礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年12月15日

クリスマス講壇(3)

「クリスマスの精神(スピリット)」

竿代 照夫 牧師

ピリピ人への手紙2章1〜11節

中心聖句

2:6-7  キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

(6-7節)


はじめに

 クリスマスの出来事には私達に訴えかける多くの挑戦が含まれていますが、その内の大切なものは、キリストが自分のライフスタイルを喜んで変えなさったという点にあります。神としての栄光の立場を潔く棄てて、卑しい、小さな人間の姿を取りなさったという点です。

 そのキリストの謙りを端的に述べているのがピリピ書2章です。ここから今日はクリスマスの精神(スピリット)というテーマでお話しします。


A.ピリピ教会の問題

1.一致への勧めの裏側にあるもの

 2節でパウロは「一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」と勧めています。その前の1:27でも「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており」と一致への期待を述べています。更に、3節ではと自己中心や虚栄への戒めています。

2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

 裏を返せば、ピリピ教会に分派闘争の芽があったことを示唆しています。

2.二人の指導者の対立

 2章では示唆だけですが、4章はよりはっきりと名指しで二人の指導者の対立を止めなさいと勧告しています。

4:2-3 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

 この二人はピリピ教会の指導者、多分女執事であったと言われています。この二人は教会創立の頃、福音を広める働きの為にパウロに協力した中心的な人物でした。時と共に教会指導者となりましたが、個性の違いによる対立が芽生えてきました。教会のメンバーにはそれを仲介するよりも、対立を煽ったり助長する傾向がありました。ピリピ教会は全体として愛に満ち、福音の為によく働き、良く祈る教会でした。その点では隣接地にあったコリント教会よりずっと症状が軽かったのですが、矢張りパウロは対立の芽を摘まねばと思ったようです。

3.キリストの思いが解決の鍵

 パウロの処方箋はより積極的です。対立を徒に叱るよりも、キリストの思いがどんなものであったかを彼らに想起させることにより、この問題を氷解しようとしたのです。知恵深いですね。ですから、1節に「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」といいながら、彼らの中にあるキリストの恵みを思い出させようとしたのです。

 恵が溢れて来ますと少々の問題は氷解します。逆に恵が乏しくなりますと、小さな問題でも深刻な問題に発展してしまいます。パウロはもっと進んで、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(5節)と言って、キリストの思いがピリピ人のものとなるようにと勧めます。

 ピリピ教会の根本的な問題は、人々が異なった思いを抱き、それに固執していた事でした。その思いへの固執を解く鍵は、キリストの思いに人々の心をむけることでした。「キリストのような心構えでいなさい。」とは何か押しつけがましいような翻訳ですが、元々はフロネオー(思う)と言う言葉から来ています。つまり、キリストが行動されたそのままを真似すると言うよりも、その思いを私達の思いとするという内面的な模倣が期待されているのです。


B.キリストの自己放棄

 さて、それではキリストの思いとはどの様なものであったでしょうか。

1.受肉の事実

2:6-7 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 とパウロは記しました。これはクリスマスの時に神が人となられた、受肉の事実を述べているのです。

2.放棄したものとは?神の栄光

 何が捨てられ何が留められたのでしょうか。キリストが神であるというその本質を放棄なさったのではありません。それは不可能なことです。彼が放棄なさったのは、神と等しくあるという特権と栄光です。ここで使われている「あり方」(モルフ)という言葉は、外側の形、現れであって、性質や本質ではありません。その中に含まれるものは、可見的な栄光、やや外見的なものであって、変貌山で主イエスが元々持って居られた栄光の姿に見られるものです。神であるとの本質は変わりようがないが、その栄光を捨去りなさったのです。

3.放棄の姿勢:固執なく

 6節の「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」という言葉は英語では<Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be grasped>となっています。直訳すると、「その本当の性質においては神でありなさったが、神との平等的立場を何かしがみつくべきもの(ギリシャ語では<ハルパグモス>とはかんがえないで・・・)となります。イメージ的には「野生動物が獲物をしっかり捕まえて、或いは泥棒が獲物を捕まえて何が起きても放すまいとしているような態度ではなく・・・」と言った感じです。

 私がケニアで飼っていた猫は、普段はおとなしい美人猫ですが、一旦獲物を捕まえると、何が何でも決して放さない頑固な猫に変身するのでした。主キリストの絵はそれと全く対照的なもので、神と等しいと言う光栄と特権をさらりと脱ぎ捨てたのです。

 私達は何かの物を放せないものと考えがちです。例えば社会的地位、名誉、文化、教育的背景、などなど。それらを放せと言われると、反発してしまいます。しかし、それらをより大きな目的の為に手放すべき時もあります。それを喜んで手放した最高の模範がイエス・キリストです。

4.自己放棄の大きさ

 彼は光りの中に住み、いや、光そのものでありました。しかし、喜んで暗い世に住んで下さいました。彼は愛の中に住んでおられました。父と子と御霊の暖かい愛の交流の中に生きておられました。そのお方が、愛の乏しいどころか、憎しみと嫉妬と権謀術数の渦巻くどろどろした世に生きられました。彼は正義のお方です。正義が支配する天において君臨しておられました。しかし、罪が支配する世に降りて下さいました。彼はこの上もない栄光を帯びた方でした。しかし、この上もない恥辱を甘んじて受けねばなりませんでした。彼は全能でした。何でもその言葉によって動かす事のおできになる方でした。しかし今や貧しさや弱さの限界の中に生きておられます。

 宣教師の直面する第一のハードルは、カルチャー・ショックです。特に便利で清潔で豊かな社会から、不便で汚くて貧しい社会に入るショックと言うものは計り知れません。人間同志ですらショックを感じるとすれば、まして、永遠に居ます主が有限の人間の形を取られる時にはどんなに大きなショックを受けなさったことでしょう。

5.自己放棄の継続

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 キリストの自己放棄は受肉の事実で終わらないで、十字架の死に至るまで続きました。これを図式で表すと

   神の栄光

    ↓→ 人間

        ↓→ 僕

            ↓→ 十字架の死

 となります。徹底した謙り、下降線そのものです。彼はこの自己放棄を、歯を食いしばってなさったのではなく、喜びをもってなさったのです。父の御心を行うことは私の食物だと心から言い切りなさったのです。


C.自己放棄の目的

1.目的

 何故でしょうか。それは私達と親近感を深める為(貧しさ、餓え、孤独、誤解される事・・・)、そして最終的には私達を罪の重荷から解放する為でした。穴に落ちた人が助けを求めた時、1人の通行人は「何故落ちたのかよく反省しなさい。」と言いました。次の人は、「自力で上って来るように努力しなさい。」と言いました。3番目の人はロープを自分に結わえて降りて来て彼をおぶって上に上りました。キリストの姿は正に第三の道です。

2.結果

2:9-11 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 何たる栄光、何たる勝利でありましょうか。キリストの謙遜の結果は大いなる救いの完成と言う勝利と神の右の座につくと言う栄光でした。私達にも義の冠が待っていますが、それを取引き条件にして我慢して謙るのではありません。この後の栄光はあくまでも結果であり、謙遜の目的ではありません。


D.キリストの模範のメッセージ

1.自分の立場に固執しない事

 このイエスの私達に語るメッセージは、私達が今持っているライフスタイルや人生哲学を必要な時には変えねばならないということです。私達の人生哲学は多かれ少なかれ自己中心的です。この自己中心こそ罪の本質です。私達は多くの便利さを私達は棄てがたいものと固執します。これなしには生きられないと思いがちです。ですから不便な場所での宣教師生活には人気がありません。主のみ心ならばずベての便利ささえも喜んで捨てる用意はあるでしょうか。イエス様でさえも神との等しい位置に固執されないとすれば、まして私達が何物かに固執する事があるでしょうか。

2.徹底した自己放棄

1)謙遜と他への顧み

 パウロはここで、「謙遜を持って、他の人をも顧み、他の人の利益を考えなさい」と勧めます。それは私達に不可能への挑戦を求めておられるのでしょうか。具体的に言いましょう。人から嫌な言葉や態度を示された時どう反応するでしょうか。自分のやり方や願いや意見や好みが否定された時どんな反応をするでしょうか。自分のプライドが傷つけられた時どう反応するでしょうか。

 どのような場合でも、「謙遜を持って、他の人をも顧み、他の人の利益を考える」ことは難しいです。この難しさは聖書翻訳者さえも間接に告白しています。「自分の事『だけ』を顧みず人の事をも・・・」と訳されている訳語についてデニス・キンロー博士は、この「『だけ』は原語にないのに無理に訳者によって挿入されたのは、訳者が「主が私達を利己主義から解放して下さるなどとは信じていない」からだと説明しています。それ程自己放棄は難しいのです。

2)キリストと共なる死によってのみ可能

 この自己放棄は、キリストと共に自己に死んだという明確な信仰告白とそれに伴う聖めの経験によってのみ可能です。この事が徹底しますと、より大きな目的の為に、あなたの人生哲学、生き方、生活水準、文化、習慣を放棄する主のご要求に対して、「はい主よ、私の全てはあなたのものです、私は全てについて自分を十字架に付けたものです」と告白できるのです。


終わりに

 神様はこの季節、何かの挑戦を私たちに与えていると思います。小さな出来事であるかも知れません。クリスマスのスピリットが私たちの物の考え方、何かに固執していること、それに対して、主はそれを捨てる事が出来ないとは考えないでさらりと捨てなさった自己放棄を、実践させていただきたいと思います。

 この祝福に満ちたクリスマスシーズン、クリスマスの真の精神を本当に自分のものとしようではありませんか。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2002.12.15