礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年7月7日

ルツ記連講(13)

「憩っている信仰」

竿代 照夫 牧師

ルツ記3章6〜18節

中心聖句

3:18  「女子(むすめ)よ、座して待ち、事(こと)の如何(いか)になりゆくかを見よ。」

(文語訳 18節)


はじめに

 前回はルツの命がけの接近に対するボアズの応答を学びました。危険を冒して自分と家族の贖いを懇願したルツに対してボアズは、満願の回答を与えました。ただ、筋を通すということを条件としたことは、この物語に、キリっとした清涼感を与える事も学びました。

 今日は、その結果を聞いた姑のナオミの言葉から、信仰によって安らぐ、という教訓を学びます。


A.ボアズの保証

1.ボアズは贖いの約束をする

11 さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。

12 ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。

13 今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」

14a こうして、彼女は朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった。

 夜中に近付いたルツのリクエストを聞いたボアズは、そのリクエストを聞き、それに誠実に答える約束をします。彼はルツがその足下に留まる事を許しますが、一切手を触れませんでした。彼はこの点について完全な清潔さと謹み深さを示しました。双方が互いに引き合うものを感じていた事は確かと思いますが、その愛は尊敬に基づくものであり、その尊敬の故に、早まった行動が止められたのです。

 世の多くの人々は言います「愛しあっているものが、(肉体的に)一緒になる事はごく自然なことではないか。何が悪いのか。」そして現代のドラマの多くはこの考えを美しいものと描写しています。しかし真の愛というものが互いの益を計り、互いの尊敬に基づくものであるとすれば、早まった行動が相手を傷つけるものでしかないことが分かるはずです。ボアズは少なくともそのような廉潔さを示したものと言えます。

2.約束の手付けを与える

14b 彼は、「打ち場にこの女の来たことが知られてはならない。」と思ったので、

15 「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい。」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った。

 さて朝方になって、ルツが家に帰ろうとするとき、ボアズはルツにお土産を上げます。彼女の上着を拡げさせ、そこに篩われたばかりの大麦を六杯乗せて上げるのです。一杯が一オメルを指しているとすれば、六杯は14リットルを指します。まあ、適当な分量ではなかったでしょうか。

 なんと行き届いた気配りでしょうか。お母さんにも宜しくという意味も籠められていたことでしょう。私はあなたを愛していますよという愛情の告白も入っていたことでしょう。それらにも勝って、これは私はあなたを贖い取って上げましょうと言うリスクを恐れない行動の前触れ、手付けと見ることが正しいのではないでしょうか。


B.ルツの報告

1.ナオミの質問

16a 彼女がしゅうとめのところに行くと、しゅうとめは尋ねた。「娘よ。どうでしたか。」

 落ち穂拾いにルツが初めて行った日にも勝って、この日はナオミは気を揉んで待っていたことでしょう。さて大麦を体一杯に抱えて帰ってきた嫁のルツを見たナオミは、心配が杞憂だったことを直ぐに悟りました。弾んだ心を鎮めながらも彼女は尋ねます、「娘よ。どうでしたか。」と。

2.ルツの物語

16b ルツは、その人が自分にしたことをみな、しゅうとめに告げて、

17 言った。「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。」

 ルツは堰を切ったように昨日の夕方以来の出来事を事細かに説明し始めます。神がどんな不思議な御手をもって一つ一つの出来事を導いて下さったかを噛みしめながら説明します。

 相槌を打ちながらそれを聞いていたナオミの心にも感動が溢れてきたことでしょう。神の恵を分かち合える友や家族がいると言うことはどんなに素晴らしいことでしょう。話したいことが一杯あっても、何だそんなこと、といった態度しか出来ない聞き手ですと、与えられた恵が半分に減ってしまいますね。

 振り返って私達は私達の友に対して良い聞き手でしょうか。人の話を良く聞く、良いタイミングで相槌を打つ、神の恵という角度からコメントをする、といったような聞き方をすると、話す方も恵まれますね。ルツとナオミとの会話を見ていると、そんな励まし合いの人間関係の大切さを教えられます。

 ルツの話は、単なるお話ではなく、大麦六杯という証拠がありましたから、迫力満点の話でした。


C.ナオミの確信と勧告

18 しゅうとめは言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから。」

 私は「女子(むすめ)よ、座して待ち、事(こと)の如何(いか)になりゆくかを見よ」という文語訳が好きです。

 二人の会話はナオミの確信に満ちた言葉で終わっています。ボアズよりも近い親戚がいることは確かですが、それを乗り越えて神の摂理が働き、ボアズがあなたを娶るまで、事の成り行きを見守ってご覧なさい、と言う意味です。

 その為にルツが勧められたのは「待っていなさい。」ということでした。元々の聖書に「待つ」という意味はなく、単に「留まりなさい」と言う言葉(ヤシャブ)が使われています。これは、じっとする、座る、住む、という意味にも使われます。動きをやめてじっとしなさいという意味です。

1.人間的な働きを止める

 待ちなさい、と言う言葉は、第一義的に人間的な動きを止めなさい、という意味です。私達の多くは忙しい症候群に陥っています。何かをしないと落ち着かない、暇であることは罪である、何か動き回れば良い結果が生まれるだろう、犬も歩けば棒に当たる、こんな考えで走り回り、動き回るのです。レジャーに出かけるときでさえも、これを見なければ損だ、誰にお土産を買わなければ、などという強迫観念から、本当にゆっくり出来なくなっている人が多いのではないでしょうか。

 ナオミは言います、「座りなさい、待ちなさい」と。これこそ今日私達が聞かなければならないメッセージのように思います。 イザヤ書 30章にはこうも書かれています。

イザヤ 30:15 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

2.果たすことを果たして休む

 座ると言うことは、不作為を意味しません。ルツは自分の果たすべき事は果たしました。ボアズへの訴え、労働その他人一倍の努力をしました。ですからこそ、今は休んで良いのであります。

 救いについても同じ事が言えます。私達の果たすべき条件である悔い改めと信仰をきちんと果たしたならば、あとは委ねてみ業を待つのです。

 聖化についても同様です。全き献身と完全な信仰をもって主に明け渡しましたならば、感情の変化とか徴を期待しないで、委ねきった信仰に立つべきなのです。信仰に立ったのだからこうあるべきだという律法の行いでそれを完成しようという努力からも解放されなければなりません

 聖めは信仰のみによってもたらされます。その信仰は、人間的な行い、努力を放棄して主に委ねる所から始まります。ヘブル4:10はその消息を物語っています。「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

3.祈りの為に座る

 今不作為という言葉を敢えて使いましたが、それは何もしないことではなく、祈りに身を委ねることを意味します。私達は余りにも忙しすぎて、祈る暇がないほどだとこぼしがちです。でもマルチン・ルターは逆のことを言いました、「私は余りにも多くの仕事を持っているので、より多くの時間を祈りに用いなければならない。」と。

4.信じて憩う

 ナオミが安心していられる根拠は、ボアズの人柄への信頼でした。彼女はこう考えました。あの人は、その約束を果たすまでは落ち着いていられない人である、と。彼女は、ボアズと言う人物の廉直さ、忠実さ、勤勉さについての評判を聞いていました。更にボアズがルツに抱いている愛情、関心を直覚していました。ですから、ボアズはその約束を果たすまでは、落ち着いて居られない人だと思ったのです。

 約束を世間一般は反対です。約束なんか守らなくても平気で居られるばかりか、そのために他の人々が大迷惑を蒙っても、蚊が止まった以上の痛みを感じない人が多いのです。

 私たちがケニアにおります時ですが、ある建築屋さんが我が家のベランダを三週間で修理すると約束しました。ところが三ヶ月たっても未だ終わりません。文句を言いましても、「ノープロブレム」と言うだけです。私達は大変なプロブレムなのですが、彼は全然問題を感じていないのです。ボアズはこういった無責任男ではありません。彼は行動の人です。彼は自分の義務を果たさなければ落ち着いていられない男です。実際に彼は翌日早速行動を開始し、かたをつけました。

 真の贖い主である神はどうでしょうか。ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)と言っています。私達が思い煩いをやめてすべてを主に委ねるとき、主は私達の為に思い煩って下さいます。主を賛美しましょう。


終わりに

1.現実の諸課題に当てはめよう

 私は今までに三,四回会堂問題に直面しました。最初は仙台で、次はナクルの湖畔教会で、エンガシュラでそしてまたこの教会で。その度に色々なネックにぶつかって事が動かなくなりました。その時この聖言で何度励まされ、助けられたことでしょう。神はその度に奇跡的な方法をもって助けて下さいました。

 この私達の問題も決して易しくはありません。同じ神が道を開いて下さるでしょう。主を信じましょう。会堂だけではなく私達は毎日多くの問題課題に取り囲まれています。でも如何に思い煩ったからと言って、何事かが前進するでしょうか。否です。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6,7)を締め括りに読みますので、心に留め、この祈りを捧げて礼拝を閉じましょう。

2.聖化の転機的経験に当てはめよう

 聖めの転機について求めつつ得られないで悩んで居られる兄弟姉妹はおられませんか。この約束を信じましょう。私の恩師である岩城幸策先生はこの場所を聖めに当てはめてこういっておられます。

 「ルツは、今や贖いの業をボアズに任せ、静かに座しているのです。ルツは他に何をなし得たでありましょうか。贖いの働きは、彼女のものではなく、ボアズのすることであったのです。ルツは、ボアズがその事をなし終えるという、彼の約束を待っていました。そこで、それを信じ憩うのです

 主にありて安息せよ、主を信頼せよ。主はそれを成し遂げ給うのです。イエス・キリストの約束は間違いない、と言うことを信じて委ねることが、18節の内容の、私達に教えるところなのです。最後の条件は、信仰です。この信仰を持つことです。・・・

 『したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』(ヘブル7:25)とあるこのお方に、万事を託して依り頼み、静かに待ち望むことです。・・・贖い人に対するこのような信仰を持つことが出来たなら、あとは見ゆるところによらず、約束を信じて、ただ安息して待つ以外ないのです。」

 私の聖化の体験もこの様なものでありました。信じることに徹して憩うた時主は平安を与えて下さいました。主を信じましょう。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2002.7.8



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