しています。これを行え、そうすれば生きる、というものです。十戒はその典型ですが、それ以外にも、モーセを通して与えられた神の祝福と呪いの約束を貫くのは正にこの原則です。

 しかし、この契約はうまく行きませんでした。契約が悪かったのではなく、契約を守る側の性格が悪かったのです。誰一人、その律法を遵守出来ませんでした。

 エレミヤ書11:10には、「彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破った。」と記されています。

 その人間性の弱さ、罪深さに立脚して、エレミヤは新しい契約の到来を預言しました。その契約とは私達の罪を赦し、新しい心を与える所にその核心があります。エレミヤ書 31:31〜34には、

31 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――

33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

 神様のおきてが心の中に埋め込まれる、どういうことかと申しますと、神のみこころに従うことが私の喜びとなる、これが新約の福音でございます。

 これをしてはいけない、あれもしてはいけない、こうしなさい、というきまりが沢山あります。これをしかり守っているのがクリスチャンだ、とんでもありません。

 生ける神との交わりによって律法を守る心と力が与えられる、これが新契約です。それを可能にするのが主イエスの贖いの血潮です。


C.聖餐の意味

 今日、聖餐のテーブルに着く時、私達の心構えとして、少なくとも次の三点を考えたいと思います。

1.信仰:キリストと私たちが一体化する

 主の成し遂げて下さった十字架の贖いが私ものであるという信仰は、彼の裂かれた肉を(象徴的にではありますが)食らうこと、彼の血潮を(象徴的にではありますが)飲むことによって強められます。

 ヨハネ6:56に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」と記されていますが、これは文字通りに取るのではなく、信仰によってキリストと私達が一体化すること、かれの性質を自分の血と肉に取り入れることを意味します。

2.感謝:キリストの犠牲に対して

 主は感謝を捧げて後パンと杯を回されました。私達の感謝は、キリストの貴い犠牲に対してです。聖餐に与るとき、贖いの恵みを心から感謝しましょう。

3.献身:兄弟のために命を捨てる

 主は、別な場所で、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(マルコ10:3)と問うておられます。

 主はその血潮の最後の一滴までも私達の救いの為に注ぎだして下さいました。この十字架の苦しみという杯を私達も共に担う決意があるでしょうか

 一人のフォードの重役の方のことをお話します。神様が彼に直接語りました。「あなたはフォードの重役であることが主のみこころであると思うか。そうではなくて、エイズで苦しんでいる人々の面倒をみ、介抱をする仕事に切り替えるべきではないか。」神様が語られた時、彼は、フォードで得られる高収入の道を捨て、ボランンテア同然の神様の御旨の道を選択しました。これにより彼は神の豊かな恵みを感じることが出来ました。

 私達が聖餐の杯に与るとき、「主よ、私もあなたと一緒に十字架に掛かります。私の血潮、私のいのちをあなたにお捧げ致します。」という決意をもって臨ませて頂きたいのです。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2002.3.17



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