礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年9月15日

「人生は不公平か?」

井川 正一郎 牧師

ヨブ記42章10〜17節

中心聖句

42:5  私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。

42:6  それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

(5-6節)


導入

 ヨブ記42章5節と6節を読みます。

5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。

6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

 今日はこのヨブ記から、神様のメッセージを伺い、私たちの生活にあてはめていきたいと思います。

 人生において何故試練があるのか。何故悩み、苦しみ、嘆きがあるのか。何故私の身にこのようなことが起こるのか。何故愛する家族に悲劇が起こるのか。何故年の若い息子が、娘が先に死んで行くのか。何故私や家族にだけ、こんな悲劇が襲ってくるのか。

 神様はほんとうに愛なるお方なのか。何故、何故、……と、疑問が湧いてきます。

 そしてそれは、神様を信じてイエス・キリストを心から信じている者に対してでも例外ではありません。信じているにもかかわらず、悩みは尽きず、悩みは多いのです。

 聖書の詩篇の中にも「正しい者の悩みは多い」と書かれています。返って信仰を持っていない者たちの方が栄えているように思えてならない。不正直に生き、ずるがしこく立ち回っている者の方がそんなに苦しみがないように思えてくる。

 信仰を持っている者が信仰を持っているが故に逆に損をしたり、悩み苦しんだりしている場合が多いのではないか。何故神様は黙っておられるのか。

 この疑問・問題は過去から現在、また将来にまで続く永遠のテーマ、あるいは謎となっています。

 この疑問・問題をテーマとする最大の書物は申すまでもなくヨブ記です。「人生は不公平か?」。今日はこのテーマを扱います

 しかし、礼拝という限られた時間の中でこのテーマを扱うには重たすぎます。そのため、彼は結局、試練を通して、何を悟ったのか。何を悔改め、神の何を知ったのか。これを考えていく。その中から「人生は不公平か?」というテーマの一部分でも光りを頂戴出来れば、と思っています。


ヨブ記のあらすじ

(1)ヨブ記=字宙大の舞台での演劇(?)

 ヨブ記は42章ございます。ヨブ記は大きな舞台で演劇がなされているような光景です。ここにあらすじを書きました。

 1)ヨブの正しさに対して、神とサタンとのやりとり

 2)ヨブの持ち物、体を打つ

 3)妻のことばに、なお神への信頼を失わなかった

 4)しかし、ついに、神に訴えはじめる

 5)三人の友の登場。エリファズ、ビルダデ、ツォファル(ゾパル)

   3回、3回、2回と順番に操り返される。

 6)青年エリフの登場

 7)最後の最後に、神御自身の登場

 8)それにより、ヨブがちり灰の中に悔改める

(2)3人の友の主張の特徴

 3人の友の主張をまとめると次のとおりです。

 1)エリファズ=慰める者というより教師

  正しい者が滅ぼされることはない。滅びるのは悪い者だけ。

 2)ビルダデ=古い伝統を堅く保つ、公式的人物

  過去においての経験上、結局は罪ある者が時の間に滅んで行く。

  神は正しい者は捨て去らないことを数学の方程式・公式のように述べる。

 3)ツォファル=自分の確信に自信を持つ

  偽善であるヨブよ、罪があるヨブよ。

  ヨブの刑罰はその頑固に主張する自己義認の罪より、よほど軽い。

 ★エリフ=苦情を訴えるヨブを攻撃、苦難の教育的価値を述べる

 そのやりおりを見ていてじっとしていられない人物が口を開きます。若いエリフです。年上のヨブに向かって、ヨブを攻撃し、苦難の教育的価値を述べます。

 こうして、ヨブに対する3人の友、エリフのカウンセリングは失敗に終わりました。最後の最後に神様ご自身の登場となります。それによってヨブは深く悟っていく。これが42章であります。


 彼は結局、何を悟ったのでしょうか。何を悔改め、神の何を知ったのでしょうか。

 このことについて、ヨブの物語を通して今日短く3つのことをお話します。そしてその中から「人生は不公平か?」のテーマの一部分でも光を頂戴出来ればと願っております。


1.神の扱い=一人一人違う=一人一人にとって特別扱い

 まず第一は、神の扱いは一人一人違うということです。

 ヨブの試練は彼自身の必要のためでした。友人には無かったのです。友人には別の形での試練なのです。ある意味で公平であり、不公平なのです。

 ヨブにとって、自分は何も間違ったことはやっていない、正しい者であると確信しています。罪のない者であると。

 しかし、神の扱いは違ったのです。正しい者にも、それ相当の試練があるのです。ヨブにはヨブに必要な、この人に必要な、あの人に必要な、程度内容夫々違うのです。公平といえば公平、しかし不公平といえば不公平…。

 ある人ははっきりいった方がいいと言います。「人生は不公平」。公平だなんて考えるからおかしくなるのです。人生は不公平なんだ…。すっきりとします。

 人生は公平か、不公平か。ことばを変えれば「神は公平か、不公平か?」。

 ヨブの試練・苦しみ・悩み。ヨブだけになされたものなのです。ヨブの友人には襲ってこないのです。なぜか。不公平ではないか。

 かえって友人たちは、その試練・苦難について、ヨブそのものの罪にあるのではないかと攻め立てます。あるいは試練とはこういう教育的意味があると諭そうとします。

 試練の意味・価植について次のようなことばを耳にすることがあります。

 「神はあなたに何かを教えようとしておられのです。信仰をもって神によりかかる機会が与えられているのです。辛いと思わず、特権と思いなさい。」

 「今も受けている祝福・幸いを覚えなさい。少なくともあなたは生きている。都合のよい時だけでなく、そうでない時も信仰者であり続けなさい。」

 「あなたの厳しい訓練は信仰を鍛えるチャンスです。心配するな。神は耐えることのできない試練は与えられないのです。」

 「そんなに文句を言うな。未信仰者にあなたの信仰の深さを見せるチャンスです。」

 「いつでも、あなたよりもっとひどい状態の人がいます。今の状況も確かにひどいが誰でも大なり小なり苦労はあります。もっと悲惨な状態の他の人のことも考えなさい。返って神に感謝する機会ではないでしょうか。」

 私もこのようなことばをもって慰めようとしたことがあります。果たして届いたでしょうか。

 「なぜ私が」「私が何をしたというのですか」。

 人生は不公平だと結論づける人も出てきます。さあどうなのでしょうか。

 結論的にいえば、「人生は一人一人にとって特別扱い」なのです。ある場合からいえば公平、ある場合からいえば、全く不公平。

 で、そもそも公平・不公平というのは、人間が他人を見るからなのです。横との比較をするから公平・不公平ということがでてくるのです。私と神との世界に限れば、公平も不公平もないのです。

 いわゆる人も羨むほどの富が与えられているとのケースもあり得ます。家族にも恵まれ、物にも恵まれる。ヨブの最初の姿のように。

 ある人はこれをみて、私のところには一文も金がない、どうして、こんなに貧しいのか。能力を比べる時もそうです。どうして私は頭が悪いのか、どうしてもっど成績があがらないのか。

 それは人と比べるからです。学校の成積、仕事の業績。信仰を持っている者でも必ずといってよいほど、出てくることばがあります。人並みでいいから…。公平でなくともよい、不公平があってもよい。でも、人並み程度で押さえてほしい。そう願いたい、神様。

 でも、神のお扱いは一人一人違う。大いなる祝福というべき、特権的状態のときもあります。またあるときは全く一変し、避けたいと思う悲滲な状況に陥ることもあります。人並みのときもあります。それが神の扱いなのです。こちらがどうのこうの言うべきものでないのです。


2.神に対する信仰、信仰とは何かを悟った

 ヨブの試練は、ヨブに信仰とは何かを改めて考える機会がもたらさせました。

a)そもそもすばらしいことの一つはヨブが神を否定していないという事実

 ヨブは神の存在を当然のように信じ、その神に訴えています。まさに多くの人のように神を全く否定し、あるいは疑い、ついには呪うようになるというケースでなかったのです。

 そしてヨブは神に訴えることにより、信仰の何かを改めて考えさせられていったのです。

b)信仰とは、信仰を働かすには全く不可能と思われる状況になったとき、働かせることができるかが本当の信仰の問題

 湖の上を歩いたペテロが風をみて怖くなって、主よ助けてくださいと叫んだ記事を思い出します。主は仰せ給う。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」―持っている信仰を働かせてごらんなさい。

 信仰は持つだけのものではありません。働かせるものなのです。信じているのなら、その通りに身をあてはめ、ことば態度生活、姿勢に表してごらんなさい。そうおっしやっているかのようです。信仰を働かすとは、信じていることをその通りに実際に身をあてはめることなのです。


3.地上での意味と、人に対する神の期待を悟った

a)まず何よりも地上での人間の存在と役割を悟った

 ヨブは地上で富と栄えを持っていました。それによって地上で役割を担ったのです。

 しかし、その家族あるいは持ち物が全部失われ、体も打たれた。それにより、改めてヨブ自身の存在意味、役割を考えさせられました。神は何故ヨブに試練を与えられたかの理由の答えは示されませんでした。神はわたしは誰であるか、これを造ったものが誰か、他にもいないであろうとヨブに迫ったのです。神は何故の質問に、わたしは誰だか分かるかと迫ったのです。

 人間の小ささと神の大きさが比較されます。あまりに小さく、何も知っていない人間。その人間が深い計画をもって最善に一人の人のために特別扱いをされる神に何で、何でと迫る自体愚かなのです。

b)地上の苦労の意味

 地上の苦労の意味は

 ア)人問の原罪の影響

 イ)地上での苦労により、それを通して神の御国の建設の役割を担う

 ウ)現在の苦労は報いられる時がある、将来への希望

 工)神のあわれみを覚えることと、悔改めの機会(地上の営みは、神のあわれみによって支えられ、生かされている)

 人生は不公平か?。ヨブにとって、それは不公平ではなかったのです。特権的恵みなのです。

 実は私たち、その特権的恵みにあずかっているのです。それは今は気付かないかも知れません。しかし、近い将来必ず悟り得るものなのです。神のご計画の全体、全貌が見えてくる日は近いのです。


しめくくり

 しめくくります。2つのことだけ申し上げて終わります。

(1)私に対する「神の特別扱い」を覚えよう

 試練も特別扱い、今恵みの中で試練・思い煩いが一切ない、これも特別扱い、どんな時も特別扱い。

(2)私に対する「神の役割・期待」を弁えよう

 私に対する今のこの人生の一歩一歩が、実は神様の輝きをあらわす一歩一歩であり、御国の建設のために、私たちが気がつくか気がつかないかわかりませんでしょうけれども、私たちはその役割を今果たしているのであります。

 今日の礼拝が終わって、またあした、あさってと、主許し給うならば、そのような一歩一歩を歩み続けたいと思います。

5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。

6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2002.9.17



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