礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年1月26日

教会総会礼拝

「霊に燃え、主に仕え」

竿代 照夫 牧師

ローマ書12章3〜16節

中心聖句

12:11  勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

(11節)


はじめに

1.教会総会の朝

 教会総会の朝です。昨年の回顧、今年度の計画が立てられ、人事が発表される訳ですが、どんな組織や計画を立てるに勝って、私達一人一人がどのような心をもって主に仕えて行くかが吟味され、心の一致をもってスタートせねばなりません。

2.ローマ書の構成と12章(背景)

 今日は11節のみのいわばテキスト説教にしたいと思います。ローマ書12章は、教会と言う環境で、キリストの救いをどのように実践して行くかの具体的示唆が述べられている章です。

 ローマ書の構成は、1〜11章の教理的な部分(1〜8章の救いの教理、9〜11章のイスラエルの救い)と、12〜16章の実践的な部分(献身の生涯:12章、国家への態度:13章、異なる文化への態度:14〜15章前半、パウロの証と挨拶:15章後半と16章)に分けられます。

 ローマ書12章は実践的部分の始めであり、信仰者と神との関係(1〜2節)、教会との関係(3〜16節)、敵対者との関係(17〜21節)が扱われています。

 そして、教会との関係はさらに二つに分けられます。

 1)自分の賜物を弁え、互いの連携を保ちつつそれを最大限に活かしなさい(12章3〜8節)。

 2)純粋なアガペーの愛をもって互いに愛しあいなさい(12章9〜16節)。そのアガペーの愛は、相互の尊敬、勤勉、祈り、旅人への接待に表れるべきものです。

3.今日のみことば(ローマ書12章11節)

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 今日はその中で11節のみ言葉に心を留め、総会に向かう私達への挑戦とさせて頂きましょう。新共同訳では、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」です。

 NIVでは "Never be lacking in zeal, but keep your spiritual fervor, serving the Lord." 私なりに直訳しますと「勤勉さの中に留まり、怠惰を避けねばなりません。霊において燃える熱心さを持ちながら、主ご自身に仕えなさい。」となります。この聖句に含まれる三つの真理を捉えたいと思います。


A.勤勉

1.勤勉は主の喜び

 この節の始めの言葉はテー・スプーデー(勤勉さの中に)であります。スプーデーと言う言葉はスピード、急ぐこと、勤勉、熱心な努力、前向きの態度と辞書にありました。

 新旧約聖書全体を通して、主の喜びは私達人間の勤勉さです。箴言には「勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する。」(12:24)と記されています。この他にも多くの勤勉に関する勧めがあります。

 主が用いなさる器は、どの分野であれ、勤勉な事です。格別に霊的なわざ、主に直接仕えるような奉仕に関して私達が心を込め、勤勉である事を喜びなさいます。勤勉さは自分の為にも、家族の為にもなるし、ひいてはキリストの為にもなるのです。

2.怠け心への警戒

 ここで使われている「オクネーロイ」という言葉は「遅らせる」という意味です。箴言は大変面白い本で、「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。」( 箴言 19:24)と、その動作の緩慢さを揶揄しています。今やらなくてもと言い訳を続けながら、平気で物事を遅らせる事、つまり不作為のことです。

 勤勉さと反対に、怠け心はクリスチャン精神と相反します。主人から預かった大切なタレントを土の中に隠し、それを殖やす為の努力をしなかった僕に対して、主は「悪いなまけ者のしもべだ。」(マタイ25:26)と厳しく叱っておられます。

 私達はとかく、「私は小さなタラントしか持たないもの」で、といいながら、何にもしない怠け心の言い訳にしている事がないでしょうか。主は1タラント(労働者の20年分の給料)も上げているよ、と期待をし、それを使わなかったならば責任を追及なさる方です。


B.奉仕

1.何でないか

1)人が対象ではない

 基本的には、人が対象ではありません。人が見ているから、人に評価されるために奉仕するのではありません。

 パウロはコロサイ書において、「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(3:22〜24)と語っています。

 しかし、神を畏れているから、人間はどうでも良いというのではありません。会社の社長や上司、主人に横柄な態度であってはなりません。神を畏れているその意識をもって人にも仕えなさい、と語っているのです。この意識はとても大切です。

 パウロは第一テサロニケ書には伝道者として「人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」(2:4)とその襟度を語っています。

 人に喜ばれようと喜ばれまいと、私達は見えざる、しかし私達の心を見ておられる主に仕えているのです。

2)「活動」ではない

 いわゆる「活動」ではありません。仕えるというと、何かの教会活動を連想します。教会のお掃除をするとか、伝道のためにトラクトを配るとか、印刷をするとか・・・。それらは皆含まれますけれど、それだけが奉仕ではありません。主に仕えると言うことは、主の喜びなさるあり方に自らを持っていくことであり、主の喜びなさることを行うことです。

3)場所や立場に限定されない

 場所や立場に限定されません。当然です。神学院だけが主に仕える場所ではないのです。教会という建物だけが奉仕する場所ではありません。どこでもいつでもなされるのが主への奉仕です。

2.何か

1)対象は主ご自身

 対象は主ご自身であります。全ての事を神に向けて行いなさい。その全ての事において心を込めなさい。飲むにも食べるにも、全ての営みを通して神の栄光が顕れるようにしなさい、と言うのが聖書の勧めです(第一コリント10:31)。私達の日常生活の営みの全てが主を意識し、主に向けられた行動としてなされること、これが主に仕えることです。

2)主の喜び、主のみ心を行う

 主の喜び、主のみ心を行う事です。主を主人と認め、その心を知り、それに従うことです。ドューレウオーと言う言葉はもともと奴隷として従うと言う意味です。主が喜ばれる心の状態であることが主への奉仕の基本です。

 ミカ書の中に「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(6:8)主と共に歩むことが奉仕なのです。

 最近の介護の中に、聴く仕事というのがあると伺いました。老人を訪ね、その人の話を聞いて上げる、これが貴い奉仕だというのです。神の喜びは、(多くの場合)私達が働き蟻のようにせかせか動くことではなく、じっと足下に座って聖言を聴くことなのです。丁度イエスの足下に座ったマリヤが、忙しく働くマルタよりも誉められたように。もちろん、主が命じなさった具体的活動に忙しくあることは大切ですし、必要です。でもそれとても主を愛する心からの愛が動機でありませんと、虚しいものに終わるのです。


C.熱心

 ですから、最後に主に仕える動機、動力について学びます。

1.何でないか

1)人間的な頑張りではない

 人間的な頑張りではありません。当然です。自分を励ますこと、それによって何かの報いを得ようとして頑張ることではありません。人間はその為に熱心になりえますが、これは違います。

2)冷たい心、生温い心でもない

 冷たい心、生温い心でもありません。ラオデキヤの教会は、熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいために主に叱られました(黙示録3:16)。私達はいつの間にか、こうした生ぬるい状態に陥ることがあります。さらに黙示録2:4には、最初の愛から離れたエペソの教会も叱られています。救われたばかりの感激が失われて、惰性の信仰生活を送っている姿です。

2.何であるか

1)聖霊によって燃やされる心

 聖霊によって燃やされる心です。文字通りには、ゼオー=煮えたぎる、熱い、燃えるという言葉です。でも人間には自分で燃えるような燃料はありません。従って聖霊によって燃やされるときにのみ、心は燃えるのです。

 神の愛が御霊によって心に注がれる時(ローマ5:5)人の心は神の奉仕の為に熱心にさせられる。実際、神の御霊なしには真の礼拝も奉仕もあり得ません。どこかから火が入り込み、燃えて行くと言った受動的なものです。

 ウェスレーにおいてはアルダスゲートにおいて彼の心があやしくも燃やされた経験をしました。それは、語られたみ言葉を通して、神が彼を愛し、贖い、その罪を赦して下さった事が実感できたからです。エマオへの道を歩んでいた二人の弟子たちは、主イエスご自身が近づき、聖書を解き明かされた時に心が静かに燃えているのを感じました。

2)喜んで主に仕える

 聖霊によって与えられた熱心に従って主に(真の意味で)仕えるとき、喜びが涌いてきます。それは詩篇51篇によれば、「喜んで仕える霊」のことです。11、12節には「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」と記されています。

 真実な愛をもって主に仕えるそのような姿を継続し、互いに励まし、評価する、そう言った教会を形成したいものです。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.1.26