礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2002年12月29日

「パトモス島で見届けたもの」

井川 正一郎 牧師

ヨハネ黙示録1章1〜10節

中心聖句

1:9  私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

(ヨハネ黙示録1章9節)


A.今年一年間を見届けた、目撃者・証人

1.お茶の水への引越し・礼拝集会

 2002年最後の礼拝です。1月20日から始まったこの場所での礼拝。大きく変化したこの一年を締め括ろうとしています。

 慌ただしく奉仕した今年最初でした。片付け、引っ越し、そしてこちらの整え。その中でむかえた1月20日。

2.受洗者等の教会の出来事

 ここで求道者・受洗者が与えられるのであろうか。どのように伝道すればと思っていたときに、神はその初日から不思議なことをなされました。阿比留兄をまず送って下さったのです。あまつさえ信仰に導かれ受洗にまで至ったこと、感謝です。以後、年末までの受洗者は合計11名(昨年10名、一昨年5名)。ハレルヤ!

3.会堂建設においても神の奇跡を見せて頂いている

 引越しの後に業者選定、契約等、また起工式を栄光の中に終えて、本格的工事がスタートしました。また、膨大な必要に多くの方々から自発的ささげもの与えられていること等々、ほんとうに感謝です。

 今年一年間を振り返り、互いに、見届ける奉仕をした、または、その目撃者・証しする者となった、と言えるのではないかと思います。


B.使徒の時代を最後まで見届けた人物=使徒ヨハネ

1.新約聖書の最後の黙示録を記述

 今日、使徒時代に最後までこの地上に生き残り、色々なものを見届けた・見極めた人物に心が向きました。使徒ヨハネです。新約聖書の最後の黙示録を記しました。

 12使徒の中で最も若いといわれたヨハネであり、漁師ゼベダイの子として兄弟ヤコブと共に生れ、育ち、二人とも主イエス様に召されました。

 ヨハネは、主に愛された弟子と自分を紹介しました。

2.12弟子中最後まで生き残り奉仕=94、5歳?

 12使徒中最後まで生き残り、奉仕・あかしした人物です。90歳か100歳くらいでしょうか?。

 不思議なことですが、兄ヤコブは12弟子の中で一番最初に殉教した男でした。ヨハネは12弟子の中で最も長くこの地上に生きた人です。同じ血を分かちた兄弟でもこのように違うものです。

 信仰者の中には一人一人のいのちの長さ、早く天に帰る方もいます。長く地上にとどまる人もいます。地上の生涯が長いか短いか、どちらが良くて、どちらかが悪いというものでも全くありません。

 一人一人に神からの使命目的があり、夫々に違いがあることを教えられます。短くとも、その凝縮された生涯の中に重大な意義がありますし、長い場合でもそれなりの意義があるものです。このヨハネの地上生涯の長さに思いをはせると、地上で長く生きながらえるということが何を使命とするか、改めて深く考えさせられます。

3.ヨハネに長い生涯が与えられた意義=時代・人々の心等を多く見届けた(パトモス島で)

 長い生涯かけて品性は練られ、ついには主に似た者とされていくものです。長い地上生涯の必要が彼にはあったのでしょうか。

 多くのことを考えることができますが、きょうはその一つ、「長く生きているということで、時代の移り変わり、あるいは、人々のこと等について見届けるとの奉仕がある」とうことであり、それについて学びたく願っております。


C.ヨハネがパトモスで見届けたもの(3つの面から)

1.その時代環境と人々の心を見届けた

 時代はドミチアヌス帝のときです。この時代は追害・試練のときでした。皇帝礼拝を強制し、それを拒むものには迫害を加えたのです。反キリストがついに出てきたかと思うほどの迫害でした。

 ローマに従っていけば何とか生きてはいける。皇帝礼拝をすれば、何とか生きてはいける。しかし、真のクリスチャンはそうはいかないのです。故に迫害を受け、次々に捕らえられました。ヨハネはパトモス島に流されたのです。ある者は殉教していきました。ところで、パトモス島は、地中海、エーゲ海にうかぶ岩だらけの小島です。

 この世の流れに従う者がいやが応でも多くなりました。終末的な様相を呈している時代でした。正しい者は数少なく、ますます正しく歩もうとするのですが、正しくない者はますます汚れていきました。人々の心はそう動いたのです。

 ヨハネはこの長い地上生涯の中で、いやがうえでも人々の心を見届けてきたのです。自分の仲間から裏切り者が出たことも悲しい現実として目撃せねばなりませんでした。多くの人々の心変わりを見てきたヨハネでした。しかし同時に数は少ないですが、真実に主に従う者も見てきたのです。

 まとめると、時代はますます悪くなっていく。人々の心も比例して冷たく、そうなっていく。たしかに、主に従って敬虔に生きようとする者はみな、追害を経験するとのおことば通りなのです。それなくしての天国はないことをヨハネは実感したのです(9節)。彼はそれを見た、見届けたのでした。

1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

2.神の幻・計画(最後・完成)を見届けた

 正しい者はいよいよ正しく、悪い者はいよいよ悪くなっていく時代であり、人々の心も同様です。それを見極めるヨハネでありましたが、人々のそれらの心が最後の神のさばきがあることもヨハネはパトモスで見たといえるでしょう。

 a)キリストは王の王

 b)主に忠実に従った教会、クリスチャンの最終的勝利=主とともに凱旋する=聖徒は復活し、永遠の御国に入る

 c)世とその勢カはさばかれ、滅んでいく=サタンは永遠の滅びに至る

3.自分自身を見届ける

1)全く一人とされたところ

 神のことばの奉仕のために、主イエスのために捕縛され、刑罰としてパトモス島に流されたのです。パトモス島は地中海にある一つの岩石の島で、作物の全くできない所で、囚人たちを島流しにしたと伝えられる所です。

 ついにこの私も殉教のときがやってきたか、最後と確信した所でした。言い換えると、すべてのものから全く切り離されて、全く一人とされたところがパトモス島なのです。人間、最後はひとりとなって死ぬのです。天に帰るのです。

 後日談として、彼は後にパトモスから解放され、ほんの1、2年程度でありましたがエペソに戻ってくることができ、そこで天に帰ったと言われています。ともかくこの時点では自分自身の地上での最後と悟ったのが、ヨハネでした。

 彼は静かに思い巡らしました。このパトモスの経験は何を意味するかと…。そして自分自身のことをしっかりと見極めようとしました。

 この場所は摂理によってひとりとされたところ。具体的に4つのことを意識しました。

 a)死を意識した

 b)死に至るまで忠実な信仰を貫けるかどうかを意識した

 c)一人とされたからこそ、神をさやかに見ることができ、そのご計画の最後・結末までみることができる、神を意識した

 d)死の先を意識した

2)パトモスは地上最後の信仰チェックのところ

 これをまとめると、誰でもいかなる形にせよ、パトモスに象徴されるその経験を通るのです。それを通過してのみ、神の国への凱旋があるのです。いわばパトモスはヨハネにとっての通らねばならならない十字架経験だったのです。

 a)十字架経験

 b)それを通してのみ、神の国への凱旋


しめくくり

1.だれかを見届ける奉仕が残されている!

 だれかを見届ける奉仕が残されている、それが今活かされている地上生漉の意味なのです。

2.自分自身のパトモス経験を!

 だれかのためにと同時に、自分自身のパトモスを見届けたい。遅かれ早かれ、この地上生涯のどこかでパトモス経験を通ること、です。

 今日のメッセージ、「パトモス島で見届けたもの」、お祈り致します。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2002.12.29