礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年4月21日

召天者記念礼拝にあたって

「記念される恵み」

竿代 照夫 牧師

マルコ14章3〜9節

中心聖句

14:9  まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。

(9節)


はじめに

 召天者記念礼拝の意義についてお話しします。これは、冥福を祈る為に行うのではありません。冥福を祈るとは、故人が成仏し、冥土において幸せに暮らせるように祈る事ですが、私達は、既に信仰を持って召された方々は最高の幸せの中にいる事を信じていますので、更に彼等の救いを祈る必要がないからです。

 クリスチャン的な記念礼拝では、故人の徳を偲び、その足跡にならい、さらに、私達も天国に生きる希望を新しくされる事です。

 今日は、記念するという意味について、主イエスに香油を注いだ婦人の物語からお話します。


A.物語の概要

3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。

1.出来事の背景

1)時:キリストの十字架の前々日

 キリストが十字架につく前々日、エルサレム郊外のベタニヤ村で休息をなさいました。

2)場所:エルサレム郊外のベタニヤ村、シモンの家

 その時宿を提供したのが、シモンという男でした。

 香油が主に注がれた記事は4つの福音書に共通していますが、内容は微妙に違います。マタイ26:6以下はマルコのそれと平行記事です。ルカ7章の記事は、油そそぎがパリサイ人シモンという男の家で行われたこと、香油を塗ったのは罪深い女がその罪を赦された感謝の心を持って行ったことが記されています。

 シモンという名前と香油を塗った事実以外は共通点がありませし、時期的にもこれは主の伝道活動の初期であった事が示唆されていますので、これは別な出来事でしょう。ヨハネ12章の記事は、過ぎ越の祭りの六日前に行われた(ような書き方がされている)こと、その女性の名前はマルタの妹でラザロの姉マリヤであったこと、塗ったのは「非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラム」であったこと、「イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった」ことがマルコの記事と異なります。

 でも、イスカリオテ・ユダの反論などを見ますと、同じ出来事の角度の変わった記録とも見られます。私は後者を取ります。以下、私はこの香油を塗ったのはマリヤであるという前提でお話します。

2.マリヤは主に香油を注ぐ

1)ナルドの香油:インド原産の甘松の根を絞って取る油

3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。

 そのマリヤが、ナルドという香油の入った石膏のつぼをもって、くつろいでいる主イエスの側に近付いて、その壷を割って、その香油を主の頭に注いだのです。

 油を全部注いだら顔から着物から油まみれになりそうに思えますが、実際はそうならなかったでしょう。彼らはくつろいで食事を取るときには、寝転がって食べていたと想像されます。

 彼女が注いだのは、ナルドの香油(ヨハネによれば300グラム)です。ナルドとは、インド原産で、寒いところに生える棘状の幹を持つ草のことで、日本語では甘松(かんしょう)と辞書には記されています。その根を絞ると強い香のする油が取れました。イスラエルではそれを輸入していたのですが、香を逃さないために石膏の壺に封印をして輸送するのが常でした。

2)その値段:300デナリ=一年の平均収入に相当

 一壺にして300デナリ(一人の人間の一年の平均収入に相当)もしたのです。今で言えば約300万円位でしょうか。通常これは嫁入り前の娘が結婚の資金の為に蓄えておくものでした。

3.弟子達はその行為を非難する

4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

 その高価な香油を一気に惜しげもなく一人の人間に注ぎ尽くしてしまったのですから、弟子達が非難するのも頷けます。

4.キリストはそれを弁護する

 キリストはこの異常とも言えるマリヤの行動を弁護されます。

6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。

7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。

8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

 マリヤは、愛と尊敬のもたらす直感をもって、主が十字架の死を直前にしておられることを見抜きました。それと正反対に、弟子達はいつも主と近くにおりながら、その心の重さを一つも想像できない鈍感さを持っていました。

 愛は想像力を生むと、今年の年会の小礼拝で申しましたが、想像力とは本当に大切な要素です。そして、彼女はためらいもなく、彼女の持っていた一番良いものをキリストに注ぎ尽くしたのです。

 主が高く評価されたのは、彼女の深い洞察力、献身、犠牲、果断の行動でした。それこそキリストがこれから命を注いで、全人類の為に成し遂げようとした救い(これを福音といいます)の精神を顕わしたものでした。

5.記念すべき行為として賞賛する

 その評価の現れが締めくくりに述べられた賞賛の言葉です。

9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 これはどんな誉め言葉にも勝る誉め言葉です。この中には、記念される事の恵みと幸いが如実に示されています。


B.記念される恵み

1.誰に覚えられるのか? >全ての人に、そして神ご自身に

 ここでは「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所」と記されています。つづめて言えば、全ての時代に、全ての国々にと言う意味で、こんな名もない女性の小さな出来事が記念されると言う事はなんという光栄でしょうか。人々が仮に忘れ去ったとしても、神は私達のどんなに小さな行為をも覚えておられます

 マタイ10:42には、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」とキリストは述べておられます。

2.何が覚えられるのか? >献身の心が

 必ずしも大きな記念碑的な事業を成し遂げる事ではありません。外側の規模とか、華やかさとか、事業の永続性とかも問題ではありません。主に対する献身の心それが覚えられるのです。

3.覚えられる幸いとは? >福音のスピリットを示すゆえに

 自分の名前が残るとか、有名になるとかではなく、それが他の人々への励ましとなり、模範となるという意味です。特にその行為が福音のスピリットを示している場合には、福音を提示する例話として用いられるのです。


C.私達が記念する人々

1.彼らの生涯とその模範を感謝しよう

 今日私達が記念している故人の足跡を考えましょう。私達の印象に残るような素晴らしい業績や、著書や、記念碑的な事柄を残した人もいるでしょう。余り目立たない、陰でひっそりと主に仕えて、地味な葬式をして天に帰られた方もあるでしょう。

 形はともあれ、彼らの忠実なキリストへの献身と奉仕が今日の主都教会を形作ったその功績を忘れてはなりません。彼らの生涯とその模範に対して心から感謝しましょう。同時にその様な忠実な献身と奉仕をもたらしたキリストの愛と救いを感謝しましょう。

2.私達もそれに倣おう

 私達も、私達のために命を捨ててまで愛して下さったキリストの愛を受け入れ、その愛に応えるべくキリストに最も良き物を注がせて頂きましょう。キリストに与えるとはとても抽象的に聞こえますが、実は極めて具体的です。マタイ25:31〜40の言葉を引用します。

マタイ25:31〜33 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

マタイ25:34〜36 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

マタイ25:37〜39 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

マタイ25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 キリストは今は見えないお方です。でも色々な必要を持った人間として存在しておられます。

 貧しい人々の為に献身したマザー・テレサは、その仕事の土台を上の言葉に置きました。彼女の言葉を引用します。

 「イエスは私達に会いにいらっしゃいます。イエスを歓迎するために、私達の方から進んでお出迎えに行きましょう。イエスは私達のもとに、飢えた人の姿、裸の姿、淋しい人の姿、アルコール依存者、麻薬中毒者、売春婦、路上の物乞いの姿でおいでになります。誰からもかまわれない淋しい父親、母親、男の人、女の人の姿でいらっしゃることがあるかも知れません。もしも私達がその人達を見殺しにするなら、手を差し伸べないなら、それはイエスその方を見殺しにしたことになるのです。」


終わりに

 私達の小さな存在を、小さな献身と愛の行為を覚えて下さる神を賛美しましょう。私達の先達に倣って、そのお方を喜ばせ奉る人生を歩みましょう。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2002.4.21



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