礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年11月17日

マルコの福音書連講(7)

「至高の召命」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書1章14〜20節

中心聖句

1:17  イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

1:18  すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

(17-18節)


はじめに

 先週は主イエスが福音の説教を公に開始された記事から、福音の宣言を学びました。

 今日は一歩進んで、キリストの福音伝播に参加した弟子達について学びます。


A.他の福音書との調和

 ペテロ達が弟子となるべき召命を受けた物語りは、四つの福音書に共通ですが、皆強調点が違います。その比較からお話ししたいと思います。

 マタイ4:18〜22はマルコ伝の記事とほぼ平行です。マタイがマルコの資料を基礎にしたと考えられます。

 ルカ5:1〜11には、ガリラヤ湖畔での主イエスの説教、それに続く奇跡的大漁、ペテロの罪の自覚、そして主イエスの召命という詳しい記事が書かれています。

 ヨハネ1:35〜42には、ゼベダイの子のヨハネとペテロの兄弟のアンデレがバプテスマのヨハネの弟子であったが、イエスの弟子となったこと、さらにそれにペテロを加入させたことが記されています。この場合の弟子は、「一般的な意味での弟子」(つまり、フルタイムの弟子ではなく、その教えに賛同し、彼を信じるという意味で)であったと思われます。これはマルコの出来事の約一年前と考えられます。

 マルコはこうした事情を一切省略して、要点だけを記しています。そこにマルコ(その背後にいたペテロ)の美学があり、実務的なローマ人を意識した心遣いも感じられます。


B.ペテロとアンデレ(16〜18節)

16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

1.ペテロとアンデレの背景

1)家庭

 ユダヤ名はシモン、その父はヨナまたはヨハネ。父の事は名前しか言及されていませんので、多分この時は他界していたのでしょう。彼は姑と一緒に暮らしていたと記されていますので、既に結婚していた事が分かります。その住居はカペナウムというガリラヤ湖の北岸の町です。

2)信仰

 ヨハネの記事を見ますと、弟のアンデレはバプテスマのヨハネの弟子でありましたし、そのアンデレを通して、ペテロも主を信じたということが記されています。つまり、このガリラヤ湖畔での出会いは本当の意味での最初の出会いでは無かった事を心に留めておく必要があります。そうでなければ、たった見知らぬ人の一声の招きで、責任ある男がそう簡単に何もかも棄てて従うと言う事を考える方が無理でしょう。

3)勤労

 この時ペテロが網を打っていました。当時の漁の方法として、長い網を円形に上手に捲く方法だったと思われます。ペテロは夜通し行っていたとルカは記していますから、本当に働き者だったのでしょう。主はどんな小さな仕事でも一生懸命な人をお使いになります。

2.イエスの召し

1)イエスの主導権

 主は私達の背景から性格から皆ご存知で、ご自分の使命の為に召して下さいます。先ほど申し上げましたように、マルコは前後関係を全く省略して、要点だけを記録していますから、主の召命の記事は、何かおとぎ話のように非現実的という感じが致します。しかし、ヨハネ、ルカの記事を参照しますと、この召命は決して唐突ではない、私達の全てを熟知なさる主が、私達に最も相応しい働き場へと召しておられることが分かります。

2)皆が召されている

 ある方は、召命というのは伝道者とか宣教師とか言った特別な人の為にあるのであって、普通のクリスチャンには召命はないのだと思っています。これは誤りです。主は私達すべてをその栄光を顕わすために造りなさいました。

イザヤ 43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

 さらに主は私達の為に予め定めた良きこと(計画、目的)をお持ちであるとも記されています。

エペソ 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 英語で職業の事をcallingと言います。ドイツ語ではberuf(召し)です。どんな職業につくにせよ、そこに主の召しを感じ、それに応答する形でそれを選び取りたいと思います。勿論このような雇用情勢の中、職業は選べないと言うのは実状でしょうけれど、職業選びの根底に、神の私への召しは何であるかを真剣に考えなければなりません。

3)従えとの召し

 ペテロとアンデレに戻ります。主は彼らに「ついてきなさい」とだけ招かれました。詳しい条件は一切ありません。一日何時間はたらくとか、休暇はありかなしかとか、給料はいくらかとか、ボーナスや住居手当について一切言及されていません。ただついてきなさい、なのです。

 当然この中に含まれていた意味は私と一緒に生活しなさい、旅に出なさい、奉仕の手伝いをしなさいと言う助手的な務めが含まれていたことでしょう。でもそれだけではなく、主イエスもまた人の子としてコンパニオンを求めておられるという見方も出来るように思います。

 主はこの地上の奉仕と生活の中で、心を開き、喜びと悲しみを分かち合える友を必要としておられたのです。つまり、上にいる主権者として私達を召しておられると言う一面と共に、水平の人間同士として友を求めておられると言う一面もあったのです。そんな立場から、今も主は私達を従者としてだけではなく、友として呼んでおられます。何という光栄、何という機会でしょうか。

4)人間の漁師に

 ペテロとアンデレへの召命は人間を取る漁師への召命でした。それまで彼らはガリラヤ湖の魚を水の中から引っぱり出して市場で売り、それで生計を立てていました。これも悪くはないが、もっと永遠的な価値のある仕事へと主は召しなさったのです。つまり、罪に満ちたこの世という海で苦しんでいる人々を捕まえて、天国へと導く漁師なのです。

 スワヒリ語では漁をするということをクヴア・サマキと言います。直訳すると魚(サマキ)の服をぬがせる(クヴア)ということです。魚が着ている着物は水ですが、その水を脱がせて陸に上げると言う発想なのです。これはちょっと見るほど簡単ではありません。釣りの好きな方は釣りが魚との知恵比べだと言います。魚よりももっと賢く、罪の世がもっと居心地が良いと思っている人間を捕まえて、もっと良いところがあるよ、と言ってもそう簡単に信じません。否こんな事は不可能に近いのです。

 自分ではできませんが、主イエスは「人間をとる漁師にしてあげよう。」と可能とする恵と力を約束していて下さいます。私達ではできません。しかし主は可能にして下さいます。訓練し、力を与え、知恵を下さるお方です。信じ、従いさえすれば・・・。

3.ペテロとアンデレの服従

1)即刻的服従

 ここでマルコ伝特有のことば、直ぐが出てきます。彼らは直ぐに従った、とあります。1週間ほど考えさせて下さいとは言いませんでした。その場で、あっさり、単純に従いました。

2)無条件的服従

 ペテロは、姑のこと、妻のこと、生活費のこときっと心配が一つもなかったと言えば嘘でしょう。しかし、それらについて問うたり、条件を付けたりせずに、単純率直に従ったのです。

3)生涯的服従

 ここには書いてありませんが、この服従の姿勢は一貫して晩年まで変わりませんでした。ヨハネ21章を見ますと、ペテロは他の弟子を指さしてこの人はどうですか、と問うたとき、主が「そんなことは関係ない、貴方は私に従いなさい」と命じなさいました。ペテロは逆さ磔で殉教するまで、従い続けました。

 先週内山先生の記念会に出席しましたが、異口同音に語られた追憶の言葉はこの服従の姿勢でした。伝道生涯で5回の、それも漸く教会が軌道に乗ってきたかなと思える時に、より厳しい環境の教会へと転任されましたが、一切不平がましいことを仰らずに、喜んで従ったという思い出が語られました。その姿勢が行く先々の祝福の秘訣であったとも付け加えられました。素晴らしいことです。


C.ヨハネとヤコブ(19、20節)

19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。

20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

1.ヤコブとヨハネの背景

1)家庭

 ペテロの家と違って、ゼべダイの家は少し裕福だった事が伺われます。自分の船だけを持って細々と漁をしている一般の漁師と違って、雇い人達がいたのですから、小規模の網元と言った所でしょうか。ゼベダイの奥さんのサロメも息子達の出世を願った教育ママでしたから、家の雰囲気が分かります。

2)信仰

 アンデレと共にバプテスマのヨハネの弟子となったのはゼベダイの子ヨハネでした。これもペテロ達と共通です。

3)勤労

 彼らの場合は網の繕いです。もう漁は終わって、次の漁のために準備していたのでしょう。

2.イエスの召し

 内容は書いてありませんが、ペテロ達のそれと同じであったことでしょう。

3.ヨハネ、ヤコブの服従

1)犠牲を伴って

 これも前の二人と同じですが、敢えて違いを挙げるとすれば、より大きな犠牲を伴っての服従であったという点です。「父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して」とあるのが含蓄が深い言葉ですね。愛するお父さん、たぶん老齢期を迎えたであろう父ゼベダイを一人残していく事は人情から言えば耐え難い別れであったことでしょう。また船を残して、とありますように、生活の糧であった漁の道具を一切放棄して主に従ったわけです。

2)主は私達に「犠牲をはらうこと」を要求される

 主は私達に「犠牲をはらうこと」を要求されます。その内容、大きさは人によって違います。でも弟子である道に代価は付き物です。ヒトラーによって捉えられ、獄中で死んだボンヘッファーという牧師がいます。かれはCost of Discipleshipという本を書きました。弟子である道は代価を伴う、その代価とは己を捨てることだ、と語りました。

 信じれば儲かる、得をするといった御利益的な傾向と反対に、かれは主に従うことは己を捨てることだと語り、それを生涯掛けて実践しました。勿論、主はその代価以上の大きな報いを彼に与えなさったのですが・・・。


終わりに

 今日主はあなたに、個人的に「我に従え」と語っておられます。どの様な立場で、何の為に、何を捨てて、という内容はみんな違います。でも中心的メッセージは一つです。

 主の栄光のために、主の十字架を共にになうために、主はあなたを召しておられます。あなたはその召しにどう答えられますか?

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2002.11.18