礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年12月22日

クリスマス講壇(4)「最高のプレゼント」

竿代 照夫 牧師

ローマ人への手紙 8章32節

中心聖句

8:32  私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

(8章32節)


はじめに

 子供達にとって最大の関心は、連想ゲームのように、ケーキやカード、プレゼントと言うかもしれません。

大人達にとっての関心は、限られた予算のなかで、この不況の世の中で何を買ってあげられるかということでしょう。

 オー・ヘンリーの短編小説で「賢者の贈り物」という題でこんな物語があります。

大変貧乏はありますが、互いに愛しあっている夫婦がありました。クリスマスが近づき、プレゼントをあげたいと思ったのですが、先立つものがありません。

仕方がありませんから、夫は自分の懐中時計を売り、妻へのプレゼントを買いました。妻は妻で、自慢の長く美しい髪の毛を切って幾らかのお金を作り、夫へのプレゼントを買い ました。

クリスマスの日、そのプレゼントを互いに交換しました。妻からのプレゼントは何と夫の懐中時計につける鎖だったのです。夫からのプレゼントは妻の長い髪を飾るヘアリボンでした。

二人はそれを貰った時に、泣き笑いをしてしまいましたが、 互いの愛情はより一層深められました。プレゼントは内容ではなく心なのだと思います。

このプレゼントの習慣がいつから始まったのか歴史的に調べた事はありませんが、

 ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されておりますように、

父なる人類に対する神の最大のプレゼントがイエス・キリストであり、それに触発されてのプレゼントのやり取り であると考えるのは間違いではないと思います。

そのヨハネの福音書と相呼応しているのが、ローマ人への手紙8章32節です。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された 方が、どうして、御子とい っしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

きょうはここから、この聖句の背景も含めて幾つかの事−具体的にはパウロの置かれた環境、それに対する神の恵み、私達への励まし-を学びたいと思います。

A.パウロの置かれた環境

1 .8章35節に、パウロが「患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」と列挙したものは、架空の物ではなくパウロが現実に経験した事、経験している事を述べたものです。

同じ時期に書かれたコリント人への手紙第二11章23節から28節には、

2コリント11:23b 私の労苦は彼らよ りも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち 打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける 難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、

11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、 寒さに凍え、裸でいたこともありました。

11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への 心づかいがあります。

とその内容を列挙しています。新約聖書の中で、主イエスに次いで一番厳しい人生を送ったのはパウロだったと 思います。

2.しかし、彼は神の愛によって、それらを克服しました。ローマ人への手紙に戻って、8章37節に、

 ローマ8:37 しかし、私た ちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

と勝利の秘訣を物語っています。 それらの艱難から逃げ出すことではなくて、「そのただ中に留まり続けながら、なお勝利者以上−圧倒的な勝利者の原意ですが−でありうるのだ。」と言っています。

それはやせ我慢ではなく、文字 通り主の臨在と助けを頂いているという深い自覚から来るものでした。遡って31節に は、

 ローマ8:31では、これらのこと(=28-30節に述べられているような、神のきよきへの召し。編者注)からどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

とあります。

つまり、私達は今迫害され侮られており、これからももっとそうなる可能性がありますが、 神は私達を愛するようにと召しておられ、人生経験の全ては善のために用いられます。この確信に立つと、誰も私達に敵対できないとわかります。

つまり、無限に賢く私達を導きなさる神、無限の力を持って私達を守り給う神、無限の善をもって救い給う神がともにおられれば恐いものはありません。

世のいかなる力も悪意もこの神の知恵と力と善に立ち向かうことはできないと、その確信を述べています。その確信の根拠が32節に記されているのであります。

B.神の恵み

 ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

これは何と素晴らしい確信でしょうか。

1.最愛の御子を

1)ヨハネの福音書ではキリストを神のひとり子と紹介している箇所を多く見ます。たとえば、

 ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

また、1章18節には、

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

とあります。更に3章16節には、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

とあります。まとめますと、

・ キリストは父なる神とこれ以上ありえないと思われるほど近い、親しい交わりをエンジョイしておられたこと、

・そのお方が神の恵みを携えて人となられたこと、

・ そしてその贖いを通して永遠の命を与えて下さったこと、

・ それは神が私達を愛している最大、最高のデモンストレーションであったこと

であるといえましょう。

 2)パウロも、その手紙の中で「ひとり子」という表現ではありませんが「御子」という言い方で同じ思想を述べています。

ローマ人への手紙に戻りますが、1章では、   

ローマ1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、

1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子 として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

と語っています。更に8章では、

 ローマ8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神は してくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

とあります。更にガラテヤ人への手紙4章では、

 ガラテヤ4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、 女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

とあります。お気づきのように、パウロの強調は

その御子が贖いを成し遂げなさった、そのためにお出で下さったという点にあります。

3)まとめますと、御子と言う表現は、神がその愛の対象とされる同格の方を世に派遣されたという文脈で語られています。

キリストがクリスマスにお生まれになったのは、御子の派遣としてであります。それは一番大切なお方を私達人類へのプレゼントとして送って下さったことに他なりません。

2.惜しまずに渡し切った主

神はそのプレゼントを惜しそうにではなく、喜んでお贈り下さいました。

1) まず、

何の保留もなさらずに贈って下さいました。

神には御子を惜しむ理由がありました。最愛の御子であったからです。

御子を惜しまないでという表現は、アブラハムがイサクを捧げたときの表現と相通じるものがあります。神はアブラハムの献身を愛でて 限りない恵みを約束されました。

 創世記22:16 これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、 このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その 敵の門を勝ち取るであろう。

22:18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

2)また、

徹底的に十字架まで渡し切られたのであります。

アブラハムの場合は生贄が止められましたが、神の御子の場合には誰も止めず、文字通り十字架で死なれました。

何で神の御子が、人々から罵られ、むち打たれ、唾され、釘づけられ、十字架に架けられ、槍 で刺されねばならなかったのでしょうか。神はこれを正視なさらなかったのでしょうか。私が親ならば、とても見ていられません。

でも、神はそのむごたらしい十字架を止めなさらなかったのです。

それは純粋に愛の故です。

そこまで徹底した愛を注いで下さった神 が私達の安全と保護を怠りなさることがありましょうか。それ以外の小さな恵みを保留されることがあり得ましょうか。ないと思います。

3.全てのために

神の愛は特定の人々のためのものではありません。私達すべてのためです。この恵みに洩れるものはおりません。今日もその恵みが私達一人一人に注がれていることを感謝したいと思います。

4.これは万物を与えなさる約束の徴

1)8章 38節に「いっしょに」とあります。大きな犠牲を喜んで払うならば、小さな犠牲は何のそのといった文脈です。そこに含まれているものは、

・私への救い・救いの中に含まれる義認、聖化、栄化

・あらゆる攻撃からの弁護、守り

・あらゆる迫害困難の直中における勝利

・ あらゆる窮乏における供給

ではないでしょうか。

2) 聖書には私達が「恵み」と呼んでいるものが付属物として与えられるのだと記しているところが幾つかあります。マタイの福音書6章33節には、

マタイ6:33 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、 これらのものはすべて与えられます。

と記されています。心の中に神の国と神の義が確立されるとき、衣食住の必要はそれといっしょに添えて与えられるのです。詩篇23篇6節にも、

 詩篇23:6 私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

と記されています。

神の恵みは私達を追いかけてまいります。ですが、順序が逆になっていないでしょうか。

私達は恵みを追いかけていて、イエス様はすっかり 忘れて、添えられた万物の方が大事と言わんばかりの浅薄な信仰観念にとらわれていないでしょうか。

おわりに

最後に、クリスマスにあたって、

1.まず、馬槽(まぶね)のみどりごの中に神の愛の大きさを感じ取りたいと思います。また、

2. その愛の対象に、私達一人一人も入っていることを確信したいと思います。

現実の生活では、色々な不足があり、困難、迫害があるかもしれません。ですが、神の愛と、すべての必要と万物を満たしてくださることを確信したいと思います。

3. そして, その資源の豊かさと、その御力の無限を信じて、明るい、楽観的で積極的な信仰をもって歩みたいと思います。

お祈りいたします。


Message by Rev.Teruo Saoshiro,senior pastor of IGM Central Tokyo Church

Compiled by K.Otsuka /Dec 22,,2002