礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年10月20日

マルコの福音書連講(5)

「荒野での試練」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書1章9〜15節

中心聖句

1:12  そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

1:13  イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

(12-13節)


はじめに

 先週は「公生涯への就任式」という角度から主イエスのバプテスマを考えました。

 今日は荒野での試練を学びます。


A.荒野での試練(12、13節)

12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

1.荒野に追いやられる

1)バプテスマの「すぐ」後で(雲の高みから谷底へ)

 12節での鍵となる句は「すぐ」という言葉と、「追いやる」という言葉です。バプテスマを受けた後、天が裂けたかとも思われる光がさし、聖霊が鳩の形をなして彼に宿り、天からの声で、イエスの神の子である事を証しされた、いわば晴れがましい就任式の直後、つまり、その就任式の恵みの余韻に浸っている間もなく、御霊はイエスを荒野に追いやられました

 ここに大きな人生の教訓があるように思います。素晴らしい霊的経験の高みから、厳しい試練の谷間に突き落とされたのです。私たちの人生でもこのような出来事がしばしば生じます。素晴らしい恵みの高嶺から、厳しい試練の谷間に落とされる事は珍しい事ではありません。

 繁栄の絶頂にいたヨブは、ある日突然子供を失い、全財産を失うという悲劇のどん底に陥りました。これは決して例外的な事ではなく、形こそ異なりますが私たちの日常生活に起きている出来事です。

2)御霊が追いやった(避けがたい試練)

 「御霊が追いやった」との表現の中に、聖霊の主体性、しかもこのコースに導く強制的とも思われる程の強さを感じないでしょうか。マタイ、ルカはおとなしく「導いた」と記していますが、マルコは強制力をもって逐い出すとの意味で、主がサタンを逐い出された時に使われた言葉と同じ語源の言葉をここに使っています(1:34)。

 神は或るご目的を持って、それ以外の方法はない程の強さをもって、ちょうど羊飼いが羊達を檻の中に追い込むように、私たちを追い込みなさるのです。神のご計画の全体像は私たち人間には当然分かりませんから、近視眼的に見れば、なぜ私の人生にこんな事が起きるのだろうか、と悩み、首をかしげざるを得ません。そうした現実にぶつかる時は、無理に理由や目的を尋ねようと努力しないで、神は最善を成していて下さるという確信だけはしっかりと持ちたいと思います。

2.荒野での40日

 荒野とはどの辺を指すのでしょうか。ファイファーの聖書地理によりますと、これはヨルダン川西岸のユダの荒野だそうです。ユダの山地からヨルダンの渓谷に下るごつごつした山峡と半砂漠地帯で成り立っており、草木もまばらな人里離れた場所でした。昔は野獣も住んでいたと言われています。

 イエスはそこで40日間、飲まず食わずの祈りの時を過ごされました。この長さはモーセの時もしかり、エリヤの時もしかりで、非常に長い纏まった時を示します。サタンの戦いの激しさ、しつこさを物語ります。

3.荒野に存在したもの

1)サタン

 荒野に追いやったのは聖霊ですが、試練の主体はサタンでした。サタン(文字通りには敵と言う意味)は、神に忠実な僕達の働きと魂と計画を損なう事をもって使命としている厄介な存在です。マタイ、ルカは試練の内容が三つであった事を記録していますが、マルコはその内容について述べていません。具体的に書かれていないところから逆に、この試練が非常にしつこく包括的であったとの印象を受けます。

 マタイによればその試練は

 ◇石をパンに変えよ:人々のニードを優先する宣教を、

 ◇神殿から飛び下りよ:人々の人気を獲得する派手なパーフォーマンスを、

 ◇私を拝め:この世の実権を握っているサタンと結託せよ、

というものです。

 共通点は、地味な、また厳しい十字架の道を避け、安易で楽しく効果的に見える方法を取れという誘惑でした。

 もう一つは、バプテスマの時に「私の愛する子」と宣言された神の言葉を疑わせ、「もし神の子ならば・・・」と疑問の余地を入れさせた点にあります。マタイの記録は、この誘惑が40日断食した後で訪れたような書き方をしていますが、ルカは「四十日間、悪魔の試みに会われた。」(4:2)とこの誘惑が継続的であった事を示唆しています。マルコの記述もこれに符合します。

 つまり、40日間は平穏な思い巡らしが続き、その後バトルがあったと言うのではなく、内面的にはバトルは40日間続き、その最終的なバトルが三回のやり取りであったと見られます。

 さて、この誘惑に対抗してイエスはどう答えなさったでしょうか。彼は自分は神の子である事を疑わないという立場を貫かれました。

 ある解説者の言葉によれば「イエスは神のと心の愛のちぎりを信じて、この試みに打ち勝たれたのであります。・・・彼が神の子たることの証拠は神と霊に於いて一つであり、神との霊の交わりが本当に深いということ、霊に於いて神と愛を契ったと言うこと、これがその証拠であり、これだけで充分です。それ以上は一切不要です。」と言って奇跡的行為にその証拠を求めたがる人間の傾向を戒めています。

 更にイエスは、十字架の道は既定の方針であり、自分はそれを変える積りもないし、その必要もないと確信された、(人間的な言い方をすれば)その方向で腹が据わったのが荒野の試練の収穫であったと言えます。

2)野獣

 パレスチナはアフリカ大陸の続きですから、多くの野生動物が生息していました。鹿の類いは勿論、イボイノシシ、ジャッカル、狼、狐、ライオン、豹、ハイエナ等が多くいたと思われます。野獣の存在を態々記録したのは、それ程人里離れた淋しい環境、恐怖が周りを覆っていた環境であったと強調する為であったでしょう。

 ある人は、イザヤが終末の預言として、野獣が平和に暮らす様を描いており、その終末の平和のミニエーチャーが主イエスの荒野生活であったと考えます。解釈はどちらでも良いでしょうし、その両方とも当たっているかも知れません。

3)御使い達:肉体的、精神的、霊的な支え

 複数である事に注目しましょう。多くの御使いに見られ、囲まれ、守られていた主の姿を見ます。神は試みられるものを決して孤独に放り出してしまう方ではありません。これについてもマタイは「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」(3:11)

 それまで御使い達はイエスと共にいなかったような書き方をしていますが、マルコの記述の方がより包括的でしょう。つまり、サタンの厳しい試練の最中でも、御使いはイエスを支えておりました。

 どんな風に?多分彼の肉体が衰弱の故に破壊されることがないように、肉体の衰えの故に精神的にもその判断が狂ってしまうことのないように、霊的にも神との近しい関係を思い出させるように保ち続けたのでしょう。第一テモテ3:16はこう記しています「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」と。

 その同じ御使いが私達の試練、危険、戦いの時にも助けて下さると言うことは何と力強いことでしょう。ヘブル1:14には「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」と約束されています。


終わりに

1.私達にも荒野がある

 私達の人生にも色々な荒野があり得ます。自分の病気または家族の病気という荒野があるかもしれない、倒産という荒野があるかも知れない、人々の無理解、反対、迫害という荒野があるかも知れない。

 そうした荒野の共通点は、私達の神の子としての立場、特権を揺さぶるものであるという点です。ヨブはその試練の中で、神の愛と正義とに対する確信を揺さぶられました。

2.荒野から誕生したインマヌエル

 私達の群の創設者である蔦田二雄先生も東条内閣によるホーリネス派牧師の一斉検挙という形で揺さぶられました。彼はこの時の経験を「家庭の一切から、交友の全てから、教務、伝道、教会からまったく遮断されて、この日から動物のように、一坪半ばかりの独房に獄中生活が始まった。警察に1カ年、高地著に1カ年、昭和19年5月下旬、保釈となって一応家庭に戻るまで、感慨多き生涯の一節であった。」と記しています。

 同時に「この2年間は私にとってまた得難い勉強の時であり、黙想のときでありました。霊的準備の時でもありました。」とその恵を語っています。この祈りと黙想の結晶が「主共にいます」(インマヌエル)の事実であり、その名前を冠した教団の誕生でした。この意味では私達の群は荒野で誕生したとも言えましょう。

3.荒野で感謝の気持ちと信頼を

 ですから、私達がどんな荒野を今歩んでいるとしても、それは何かを生み出すための主の計り知れない大きなご目的の故であることを信じ、感謝し、主に頼りつつその荒野を通過したいものです。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2002.10.20



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