礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年9月29日

マルコの福音書連講(2)「福音が始まる」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書 1章1節−8節

中心聖句

1:1  神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

(マルコの福音書 1章1節)


はじめに

新しい会堂を建てる際に大事なのは基礎であります。しっかりしていないと倒れてしまいます。 信仰においても基礎が大事ではないでしょうか。

私達の信仰の基礎は主イエスの事実とその教えにある訳で、今回はマルコの福音書をじっくりと学ばせて頂きたいと願っています。

昨週は、著者マルコについて、特に性格的なひ弱さを持っていた人物に も主が豊かな顧みを注いで「役に立つ」器に変えなさった恵みの物語を、使徒の働きなどから学びまし た。 

今日はマルコの福音書の概要を学び、その後で1章1節のみことばに心を向けます。 

A.マルコの福音書概要

1.著者 ヨハネ・マルコであります。

2.対象は世界の支配者であるローマ人であります。

マルコは、パウロの弟子であったペテロの弟子であり、通訳でもありました。ペテロがローマで活躍していた頃 主の物語を伝えていたのであります。

3.特色

ローマ人は実際的な能力に優れており、橋や水道、道路、行政組織や軍隊組織を作っていました。 そのようなローマ人に対して説得力を持つために、

簡潔さ、力や奇跡を含む行動に焦点を置いていました。 教えよりも行動記録が多く、

「すぐに」という言葉が繰り替えされており、忙しく奉仕の生涯を駆け抜けなさった主の姿 が強調されていました。

4.目的

目的ですが、

力ある神の子キリスト、罪と死を征服 された勝利者キリストの強調とであります。

鍵となるみことばは10章45節であります。

マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、 自分のいのちを与えるためなのです。」

マタイ、マルコ、ルカを共観福音書といいますが、詳しく読むと違いがわかります。違いがあると、キリストの 実像がわかってまいります。

5.資料

資料は、ペテロの説教によるのであります。

6.内容の区分

内容の区分につきましては、皆様のお手元にあるしおりをご覧いただきたいと思います(注参照)。

B.福音が始まる

1.急いでいるマルコ

1章1節はスピリットが如実に顕れているものです。

福音の始めという言葉は、この福音書を書くに至った次第と いう意味もありますが、直接的には、福音そのものがどう始まったかを書くとい うマルコ流の序文、あるいは見出しと考えられます。この中に、マルコが捉えた福 音、それを書くに至った心情が如実に現れています。

他の福音書との比較で考えますと、まず、マタイの福音書は

系図で始まります。

読者の対象は

ユダヤ人でした。

ダビデの子孫であり、旧約聖書が預言しているメシアであるキリストを記しています。

ルカの福音書は、

ギリシャ人以外の人々を対象にしていました。キリストの存在が

歴史的に根拠あることを記したものであり、

人間としての生いたちや育ちなどを記したものであります。

ヨハネの福音書は

哲学的なもので、読者の対象は

ロゴスを重んじたギリシャ人でした。

これらに対して、マルコの福音書は

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」という書き出しから主イエス の奉仕にいきなり焦点を当てて、イエスのメシア性をくっきりと浮かび上がらせます。

2)更にこの唐突とも思える出だしは福音に対するマルコの興奮に満ちた新鮮な思い を伝えているのではないでしょうか。生活を変えるような福音ではないでしょうか。

当時はローマ帝国の隅々だけでなくインドの一部まで福音が広まっていました。当時のローマの皇帝はネロでした が、ローマの都市計画を進めるために、ローマを破壊しようとしました。やがて、ローマの大火があったときに、反社会的だとしてその罪を クリスチャンに追わせるほど迫害がひどくなっていました。

マルコは、

このような迫害を受けてい るローマのクリスチャンを励ますこと、その周りにいるノンクリスチャンのローマ人に イエスの福音を提示して一刻も早く信じてほしいことでした。ですからいわば序論的な 叙述を一切省略して本題に入ったと言うべきなのです。

3)「すぐ」と言う表現:先ほども申し上げましたが、マルコは活動的で急いでいる主イエスを描いています。1章だけでも「すぐ」という言葉が何度も出てきます。

マルコ1:10 水の中から上がられると、すぐそのとき・・・

マルコ1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

マルコ1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

マルコ1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

マルコ1:21 すぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。

マルコ1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、

マルコ1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

マルコ1:29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて・・・

マルコ1:42 すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。

マルコ1:43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。

いくつありましたか? 1章の中に10回出てきました。

マルコはせっかちだったのではないでしょうか。繰り返しますが、マルコは時代的な危機に直面 していました。のんびりしている暇はなかったのです。この迫害のただ中にあるクリスチャンを励まし、ノンクリスチャンを救いに導く必要をひしひしと感じていたので す。

そういった切迫感をこのマルコ伝から感じ取っていただきたいのです。そ れは取りも直さず、私達にとっても、福音は切迫感をもって受け入れるべきとのメッ セージに繋がります。

2.福音とは何か

1)ギリシャ語でユーアンゲリオン=文字通り、

よいおとずれ、喜ばしいニュースであるということです。人間の業は福音 ではありませんが、神の業は、いつまでも変わることのない福音です。

2)また、キリストが主題であり焦点となっている福音、キリストが述べ伝えられた福音、この両面が含まれていると考えられます。

マルコ伝 の中で十字架の週の出来事は実に6章分を占めています。そしてその叙述は他の福音 書に比べて詳細で活き活きとしています。人の伝記で、死の前後の記述が8分の3を 占め帝ます。伝記という角度から見ると異常な本です。そ れ程キリストの死と復活が大きな意味を持っていました

ですが、いわば福音を缶詰にしたもので、キリストの福音が現実の社会の中で生きるのです。

3)さらに、イエスの神的起源を示します。キリストが父なる神と同等、同じ性質、 同じ栄光を持ち給うお方である事を示します。処女懐胎は具体的に記されてはいない が示唆されています。マタイの福音書が「ダビデの子」としてのキリストを紹介しているのとは対照的です。

3.福音の起源

1)福音がキリストの時代にゼロから始まったというのではありません。

というのは イザヤの時代にも、もっと遡ればアブラハムの時代、アダムの時代から福音は伝えら れていたのです。一般的な意味ではなく、「キリストによって述べ伝えられ、キリス トによって成就した福音」が始まったという意味では、キリストの活動は「福音の第 一章」であり、新しい時代の始まりなのです。

2)1章2節と3節をみてみますと、

マルコ1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わ し、あなたの道を整えさせよう。

マルコ1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、 主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに

とあります。2節ですが、実はイザヤ書ではないのです。マラキ書の引用なのです。

マラキ3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。

問題は、マラキも含んでいるがイザヤという有名な預言者に纏めてしまって いるという点です。先程申し上げましたように、マルコの著作の意図は、多くの人が 読み、信じて欲しい事ですから、小さな違いにこだわってはいません。

これはマタイの11章でも、キリストの道を備える神の使者としてのヨハネ に当てはめて引用されています。これは、バプテスマのヨハネによって成就されたものです。

では、1章3節ですが、これはイザヤ書からの引用です。福音的内容である40章から66章の最初、40章からです。

突然ではなく、周到な準備のもとに現われたのであります。

2)その意味での福音が始まるのは、キリストの誕生ではなく、先駆者ヨハネの活動からです。1章4節を ごいっしょにお読みしましょう。

マルコ1:4 バプテスマのヨハネが荒 野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

ヨハネの生活ぶり、活動、メッセージが福音の始まりで した。ヨハネは罪の赦しを伝えました。彼は人々にその必要を示し、それが獲得可能 であると説教しました。ヨハネは、その罪の赦しを得る為に悔い改めを説きました。

悔い改めとは、メタノイア−心の向きを変える事です。

自分を中心 に生きていた人生を、神を中心に、神に喜ばれることを第一にする人生に向きを変え ること−心の向きを180度変えることです。

一日の生活の中で、いかに自分を中心にして回っていることでしょうか。クリスチャンになっても自分を中心にしているという"クセ"が抜けていないでしょうか。

みことばを読んでいるとき、教会の奉仕においても、仕事においても、自分中心でいると焦点がぼけてしまいます。

失望したとき、仕事で挫折したとき、教会の奉仕の中でも、自分が認められたいという気持ちになっていないでしょうか。

自分でなく、神が中心である、いわゆるコペルニクス的転換が必要である、とヨハネは説いたのであります。 地球でなく太陽が中心になって回っていることを発見したのがコペルニクスですが、

心のありかた、仕事などでもコペルニクス的転換が必要であることを説いているのであります。

終わりに

きょうのメッセージは、

悔い改め−心を一心に主に向ける、その中に生きつづけるということを私たちのものとさせて頂きましょう。お祈りいたします。


Message by Rev.Teruo Saoshiro,senior pastor of IGM Central Tokyo Church  

Compiled by K.Otsuka on Sep.30,,2002

Since 2002.10.02