礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年2月16日

マルコの福音書連講(10)

「朝早く、寂しい所で」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書1章35〜45節

中心聖句

1:35  さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

(35節)


はじめに

 先週は、「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」(34節)という御言葉を中心に、いやし主である、主イエスについて学びました。

 今日はその癒しの奉仕の直後に起きた主イエスの祈りについての学びです。


A.イエスの祈りの姿

1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

1.祈りの時

1)朝早くまだ暗いうちに

 「朝早くまだ暗いうちに」と記されています。直訳しますと「非常に朝早く、まだ夜と言ってもおかしくないほど暗い中に」となります。主の朝起きの時刻の中に、主の祈りの姿勢を見ます。イエスは、昨日の打ち続く奉仕で疲れなさって、もっと休みたいという誘惑ももっておられたでしょうが、それにも打ち勝って、決然と床を跳ね上げて起きあがって祈りの場所へと急がれたのです。

2)朝を確保した多くの聖徒たち

 この記事を読む度に自分に鞭打たれるような気持ちになる方はありませんか。特にこんな言い方で・・・。

 「聖書の中でも、教会歴史の中でも、神に用いられた人は皆早起きだった。ヨシュアを見てご覧、彼は朝早く起きた(ヨシュア3:1、6:12)。ギデオンを見よ。彼も朝早く起きて神と物語った(士師6:38)。ジョン・ウェスレーを見よ。かれは毎日4時起きして祈った。ハドソン・テイラーを見よ。彼の祈る姿を見る事なしに、中国大陸に太陽が登る事はなかった。詩篇にも『朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。』(5:3)と朝の祈りの大切さを説き、イザヤも神の僕について『朝毎にわしを呼びさまし、私の耳を開かせて・・・』(50:4)と朝、神の声を聞く大切さを説いている・・・。」と言うような言い方です。

 イエス様の模範も含め、こうした偉大な人々の模範は私達に大きな励ましを与えて下さる事は間違いありません。BTC(聖宣神学院)では5時半起きで祈り込む事の大切さを訓練され、私も可能な限りそれを実践しています。

 でも、最近私はこの事がとても律法的に語られ、受け取られているのではないかと危惧を持つ事もあります。つまり、朝祈りの時を持つ人は、その祈りの内容がどうあれその一日は祝されるという単純過ぎる行いへの信仰が片方の極端であり、同じ事の裏返しですが、朝祈る時間を持てなかったから、その日一日は全く失敗だという挫折感です。そのどちらも祈りを何かの功績か勤行と勘違いしている所から来るのです。

3)例外も・・、要は律法的にとらないこと

 私は、ナイロビ教会のユースパスターとして多くの若者を主に導き、献身に導き、一昨年多くの人々に惜しまれつつ50代の若さで天に召されたマージ・キャンベルという宣教師と良きお交わりを頂いておりました。ある年の宣教師の修養会で早天を計画しました所、彼女が、「私は朝が苦手で、早天には出ません・・・」とおっしゃったのを聞いて、最初はちょっと戸惑いました。

 でも後に、彼女が別の時間に良く祈る方である事を知って、朝と言う時間を絶対視して「朝早く起きる人が霊的、朝寝坊の人は世的」という物差で人を裁いていた自分を反省させられました。

 大切なのは形ではなく、心です。主イエスは祈りの時を大切にされた、そして彼にとってそれが朝早くであった、とこう考えるべきだと私の理解が拡がったように思います。朝がとても大切という私の考えは変わりませんが、どうしても朝纏まった時が取れない仕事の人、低血圧で朝はぼーっとしているという人が朝のデボーションを律法のように考える必要はないでしょう。でもどこかで祈る時を確保する、これは信仰生活には生命線であります。

2.祈りの場所

1)寂しいところ

 「寂しいところ」を主は探し求められました。それは、「たった一人に」になるためでした。祈りの場所はとても大切です。他の人が介入できないような神と私との空間が必要だからです。この時主は何人かの弟子たちと共に、カペナウムのペテロの家に居候していた訳ですから、祈る為の部屋など持っていなかった事は容易に想像がつきます。ですから、外に出て、何にも妨げられない環境を求められたのでしょう。

2)独り神の前に

 野田秀先生がその「独り神の前に」という著書でこう語っておられます。「私達は一人になる必要があります。またひとりになるために、絶えず工夫をしなければならないのです。忙しい毎日を過ごしている私達ですので、否応無しに人の中にでていかなければなりません。そのために、ひとりになることがむずかしいのです。・・・私達はよく人が煩わしくてひとりでいる、と言う事があります。そのような、一人のなり方ではありません。・・・人の中に出て行き、そして人のために生きる者となるために、ひとりにならなければならないのです。」

 私達にとって、一人の場所を得るのは易しい事ではありません。住宅環境もそれを許しませんし、時間的にもそんな場所を持つ事は難しいでしょう。しかし一番可能な事は混み合った電車の中で眼をつぶる事で寂しい所を作る事が出来ます。要は、必要性をどのように感じるか、その為に鈍な工夫をしているかの問題です。

3)自然のままの環境に浸りながら

 もう一つこれはこの文脈からは直接伺えませんが、私の経験から申し上げられる事は、自然のままの環境に浸る事によって、より一層神を近く感じ、心広くさせられて祈るということも「寂しい所」のメリットではないかと考えます。

 神学院が横浜に移ったばかりの頃ですが、隣は杉の生い茂った森でした。泉も湧く所もありました。しばしばそこに出かけては祈りを致しました。部屋で祈る祈りとは違ったひろーい心で祈れたように思います。昨週も大切な総会を前にしてどうしても一人で祈りたいと思い、ある海岸の辺りに出かけて誰もいない浜辺で祈りました。満たしと確信を与えられました。

3.祈りの豊かさ

 「そこで祈っておられた。」という動詞は継続を表わす時制です。「ずっと祈っておられた。」と直訳する事が出来ます。主にとって祈りとは呼吸のような神との物語だったのです。渡辺勝弘師の「マルコ福音書講解」によれば、時を忘れさせるほどの甘美な神との交わりであった、のです。

4.祈りの内容

 主イエスがどんな事を祈られたか、その内容は記されていませんが、状況から判断してどの様な祈りが捧げられたかは推測することが出来ます。

1)充電と刷新

 主は前夜遅く迄忙しいスケジュールをこなしておられました。会堂で教え、悪霊に憑かれた者を癒し、ペテロの姑を癒し、夕方から夜にかけては大勢の人々の諸々の病を癒されました。それもご自分の霊的なまた肉体的な力の消耗なしに、悠々と片付けなさったのではなく、マタイの表現によれば、人々の病をご自分の身に背負って癒しの業をなされたのです。さぞ力を出し切られた事でしょう。バッテリーに譬えれば放電し切った状態と思われます。

 何度か私は自動車のライトを付けっぱなしにして夜を過ごし、朝になって車がうんともすんとも言わないという失敗をしたことがあります。そんな時、臨時的には誰かのバッテリーとジャンパーコードでつないでスタートできますが、走りながらの充電には限界がありますので、どこかでバッテリーチャージャーに繋いでしっかり充電せねばなりませんでした。主イエス様でさえも、力の更新、精神の充電を必要とされたのです。まして、何の力も内側に持ち合わせていない肉なる人間が、充電の時なしに走り続ける事はできません。

 私達は余りにも忙しくて、充電しないままただ仕事仕事と追い捲くられてはいないでしょうか。マルチン・ルターが「私は余りにも多くの仕事を抱えて忙しくて忙しくて仕方がない。だからもっと祈りに時を費やさなければとてもやっていけない。」と語った事は真実です。

2)取りなし

 恐らく、前の日に救われた人々癒された人々のフォロアップのために取りなしの祈りがなされたのではないでしょうか。

3)導き

 さあ奉仕の第一歩は踏み出された、今後はどこで何をすべきか、主は導きを求めていたと考える事は自然でしょう。カペナウムに戻ると思いきや、主はもっと広いガリラヤ全体の奉仕を始められました。その導きはこの祈りの時に与えられたと思われます。蔦田二雄先生がその「伝道者と密室祈祷」と言う本の中で、朝の祈りの中で一日の勝負が決まると語っておられることは含蓄のある言葉です。


B.祈りの終わりと奉仕の再開

1.弟子達の要請

1:36-37 シモンとその仲間は、イエスを追って来て彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。

1)追って来た弟子達

 主の祈りを妨げるかのように、弟子達が「追って」きました。「追う」を示すカタディオーコー(=pursue closely猟犬が獲物を逃さないように追いかける)という動詞が面白いですね。弟子達が、朝起きたところで主イエス様が見当たらない、どうしたことかと居場所を尋ねてしつこく探し回った様が如実に伺われます。

2)世界中が主を求めている

 彼らの言葉がまた振るっています。「みんながあなたを捜しております。」

 世界中が挙げてあなたを求めていると言っているのです。多分あるものは主イエスの説教を聞きたい、あるものは癒されたい、あるものは救われたい、たぶん他の者は主イエスを滅ぼそうという悪しき動機から、主を求めていた、と言うことをリポートしたのです。

2.主の決意

1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

1)祈りから伝道へ

 主は祈りを何時までも続けたいと願いつつも、それを理由に人々の願いを拒絶なさるお方ではありませんでした。むしろ、人々の中に出ていくために、人々から退かれていたのです。単なる隠遁の祈りではなかったのです。アダム・クラークは面白い注を付け加えています。「町や村は説教者の所には行かない。説教者が町や村に行かねば人々は救われない。主イエスは伝道者の鏡である。彼は教区のあらゆる町と村を巡らなければ満足しなかった。」と。

 主は積極果敢な伝道へと立ち上がりなさいました。近くの「別の」と言う言葉で、弟子達の期待を遙かに超えてカペナウム以外にもという広域が示されています。主は常に広いところ広いところに重荷をもって良き訪れを述べ伝えようとされます。「そこにも」ここにもという伝道意欲を私達も分け持たせていただきたいものです。

2)主がこの地上に来られた目的

 主がこの地上に来られたのは、実は「この為」だったのです。「この為」とは、詳しく言えば「福音を全ての造られた者にのべ伝え、また、全ての者がそれに聴き、恐れ、神に立ち返ること」でした。

 イエスはその生涯目的をはっきり持って居られた方です。私達の生涯目的は何でしょうか。それを見つけましたか。それに向かって生きておられますか。


終わりに : 私達と祈り

1.模範者である主

 「模範者である主」を仰ぎ見て、その模範に倣いたいと思います。今日の説教を聞いて、ああ私の祈りの生活は乏しいなあ、というだけの感想で終わって欲しくないのです。そういうマイナス思考ではなく、イエス様の祈りの生活は慕わしいなあ、私ももっとそれに近づきたい、今日の礼拝の帰りにちょっと雑木林に立ち寄って祈りたいなあ、という気持ちになれば、マルコがここで福音書を書いた目的は果たされるのです。

2.今もとりなし給う主

 「今もとりなし給う主」を仰ぎ見て、自らの弱さたらなさをカバーしてくださる主に信頼しましょう。

ヘブル7:25 ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

3.助け手であり給う主

 「助け手であり給う主」を仰ぎ見ましょう。模範だけ見ると失望することがあるかもしれません。でも主は同時に私達の土の器であることご存知で祈りを助けて下さいます。このお方を信じつつ、なお祈るものとさせていただきましょう。主は御霊を通して私達の祈りを助けて下さいます。

ローマ8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.2.16



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