中央新年聖会メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年1月2日

「地に落ちて死ぬ」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書 12章20-28節

中心聖句

12:24  まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

(12章24節)


はじめに

1.今年の課題と展望

皆様主にあって、あけましておめでとうございます。こう申し上げなければおめでたさも少ない ような新年であります。年末年始、様々なことがありました。

イラク状況がどうなるか、北朝鮮の核査察に拉致問題、そしてデッドロックのような日本の状況です。日本経済も、1月1日付けの『日本経済新聞』一面にありましたように、日本の危機を認識していないという危機 の中にあります。

進路を示すべき教会も、社会の要請に応えることに欠いているのではないでしょうか。

そのような時、みことばに耳を傾けたいと思います。

2.私達の在り方

ここで、きょうの箇所−ヨハネの福音書12章−から24節をご一緒にお読みしましょう。

ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

イエス様が、どうしても心に留めてほしいことがらは、「まことに」あるいは「まことに、まことに」というように仰っています。

先ほどご一緒にお読みした12章24節は、力をこめて語っているメッセージではないでしょうか。

A.この言葉の背景

1.時:まず、この出来事ですが、12章20節にありますように、過越に近く、受難週の月曜日と思われます。つまり、十字 架を四日前に控えた大きな緊張の中に起きた出来事です。

2.場所:場所はエルサレムで、主は既に凱旋的な入京を日曜日になさっており、宮清めをな さり、神殿近くで教えをしておられたころと考えられます。

3.状況:状況ですが、ギリシャ人の来訪であります。

1) 過越の祭りには世界中からユダヤ人が礼拝の為に集まって来ました。エルサレムは普段の10倍の百万人もの人が集まって来たと言われています。 ここで、12章20節から23節をお読みします。

ヨハネ12:20 さて、祭りのとき礼拝に上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

ヨハネ12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。

ヨハネ12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

ヨハネ12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

2)世界中から来たユダヤ人の中には、外国人でありながらユダヤ教に改宗した人々、改宗まではしないが関心を示した 人々とが混じっていました。この質問は恐らくその前者でしょう。

これについては、人種的なギリシャ人で改宗者、ユダヤ人ではあるがギリシャ的環境に いるもの、または、単なる異邦人の訪問者という解釈に分かれるが、どれも可能性は あります。私は第一の説を取りたいと思います。

3)このギリシャ人が主イエスの活動に興味を抱き「是非会ってみたい」と思い、ベツサイダにいるピリポに近づき、ピリポはアン デレにそれを告げ、イエスに近づきました。

いかつい十二使徒のなかで、ピリポはいわゆる"いやし系"の顔をしていたのでしょう、また、ガリラヤに近くなるデカポリスに近かったこととギリシャ語ができたので近付き易かったのではないかと考えられます。

アンデレもまた近づき易い人物で、 主イエスのための面会受け付け専門秘書という役割を持っていました。

さて、ギリシ ャ人達の興味は一般的なものに過ぎなかったかも知れませんが、求道心へと導かれる萌芽をもっていました。

ギリシャ人達の来訪は、キリストが贖いを成し遂げ、その救いがユダヤ人を超えて世界の全ての人々に及ぶその時が近づいて来た事の象徴でした。

4.つまり、これによって主はご自分の「時の」来訪を悟ったのです。

ここで、12章23節をお読みします。

ヨハネ12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

ヨハネの福音書では「時」について大切な意味を持っていました。そこで、要所となる箇所を開いて頂きたいと思います。まず2章4節をお読みします。

ヨハネ2:4 あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来 ていません。

カナンの婚礼のときです。次に7章6節−仮庵の祭りの時です。

ヨハネ7:6 わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来てい るのです。

つづいて7章30節をお読みします。

ヨハネ7:30 そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエス に手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。

時ならぬ時にイエス様が捕まり、人々の審判を受けるとスケジュールが狂うので逮捕できない のです。同じことが12章27節にもあります。

ヨハネ12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお 救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

ヨハネ13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来 たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るとこ ろなく示された。

つまり、主イエスにとって「時」は、

「贖いを差し出す時−全世界の一人一人の救いを成し遂げられる時」と捉えると背景がご理解頂けると思います。

もう一箇所、17章1節を読みます。

ヨハネ17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてくださ い。

主イエスが十字架につかれる前夜、贖いをなしとげることでギリシャ人だけでなく全世界が救われることを仰ったのであります。

そして、12章24節に移ります。いかがでしょう、ご一緒にお読みしましょう。

B.麦の譬え

1.主イエスにとっての死

ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

主は麦の譬えを語られました。

1) 麦とは、申すまでもなく、

主ご自身のことです。

彼の死は、麦が地に蒔かれ分解するように、

命を十字架の上で捨て、復活することで多くの魂が数限りなく起こされる、ということであります。

主は自分は栄光を受ける為に死なねばならない事を語っておられます。

そしてキリストが栄光を受ける事な しに教会の誕生と成長はあり得ないと語ります。

2)死なないでいるという表現で語ろうとしておられる事は、

自分の在り方に固執しないで、いわば地に落ちて死ぬというスピリット

です。

彼は神としての性質を持ったお方ですが、神と等しい立場をさらりとお捨てなさって、栄光に固執しませんでした。その箇所−ピリピ人への手紙2章6節は鍵となる箇所ですので、いかがでしょう、ご一緒にお読みしましょう。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

新共同訳ですと、「固執しようとは思わず」とあります。いわば、野生動物が獲物を捕らえて絶対に離さないというような意味合いであります。

以前、ライオンを近くで撮影しようとして近づきました。ライオンが獲物を食べているときでしたので、大丈夫だろうと思ったのです。

そうしましたら、マサイ族の人が、「行くな!行ったら襲われるから、車の中で十分だ!」と言われてしまい、車の中に戻りました。

また、ケニアで宣教師生活を送っていたとき、牧師会の際に、飼っていた猫がもぐらを捕まえてきました。

何度も離れるように命じたのですがなかなか離れない。そうしているうちに、あるケニア人の牧師が、「一緒にランチを楽しみましょう」と言いますので、その猫と一緒にカレーライスを食べました(笑)。

要は、野生動物のように固執しないということであります。 

本来なら、こういう待遇ではないはずなのに、「ここにおわします方をどなたと心得る?!」というように”印籠”を出すような状況−つまり、人々から中傷を浴びながらそれに耐えなさった方が主イエスであり、その頂点が十字架なのであります。

そして、十字架によってすべての罪が贖われ、永遠の命が保証されるのであります。

2.私達にとっての死

1)それは、

弟子たる者の歩むべき人生の姿勢、心の在り方を示すものです。24節 に続く25節と26節がそれを物語っています。

ヨハネ12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、こ の世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

ヨハネ12:26 わたしに仕え るというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕 える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

一人一人が主イエスによって命が与えられ、主イエスによって遣わされているものとしてきました。

2)では、その強調点は何でしょうか。

つまり、

自己中心主義に死になさい、と主イエス様ははっきりと仰っているのです。

それが次の節の

ヨハネ12:25 この世でそのいのちを憎む者

という言葉で解説されています。

命を憎むとは「自分の人生を呪って自殺しなさ い」ということではありません。

「自分のいのちを愛する」−つまり、

自己の利益を最大の課題として追求する自己中心主義、自分の生き方、主張を神の御心よりも先に置 こうとする傾向に死に切ることなのです。

自分の在り方、立場、プライド、やり口、主義、利益、それら一切を含めたものとしての自分に対して死を宣告したものを意味します。

1月1日の新年聖会で、ヨシュア記5章から

ヨシュア5:15 あなたの足のはきものを脱げ。

と語られたように、神と自分との関係でも主客交代を、言葉を変えて仰っています。

3)こう申し上げると、必ず極端な人々が表れます。

自分のアイデンティティ−自分が自分である事−にまで死にきり、無の状態になる事がきよめの徹底した姿だという幻想です。

どうか、極端に走らないで頂きたいのであります。

私は、これはガラテヤ人への手紙2章20節の行き過ぎた神秘的な解釈から来たものと思います。ここでガラテヤ人への手紙2章20節をお読みします。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によってです。

主は、私達の個性、好み、楽しみ、家庭人としてのありかた、いい意味でのプライドを−パウロも持っていましたがー、全部棄てなさいとはおっしゃってお られません。それは神の創造のご目的への矛盾です。

主イエスも「神と等しくある立場は」きれいさっぱり棄てられましたが、己の神たる性質を棄てなさったのではあり ません。

私達が捨てるべき自分と言うものは、繰り返しますが、

神のみ心はどうあっても、それより自分の願いと主義をと優先させる、その意味での自己中心主義です。

昨年12月29日にモーリス・アボット先生が召天されたという報を聞きました。

インドの宣教師を経て、ワールド・ゴスペル・ミッション(WGM)の総理として20年近く奉仕され、引退後はボランタリーの宣教師としてケニアに赴かれて引退されました。

自分に死にきった器だという素晴らしい評判を見せていただきました。

前総理であるという雰囲気を持たず、みなと同じように食事をするために列に並ばれていました。また、会計でのミスで年下のフィールド・ディレクターから叱責されても、表情を変えずに"I'm sorry(申しわけありません)"と仰っていました。

そのアボット師が著書の中で、自己充足・自己意識・自己欲求・自己義(じこ ぎ)が自己中心の要素であるという分析をされていました。

申し上げたいことは、

地に落ちて再生産される−つまり、地に落ちて死ぬという経験をさせていただきたいということであります。

4)それは

私達の信仰生活のどこかでイエス様とともに十字架につき、日々十字架につくという立場に自らを置くべきであります。

5)これは選択の問題です。しかし、もっと大切な事は、

自己への死を日々宣告し、その立場に自らを置き続ける事です。

そのテストは毎日毎日の生活のこまごまなことです。イエス様から請求書が来るのです。

イエス様は請求書を出し、私達にまわってきます。

自分の考えでビジネスを進めていきますが、「そのビジネスは(イエス様の)スピリットにあっていますか?」、

「いやこうしなければ生き残れない」というとき、「その問題について死ぬことができますか?」、

あるいは、「自分のやり方−自分の義に死ぬことができますか?」、

あるいは、「主のご用を大切にすることができますか?」というように(請求書が)まいります。

イエス様は、このような形で、「麦が地に落ちて死」ぬことについて私達への挑戦を与えていると思います。

現代のクリスチャンの霊性に影響を与えたヘンリ・ナゥエンという人がいます。

ハーバード大学神学部の教授職を捨て、知恵遅れの人々のための共同体である、フランスにあるラルシュというところの一職員として赴任する際にも、彼の心には苦闘がありました。

彼の著書の中に、マルコの福音書10章20節と22節の記事を通して、心の苦闘が日記に記されています。

苦闘の後、ハーバード大学を去るという決断をしたとき、

大きな自由と平安とエネルギーを得たと記しています。

私達は、主イエス様による全面的な柔らかさを得ることが重要であります。

C. 私達への挑戦

1.まず、

私達の死ぬべき分野はどのようなものかをしっかり見極めたいと思います。

1)第一に、

自己の生き方、文化、主張、野心だと思います。

ワールド・ゴスペル・ミッションの宣教師派遣式の説教のなかで、アップルビー先生が、

「あなた方は自分の文化に死になさい。」と厳しく、はっきりと語られた事を印象深く覚えております。

遣わされた地と文化に溶けこみ、地に落ちて死ぬということであります。

2)第二には、教会に対してもメッセージを与えていると思います。基本的な原則は譲ってならないと思いますが、

周辺的な事柄、第二義的な習慣、伝統等々、捨てるべきものに対して100パーセント柔軟性を持たなければならないのではないでしょうか。

シカゴの大きな教会(編者注:ウィロークリーク・チャーチ)の牧師であるビル・ハイベルスという人は、

「福音以外の躓きを置かない」と言っています。人々と教会との間の隔たりを取り除きたいということであります。

お祈り頂いておりますが、(主都中央教会の)新会堂が中目黒に建ちます。地域に根をおろし、

「ドアと心を開いた教会」にしたいと思います。

2.

私達は自己中心に死んでいるでしょうか。

示されているなら、

「私はあなたのものです。喜んで従います」ということを確認し、この一年を送りたいと思います。

お祈り致します。


Message by Rev.Teruo Saoshiro,senior pastor of IGM Tokyo Central Church

Compiled by K.Otsuka /January 2nd, 2003