礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年8月4日

ルツ記連講(16)

「贖主との合一」

竿代 照夫 牧師

ルツ記4章7〜17節

中心聖句

4:13  こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。

(13節)


はじめに

 昨週は、贖いが実効あるものとして保証された点を学びました。

 今日はその結果として生まれたボアズとルツの結婚についてお話しします。ボアズは贖い主、ルツは贖われる者ですから、贖い主との合一というタイトルを付けました。


A.ボアズとルツの合一(13節)

13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。

1.「不釣り合いな」カップル

 「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」と簡潔に記されていますが、「こうして」の短い言葉の中にどんなに大きな、素晴らしいドラマが秘められていたことでしょうか。人間的に言えば全く不釣り合いのカップルが誕生した訳なのですが、その背後には大きな神の御手が働いていたのです。今までの経過の復習のようですが、以下の四つの不思議を考えます。

1)外国人(特にユダヤ人から嫌われていたモアブ人)

 ベツレヘムには多くの花嫁候補がいたでしょうに、わざわざ外国人の、しかも律法に依れば礼拝の民から除かれるべきモアブ人がルツの花嫁に選ばれたのです。それは偶然におきた事ではなく、ルツが自分の故郷を捨て、自分の拝んでいた偶像を離れ、活ける真の神に自分の一生を擲って帰依したらに外なりません。

2)貧乏人

 ボアズの農場は収穫の季節中落ち穂拾いをして回っても回りきれないくらいの広大なものでした。片やルツは、その日その日の暮らしにも困るような貧窮この上もない貧乏人でした。いわゆる玉の輿です。

 世の中の玉の輿では、特に娘が美貌であったとか、積極的に売り込んだとかいうストーリーが付き物ですが、この場合はそんな要素は殆どありません。あったとすれば、ルツが黙々と自分の仕事をこなしている真実さ、真面目さ、姑に仕える優しさがボアズの心にアッピールしたことがその要素なのでしょう。それにしてもこれはシンデレラ以上のストーリーです。

3)低い身分

 ルツの場合、自分自身が未亡人であり、自分の家族は未亡人である姑ただ一人、勿論その姑には親戚がおりましたが、こんな落ちぶれた家族なんかわしは知らん、と言えば言えたような、いわば身よりの無い状況だったのです。

4)大きな年齢差

 年齢の差を考えてもこの結婚は奇跡です。ボアズは若く見ても50代、ルツは30代位ではなかったかと思われます。もっと違っていたかも知れません。昔も今も通常こんな結婚はあまり歓迎されないのです。

 このように、どこから見てもありそうもない結婚が成立した、これは摂理の糸がその様に導いたとしか考えられない奇跡です。神の確かな御手が二人を合わせなさったとしか考えられない結婚です。

 でも、良く考えてみると、主にあって結婚に導かれた兄弟姉妹はみな等しくこの様な感想を持つのではないでしょうか。箴言に「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。」(18:22)とあり、また、「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。」(19:14)とあります。主の摂理の御手を認め、感謝しましょう。

 若い方々は「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)という聖言を憶えましょう。自分であれがよいかこれが良いかを探すのも悪くはないでしょう。でも最終的には、相応しい伴侶者は主によって与えられるものです。

 ルツは、この結婚が成立したときに、一体こんな事が合って良いのだろうか、これは現実なのだろうか、と感謝と感激とに浸った事でしょう。それは私達罪の中を歩んでいたものがキリストに贖われ、神の子とされ、あまつさえ、その花嫁として迎えられるという奇跡と相通じるものがありますが、これは後半に述べることと致します。

2.祝福された合一

 結婚の手続きが終わり、結婚式も慣習に則って華やかに行われた事でしょうが、ルツ記はこの詳細は述べていません。単純に、「彼が彼女のところにはいったとき」と夫婦の結合を、しかも婉曲表現で述べているだけです。ですから私達もここで想像を巡らすことはしないで、ただ、大切な点を幾つか申し上げて、次へ進みます。

 それは聖書の教えである「二人は一体となる」という思想です。ボアズとルツの場合、それは、

1)背景の違いを越えて

 二人の背景の違いを乗り越えた合一でありました。先ほども申し上げましたように、どの点から見ても違いばかりが目立つようなカップルでしたが、そんな違いを全く感じさせない夫婦となりました。強いて言えば、二人がその違いを合わせようと努力したからではなく、二人が同じ方向、つまり、主を恐れるという共通項で一致していたから可能となった合一なのです。

2)慰めに満ちた合一

 慰めに満ちた合一でありました。夫婦の和合は、当然の事ながら肉体の結合という要素が大きく占めるものではありますが、それが最大の要素ではありません。互いに尊敬し、互いを顧み、互いを助けるというキリスト的な愛によってのみ生まれるものです。

3)1番近い人間関係

 最高・最近の人間関係。私達の人間関係で親子、兄弟、友人、等々色々な人間関係が存在するのですが、その中でも最も近い、最も親密な関係が夫婦です。神の合わせなさったものを人は離してはならない、とも記されています。第三者もそこに入り込んではならない、自分達自身もそこを壊してはいけない、いわば神聖な関係です。

 ボアズとルツの関係はこの様な麗しいものであった事でしょう。

 今日、離婚率が増加し、夫婦がうまく行っている方が珍しいという悲しい状況を見ます。どう言う訳か、今週の林間聖会の分科会で私が「夫婦は神の賜物」というクラスの発題を命じられました。その準備でドレッシャー著「若い夫婦の為の10章」という本を読んでいるのですが、その中にこんな事が書かれていました。「結婚生活の目的は、二人が同じような考え方を持つ事にあるのではなくて、一緒に考える事である。」(p.78)

3.実を結んだ合一

13 主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。

1)主の干渉による懐妊(オベデの誕生)

 良く注意して読んで下さい。ボアズが彼女を身ごもらせたとは書いていません。実際はそうでしょう。けれども、聖書は命の源はあくまでも主ご自身であると主張します。これを見失うところに今日の生命倫理の乱れが結果しています。

 生命とは単なる精子と卵子の結合なのだ、だから人間が進んだ科学技術をもって自由に生命を操作出来るのだという思い上がった思想と行動が現代の特徴です。今日は詳しくは触れませんが、中絶の問題、遺伝子操作の問題にこれから教会として、はっきりとした見解を示す必要があります。その根元は、主が命の元であり給うという主張です。

2)神の嘉納

 この言葉から、ボアズとルツの夫婦生活に神の嘉納があり、祝福が及んだ姿を見ます。この物語の後で起きるサムエルの母ハンナとその夫であるエルカナについて、第一サムエルは、大変美しい表現をしています、「エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。」(1:19)と記しています。幸いなことですね。

3)オベデ = 僕

 その結果生まれた男の子にはオベデという名が付けられました。オベデは僕という意味です。17節を見ると「近所の女達が付けた」と記されています。文字通り彼らが命名したのでしょうか。ある注解書には、女達が推薦し、両親と祖母が賛成したと記されています。詳しい事は良く分かりません。ただ、ボアズが積極的か消極的かは分かりませんが、賛成したことは確かです。

 金持ちの息子に相応しい尊大な名前ではなく、僕と付けたところが意味深長な気がします。オベデは数々の苦労を重ねて来たおばあさんの世話をする(「あなたの老後をみとる」)ことが期待されていたのでしょう。

 14〜17節は、オベデのお祖母さんであるナオミへの祝福、ナオミの幸いな老後が述べられていますが、これは次回に譲ります。


B.贖い主キリストと教会の合一

 今日のポイントは、私達を贖って下さる贖い主キリストが私達の花婿でもある、という新約の恵です。同じ事ですが、「教会が花嫁である」のです。これは何と楽しい、素晴らしい発想ではないでしょうか。

1.「相応しくない」花嫁

 この関係のスタートは、遠く離れている私達罪人の姿です。エペソ2:1〜3には、

エペソ2:1〜3 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 と私達が神から離れ、罪の中を歩み、滅びに向かう者でしかなかった過去の姿が描かれています。さらに、2:11、12には、

エペソ2:11〜12 思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

 と無いない尽くしの存在であった事が記されています。これはキリストに出会う前の全ての人間のプロフィールではないでしょうか。

2.贖いの恵み

 しかし、神の一方的な愛と憐れみがキリストの十字架において示されました。エペソ2:4〜8迄を読みます。

エペソ2:4〜6 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、--あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。--キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

エペソ2:7〜8 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 さらに2:13には、

エペソ2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

 ともっと具体的に、それがキリストの貴い血潮の贖いによると示されています。

3.きよい花嫁

 同じエペソ5:25〜27には、夫が妻を愛するようにとの勧めがなされていますが、その根拠が、キリストの教会との親密な関係です。その角度から読んでみましょう。

エペソ5:25-27 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

 ここにはキリストは犠牲的な愛をもって教会を購われたこと、その目的は教会を染みの無い花嫁として完成する事と記されています。30-32節にはもっとはっきりキリストと教会の関係が謳われています。

エペソ5:30-32 私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

 私達がキリストの花嫁である、これは私達の前身を考える時、ルツがボアズの花嫁となったとは比べ物にならない光栄であり、破格の恵みであり、奇跡ですらあります。私達が清くなければならない、という思想はこの愛の関係を抜きに考えるとプレッシャーになりえます。しかし、キリストが愛して下さる、そのリクワイアメントがきよきであると考えると、ストンと納得させられます。

 昔、イギリスの王妃がある宴会でオールドファッションの帽子をかぶって臨席しようとしました。お付きの人が「王妃様、それはちょっと古臭いのではないですか。」と遠慮がちに進言しました。でも王妃は「いいのです。これが王様のお好みなのですから。」と答えたと言われます。私達の夫であるキリストのお好みはクリスチャンの清さなのです。

4.婚約から結婚へ

 キリストの花嫁となる修行の到達点は主の再臨、つまり「小羊の婚姻の時」(黙示録19:7)です。その時「光り輝く、きよい麻布の衣」の花嫁仕度が完成し、夫なるキリストとの完全な結合を経験します。私達は今、多くの艱難を経験していますが、この素晴らしい結婚を待ち望むことによって、それを乗り切ることが出来ます。

 千代崎秀雄師が「現代の宣教」第10号の中で「再臨の主は花婿なる教会と愛の結合・合体を遂げなさる。再臨待望は、このような愛の主への待望として、その生命力を発揮する。それは、結婚を間近に控えた若い男女の、待望・渇望として実感できよう。」と述べておられる通りです。


終わりに

 私達はその日を待ち焦がれつつ、今は楽しい婚約期間を過ごしているのです。早く結婚式が訪れるように、アーメン、主イエスよ、来り給えと祈ろうではありませんか。それと共に、今の婚約期間でも霊的な意味でキリストと合一する、という恵の関係を日々のデボーションで感謝をもって確認しながら進もうではありませんか。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2002.8.8



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