礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年5月5日

聖日礼拝説教

「もうひとりの助け主」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書14章16〜26節

中心聖句

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

26節)


はじめに

  あと二週間でペンテコステを迎えます。主が復活後ご自分をあらわしなさったのは40日間で、その最後の顕現はエルサレム郊外のオリブ山においてでした。今年のカレンダーによれば、5月9日になります。その後10日間の祈祷会がエルサレム市内の、多分マルコの家の二階屋で始まり、5月19日のペンテコステに至る訳です。

 おそくその同じ二階屋で、最後の晩餐が行われていたのですが、そこにおける告別説教の大切な要素のひとつが聖霊に関するお約束です。明日に十字架が待っているという緊張した空気の中で説教が進みます。私が去って行くのだ、あなた方は私と言う指導者なしに生きねばならない、という主イエスの言葉は弟子達の心に大きな不安を与えました。その不安を払拭するかのように、主は「もうひとりの助け主」としての、聖霊を紹介しておられます。それが冒頭のヨハネ14章26節です。

 本日はこの言葉の意味を考えてみましょう。 

 


A. パラクレートスという意味

 この「助け主」は文語訳では「慰め主」となっています。どちらが正しいか知るために、もとの意味を考えてみましょう。

1.傍らに立つよう呼ばれた者

 ここで使われている言葉は原語では、パラクレートスで、これはパラ(傍らに)とクレートス(呼ばれた者)との合成語で、傍らに立つように呼ばれた者という意味です。

2. 助言者・慰め手

 傍らに立つとは、元々は弁護士の立場を意味していました。弁護士とは裁判のときに、被告人が言えないような弁護の言葉、例えば確かに罪を犯したが情状酌量の余地があるとか、今は反省し悔い改めているなどと、少しでも刑が軽くなるよう弁護し助ける人のことです。

 後にそれが、一般的な助言者、慰め手を指すようになりました。つまり、いつもそばにあって、困っている時は助け、落ち込んでいる時は慰め、迷っている時は助言を与えるという、そばにいて助ける人一般を含む言葉がパラクレートスです。

 


B.パラクレートスであるキリスト

 イエス様はここで、もう一人の助け主と語っておられます。それはどういうことかというと、イエス様ご自身が助け主であったということです。

1.地上でのパラクレートス

 主イエスはこの世におられる時、弟子達に対して素晴らしいパラクレートスであられました。

 幾つかの事例を考えてみましょう。弟子達がガリラヤ湖を船で横断している時嵐にあいました。殆ど船が沈みかけた時、主は海の上を歩いて彼等に近付きなさいました。弟子たちはおばけではないかと恐れましたが、イエス様は「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:21)と語られ、船に乗り込み、嵐を鎮めなさいました。

 また、癲癇(てんかん)もちの子供をそのお父さんが持て余しておろおろしていた時も、「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。」(マルコ9:19)と嘆きながらも、その子を癒して下さいました。

 そんな力強い先生が目の前から居なくなってしまうということは、弟子たちにとっては小さな子供が親を失う以上の寂しいできごとだったでしょう。だからこそ、主は「私はあなた方を捨てて孤児とはしない」と語られたのです(18節)。文語約聖書では、ここは「・・・みなしごとせず。」となっておりまして、これを区切るところをまちがえて、聖書に「皆、仕事せず」と書いてあるといって仕事を怠けた人がいるという話がありますが(笑)、それを防ぐためでしょうか、新改訳の聖書では「孤児とはしない。」となっています。

  いずれにしましても、弟子たちにとって、力強い助け主であったイエス様がいなくなってしまうことは大きなショックでした。

2.天におけるパラクレートス

 けれどもイエス様は天においても力強い助け主であります。

 第一ヨハネ2:1には、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方(パラクレートス)があります。それは、義なるイエス・キリストです。」とキリストご自身がパラクレートスであられることが記されています。イエス様は十字架で贖いの業を終え、天の父の御元に行かれた後も、神と人との仲介者として、私たちの罪を弁護し、取りなしをなさってくださっているのです。

3.聖霊と共に臨在

 そのお方は、ペンテコステの日に弟子たちにさようならをするのではなくて、その後も聖霊とともに臨在してくださるのです。

 そのことが「もう一人の」という言葉で示されます。ここで使われている「もう一人の」(ロン=another)と言う言葉は、他の「全く別な」(ヘテロン=different)という言葉ではありません。例えば母親が出かけるときに、その代わりに他の人がベビーシッターとして来るというのとは違います。イエスご自身が完全に引退して、全く別な人格を次の指導者にバトンタッチするという意味ではないのです。

 それは実は「キリストご自身と同様なもう一人の」という意味で、イエス様ご自身が戻ってくるということです。それはどういう意味でしょうか。2つの意味が考えられます。

 第一にはこれは復活によってです。これは確かです。十字架の死の三日後、主は甦られて弟子達にご自身を示されました。その意味でイエス様は確かに戻ってこられました。しかし、この意味はそれだけではありません。

 復活の主は、見える形においてはその後の40日間だけ彼等と共におり、そして昇天されました。かれらは又孤児になったのでしょうか。そうではありません。10日後のペンテコステにおいて注がれた聖霊において、キリストの臨在がより深く、より確かに、そして永遠的なものになったのです。イエス様は聖霊と別なお方ではなく、イエス様が聖霊を通していらっしゃるのだということを覚えたいと思います。

 19節にもその事がもう一度強調されています。「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」聖霊を通して主は永遠に生きて、私たちに留まってくださるのです。

 


C.パラクレートスである聖霊

  さて、本題の「助け主としての聖霊」にはいります。

 17節には、「その方は、真理の御霊です。」とあります。キリスト教では神は唯一のお方ですが、唯一であるとともに3つの人格を持っておられます。それは、父としての人格、子キリストとしての人格、聖霊、御霊としての人格の3つです。その3つは別々ではなく一つです。これからイエス様がつかわそうとしているのは、その中の御霊です。そのお方を私たちは見ることはできません。イエス様は2000年前に地上にいらしたときは、目に見え、手で触ることができる人間として来られましたが、御霊はそうではありません。しかし、その故に、イエス様以上に私たちの近くにいなさることができるのです。この聖霊はどのようなお仕事を私たちにして下さるのでしょうか。

1.聖霊の職務

1)贖いの執行者:(第二テサロニケ2:13)

 第一番目は贖いの執行者ということです。つまり、主イエス様が十字架の上で成し遂げた救いを私たちに適用してくださるのです。どのようにしてそれを行って下さるのでしょうか。まず最初に、私たちに心の中の罪を罪として示して下さいます。クリスチャンになって洗礼を受けるときに、私には何も罪はないという人は誰もいないはずです。自分が正しい道からはずれている、親を大事にしていない、友達に嫉妬をした、人のものをとった、などということに良心の呵責を感じて、人は救いを求めるのです。聖霊は私たちにそのための導きをして下さいます。聖霊が来られるとき、私たちに義について、裁きについて教えて下さるのです。そして、聖霊は全ての方にはたらいていらっしゃるのです。ところが、私たちは時にその声を無視してしまいます。罪を示されるとき、聖霊が働いている証拠として、それを無視することなく、耳を傾け、そのお方が導きなさる救い主に導かれたいものです。

 このお方は私たちに罪を示すだけでなく、救いが何であるかも示してくださいます。自分の力で自分を救うことはできません。主イエス様による十字架の贖いにだけ、私たちの救いの根拠があることを、納得させて下さるのが聖霊です。皆さんが今日この礼拝に席を占めていらっしゃること自体が聖霊の導きなのです。そのことを自覚し、感謝したいものです。教会ではイエス様が私たちの罪の身代わりになったという福音が語られています。それを聞いているのは、聖霊の導きなのです。

 そしてその福音が本当なのだと納得させて下さるのも、聖霊の働きなのです。2000年前に十字架にかかった人の話と自分を結びつけて考えるなんてとてもできないと考えておられた人が、それを神の言葉として受けとめるようになったとしたら、その方は聖霊の働きに近づいている証拠です。

 最後に信じるということは、確かに私たちの自発的な決断です。しかし、その信ずる心に導いてくださったのは、聖霊の働きです。牧師の説教が上手だったからではありません。教会に初めて来られた方に感想を聞くと、多くの方は説教がわからなかったと言われます。それを聞くと私は牧師としてがっかりします。しかし、わかるかわからないかは人間の力ではなくて、背後にある聖霊の働きが助けてくださり、私たちを信仰に導いてくださるのです。

2)真理を示す

 もうひとつの働きは、「真理の御霊」(17節)とありますように、真理を明らかにし、弁護し、適用することです。

 26節には、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」と書かれています。つまり、私たちに何が正しくて、何が間違っているかという判断力を与えて下さるのが御霊です。

 その判断の根拠は聖書です。聖書は、神の霊感によって書かれたとありますが、私たちにその言わんとしている本当の意味を教えて下さいと祈って読むとき、本当の意味を教えてくださるのが御霊です。どうか御言葉をあまり神秘的にとらえないようにして下さい。聖書全体が言わんとしていることを、御霊の助けを得ながら、学び、考えるとき、主は私たちを真理へと導いて下さいます。

3)キリストの拡大

 もうひとつは、この聖霊はキリストを崇める方であるということです。皆さんはキリスト教会にいらしています。聖霊教会ではありません。つまり、聖霊はいつでも自分を表に出さずに、キリストを高め、紹介する方として働いて下さるのです。

 26節に、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とありますように、聖霊は私たちにキリストご自身を思い起こさせて下さるのです。

 聖霊は、キリストの存在と、教えと、どんなに素晴らしいお方であるかを私達に理解させ、思い出させて下さいます。聖霊に満たされた人はキリストとその御言葉を意識します。 

2.聖霊の臨在

 このお方が共に、内におられる、と主は約束されます。ここで使われている前置詞は三種類で、それが聖霊のご臨在の態様を顕わします。

1) ともに(メタ)=交わり

 ともに(メタ)=友達としての交わりを意味します。集会が終わって友達と一緒に帰る場面を想像して下さい。きっと何かおしゃべりをしますね。そうすることによって私たちは友達と打ち解けてきます。御霊は私たちとおしゃべりをするお方なのです。

2)「共に」(パラ)は傍らに

  「共に」(パラ)は傍らに、と言う意味で、力強い味方としてともにいて下さるお方です。最初に学びましたように、パラという言葉には、私たちが落ち込んでいるときに慰めて下さり、困っているときに助けて下さるという意味が示されています。そうした窮地において力強い助け主として、このお方を信頼したいと思います。

3)うちに(エン)=内住 

 もうひとつ、うちに(エン)は、内側に住んで下さることしめします。イエス様と弟子達は一緒に暮らしていましたが、肉体を持つイエス様は限られた存在でした。しかし、聖霊は私たちの皆の内側にいて、働きかけて下さるのです。

 これには2つの意味があります。

 ひとつは、私たちが罪を犯すと悲しみなさるということです。パウロは、悪い言葉を口に出して、聖霊を憂いしめてはならないと語っています。私たちは、このお方を悲しませてはなりません。そのためにはもっと敏感になる必要があります。人をののしるような言葉を発したくなることがあるかもしれません。しかし、私たちがこのお方の臨在を意識するときに、強制ではなくて自然に言葉を主の意向に沿ったものに変えられていくのです。

 もうひとつは、私たちがこのお方に頼り、従うということです。


終わりに

 最後に、私たちがなすべきことはなんでしょうか。どうかあまり難しく考えないで下さい。

 私はこのペンテコステの時期にあって、クリスチャン新聞の特集記事に「聖霊のイニシアチブを!」と題して小論を欠かせていただきました。その中で私が書きたかったのは、聖霊は今も昔も自由に力強く働いておられるということです。私たちが頑張って、足りないところを聖霊に補っていただくのではないのです。聖霊はイニシアチブを持って私たちに働いてくださっています。私たちが成すべきことは受身です。このお方を信じ従うということです。もっと消極的な言い方をすれば、このお方を悲しませるようなことをしないということです。単純なことです。このことを私たちがするとき、聖霊は力強く私たちに働いて下さいます。落ち込んでいる方、御霊の励ましを信じましょう。悲しみの中におられる方、「主よ、私を慰めて下さい。」とお祈りしましょう。ことあるごとにこのお方とお話することです。そして大事なことは、このお方を悲しませるような活動、態度から救って下さい、聖霊が自由に働いて下さるようお祈りすることです。

 お祈り致しましょう。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on 2002.5.19



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