キャンドル・クリスマスメッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2002年12月23日
「貧しくなった救い主」
竿代 照夫 牧師
コリント人への手紙第二 8章9節
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、 あなたがたのために貧しくなられました。それは、あ なたがたが、キリストの貧しさによって富む者となる ためです。 (8章9節) |
−はじめに−
クリスマスおめでとうございます。私達主都中央教会を代表して心から歓迎致します。
昨年までは広尾に会堂がありましたが、来年8月末完成を目指し、中目黒に新しい会堂を建設しています。
今年はこのOCCクリスチャンセンターで集会をしていますが、来年は光が燦燦と輝くような 場所で計画しております。
さてクリスマスにちなんだ話をします。
−I−
1944年、ドイツ政府によって捕らえられ、獄死したボンヘッファーというドイツの 牧師がおりました。
彼は、獄中からの手紙のなかで、 「キリストとは、今日、私達にとって誰であるのか」という問題を提起しました。
答えの一節は、 「キリストとは他の人の為に命を捨てて活きる存在であり、私達のとっての生とは、他者の為の存在であるイエスの存在に与る新しい命である」というものでした。そのことが如実に現れたのがクリスマスです。
−U−
クリスマスは、大きな逆転劇が行われた事で、シーソーゲームに喩えることができると 思います。
シーソーゲームは片方が重くなるともう片方が上がって行きますね。ここでいう逆転劇 というのは、神と人と の逆転のことです。
シーソーゲームに例えると、富んだお方としてのキリストが貧しくなり、貧しい状態の 人間が富んだものとなった。それは恵みである、と聖書は語っています。
ここで、きょうご紹介する聖書の箇所−コリント人への手紙第二 8章9節を、いかがでしょう、ご一緒にお読みしましょう。
2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわ ち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あ なたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
ここでいくつかのの真理が語られています。まず、
まず、キリストは富む者であったということです。
聖書は、地上に来られる前のキリストが、神の栄光に包まれ、天使達の讃美の対象であった、と記しています。つぎに申し上げたいことは、
そのキリストが、これ以上貧しくなれない程貧しくなったということです。
尋常ではなく、徹底的な姿を経験し、貧しい人間の形を取り、その中でも一番貧しい生まれ方、育ち方、生き方をしていたのであります。
一般的には馬小屋で生まれたといいますが、私がいたケニアでは牛小屋で生まれた(笑)といわれています。実際は驢馬(ろば)小屋で生まれたともいわれています。
余談はさておいて、なぜそのような生き方をしたかといいますと、 底辺の人々の気持ちを理解することができるようにという願いがあったからです。
−V−
二週間前、私は西半球で一番貧しい国といわれるハイチに行って来ました。
私達は今までに12人の宣教師を派遣し、今度13人目をハイチに派遣するための準備でしたが、4日間の滞在で、貧しいということが何を意味するかの一端を味わいました。
電気は当てにならず、道は誰もが処理しないゴミで溢れ、道路は穴があいたらそのまま、 マーケットにはしなびた野菜や果物が地べたに並んでいるという感じでした。
マイアミからたった2時間のフライトで、まったく別な世界があることに大きな不思議を抱き ながら4日間滞在しました。
もっとも感動を受けたのは、故国ならば年額何万ドルという収入が得られるひとが全てを ささげる生活をしていることでした。
クリス・シードさんという女医さんが幼い子供2人を含めた家族と一緒に、屈託なく現地の患者さんを見ている姿でした。喜びをもって現地の人々と生活をしている姿をみて、キリストが天から下り、人となってこの地上の生活をした事の一端を見る思いで帰国致しました。
−W−
キリストは、命をささげるという意味で、私達の豊かさと繋がるような謙りを 経験され、贖いという方法で、自分の命をささげ、私達の身代わりとなった、と聖書で語 っています。 他者の為に命を捨てるという意味で貧しくなられたのです。
私達は経済的に豊かな生活をしているかもしれません。ですが、生き方に希望を失ったり、自己中心という心の貧しさを感じていないでしょうか。
その心の貧しさを砕いて希望を与え、他の人々に喜びと希望の道を与えたのがキリストなのであります。
私達は徹底的に貧しいものであった。生きる希望を失っていた存在です。生きる 力を失って、落胆していた状態です。その根元は自己中心に生きるという罪から発し ているのだと聖書は語っています。
>キリストの犠牲によって、その罪の中心が砕かれ、活きる為の希望を神の中に見 いだし、活きる力を信仰によって与えられ、他の人にも分け与える程の喜びを見いだ したのです。
−おわりに−
最後に小さな話をします。
7歳の ジョニー 君という子が、妹の重病のために輸血が必要ということで、お医者さんからその必要を説明され、お願いされました。
暫く真剣に考えたジョニー君は重大な決 心をするかのようにお医者さんにOKを伝えました。
輸血が始まって、暫くしてから、ジョニー君がお医者さんに聞きました。「お医者さん。ぼくはいつ死ぬの?」
ジョニー君は自分の命を妹にあげるつもりで輸血に臨んでいたということがお医者さんに分かったのです。
また、インドの最も貧しく希望のない人々の中で奉仕したマザー・テレサは、「あなたにとっての隣人は、カルカッタまでこなくても、あなたのそばに見つけられます。」と語りました。
豊かさとは、自分が助かったというより他の人のために生きるということではないでしょうか。
もう一度、コリント人への手紙第二 8章9節をお読みします。
2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわ ち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
お祈りいたします。
Message by Rev.Teruo Saoshiro,senior pastor of IGM Central Tokyo Church
Compiled byK.Otsuka/Dec 23,2002