礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年2月23日

「どんな境遇にあっても満ち足りる」

井川 正一郎 牧師

ピリピ人への手紙 4章8節-20節

中心聖句

4:11  乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

4:12 私は、貧しさの中にいる道を知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも,富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

(4章11-12節)


1.はじめに

新約聖書ピリピ人への手紙 4章11節と12節を読みます。

ピリピ4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

4:12 私は、貧しさの中にいる道を知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも,富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

ピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中から書いた手紙です。パウロは紀元1年前後に生まれ、68年頃殉教した、即ち68歳で召天した器です。

クリスチャンを先頭に立って迫害していた人物でありましたが、ダマスコ途上での不思議な体験を通してクリスチャンとなりました.。

また、伝道者として奉仕するようになりました。アンテオケ教会を皮切りに大きな伝道旅行を三回も行なって、小アジアに、ヨーロッパにと伝道の働きを広げました。多くの教会をたてあげていきました。

でも、反対・迫害も激しく、ついにパウロはエルサレムで逮捕されました。しかし、ローマの市民権を持っていたので皇帝に上訴することになり、ローマに渡ってきました。

ローマでは二回の獄中生活を送りました。一回目はわりとゆるやかな軟禁状態、そのあと少しの期間放免されて伝道の機会が与えられたようです。しかし、もう一度捕まります。二回目は非常に厳しい状況に置かれ、ついにこの時殉教していくことになります。

ピリピ人への手紙が執筆されたときは第一回目のゆるやかな状態の頃、紀元62年、パウロが62歳前後の頃であります。パウロはこの後放免されるのであります。

ローマの獄中にあったパウロに対する贈り物の感謝として書かれたのがピリピ人への手紙であるといえましょう。

2.執筆目的

このピリピ人への手紙の執筆目的は4つあります。まず、

(1) まず、ピリピの教会からの贈物に対する感謝、次に、

(2) 自ら死に瀕し、後に健康を取り戻し、ピリピから「戦友」といわれたエパフロデトをピリピにこの手紙を託しつつ帰すが、エパフロデトのような人物こそ尊敬を払われるベき人物、受け入れられるべきものであること、さらに、

(3) ユウオデヤとスントケの一致の勧め、そして、

(4) パウロのいまの状況が苦しく大変なものではなく、かえって福音が前進するきっかけであること

であります。善意でも、そうでなくとも主イエス様ご自身が宣べ伝えられているから、私の喜びであると記されています。

ピリピ人への手紙は

喜びの書、 あるいはキリスト中心の書であるという意味はここにあるといえます。

第一章が「いのちなるキリスト」、第ニ章が「模範なるキリスト」、第三章が「目標なるキリスト」、第四章が「力あるキリスト」という人もいます。

3.意義

今回取り上げるピリピ人への手紙4章は、贈物に対する喜びとその意義について記されています。

贈物は単なる品物ではありません。それは

霊的供え物であり、 神に対する香ばしい香りであるとパウロは言います。また福音奉仕の分担でもあると評価します。

また付け加えですが、その贈物は贈物として嬉しく、また素晴らしいですが、それ以上にパウロは、私にとって喜びなのはピリピの教会がその献げる恵みを回復したことであると10節で言っています。

ピリピ4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは 心にかけてはいたのですが、機会がなかっただけです。

少し脱線しますが、最近、教会はそのような贈物・心遣いがあまりなかったようです。「なんで献げないんだ!?」とクリスチャンとしての義務を求めたりしませんでした。 4章10節にありますように、このようなぬくもりがあったならどんなに幸いかと思います。

多少脱線しましたが、パウロは責めたりしませんでした。前の霊的評価とともに、伝道者のものの見方、感じ方を改めて教えられます。霊的に、神の観点から物を みたり考えたりできるかということであります。

それはともかく、贈物が送られたことは嬉しいことであり、喜びである。でも、それがなくても私は満ち足りていることを学んでいるから大丈夫だと言っているのが今日の箇所であります。

4.なぜ「どんな境遇にあっても満ち足りる」のか?

では、今日のメッセージ−「どんな境遇にあっても満ち足りる」のはどうしてか−パウロはなぜそのように告白できるのでしょうか? きょうは、2つのことから学んでみたいと導かれました。まず一つ目、それは、

(1) どんな境遇にも対処する秘訣を得ているからであります。

「秘訣」とは、「秘伝を伝授されること」という意味合い−忍術の秘伝ではなく、密教の「ふんだらふんだら」−失礼しました(笑)−つまり、異教における密教儀式的行ないに関連しているということであります。

パウロは言いました。「私はどんな境遇、あらゆる境遇にも対処する秘伝を伝授された。だから大丈夫」。もとよりこの秘伝が伝授されるためには頭脳的理解では得られないのであります。

剣道では竹刀、野球ではバットを血まめができるくらい素振りすることによって一流になれるように、

幾多の試練を通ることによって、その秘伝を伝授されたのであります。4章12節にありますように、

4:12 私は、貧しさの中にいる道を知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも,富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

ということであります。

豊かさとともに乏しさ。豊かさは彼の生い立ちに関係します。乏しさはその後のクリスチャン生涯、伝道者生涯においてキリストのために経験する経済的・物質的 乏しさ、あるいは友人達が離れていく人間的欠け……。そして言うまでもなく激しい幾多の迫害による乏しさ。そんな経験を通過したのであります。

今日は、コリント人への手紙第二からニ箇所紹介しますが、ここで、そのうちの一箇所をご紹介します。まず11章23節から28節を読みましょう。

 2コリント11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私か彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数え切れず、死に直面したこともしばしばでした。

11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

11:25 むちでうたれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、

11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし,飢え渇き、しば しば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

11:28 このような外からくることのほかに、日々私に押しかかる すべての教会への心づかいがあります。

パウロは、いま読んできた箇所のような経験を通過したのであります。また、満ち足りたことを学んだと11節にあります。学ぶとは経験するという意味であります。

あらゆる本質は、パウロも聖書も言っていますが、苦しいときがあるが、これを忍んだら、一生懸命やればなんとかなると言っているのではなく、生けるキリストとの関係において学ぶのである−即ち、

苦しみや悲しみの中にあっても生けるキリストとの関係においてでなければ学んだことにはならない−のであります。

ガラテヤ人への手紙2章20節にありますが、自分に死ぬ−自分を十字架につけるという経験あるいは秘訣であるといえます。

神の意志やみこころと自分の意志やみこころが衝突するとき、神の意志やみこころを第一とし、自分の意志やみこころをわきに置くことを「自分に死ぬ」ということであり、それを喜びをもって行なえればどんなに幸いなことでしょうか。

「秘訣は主イエス様によって学んだのだ」いう免許皆伝になるのは主イエス様との関わりによるのであります。

先日、召天された方のご遺族と一時間交わりの時を持ちました。その時、ご遺族のお一人が友人から励ましのことばをいただいたそうであります。それがコリント人への手紙第二4章であります。友人がクリスチャンであるというのはなんと幸いなことでしょう。

先ほどニ箇所と申し上げたコリント人への手紙第二から、今度は4章8節と9節、ご一緒にお読みしましょう。

2コリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒され ますが、滅びません。

ボクシングでいえば、8カウントで立ち上がることができる。ノックアウトではないのであります。

主イエス様とつながっているかどうか、苦しむだけでなく、主イエス様との関わりで経験していくのであります。

そんな中でパウロが満ち足りていたのであります。「どんな境遇にあっても満ち足り」ていたと告白していた第二の理由は、

(2)満ち足らせて下さるお方を知っているから

であります。4章13節と19節をお読みします。

ピリピ4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富を持って、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

そもそも満ち足りるとは、

どんな環境の中でも、たとえ戦いの只中であっても決して揺るがない平安と確信、満足を持つことであります。もうすこし厳密に言うと、この満ち足りるとの言葉の意味は、

「中身の充実した」あるいは「中身のいっぱいつまった」という意味がございます。

喩えますと、たいやきのあんこが尻尾までいっぱい詰まった状態であります。あんこが尻尾まで詰まったたいやき、美味しいですよね(笑)。あと、人形焼でも、普通のお店で買うとあんこが入っていませんで、あんこがいっぱい詰まっているのは水天宮にある人形焼でしょうか。

以前、ある勧士とともに日本橋でご奉仕をしました時、「井川君、この辺で売っている人形焼はあんこがいっぱいつまっているんだ。ちょっと散歩してくるよ」と勧士が仰っていました。

そのキリストなるお方−主なる神が具体的に二つの面で示されており、このことによって満ち足りるのであります。その一つが、

ピリピ4:13 私を強くしてくださる方、

すなわち、

a) 私を強くしてくださる・強めてくださるお方であります。この訳はいろいろな訳が可能であります。

キリストは私に力を与えてくださる、あらゆる人生の要求に応じる力を与えてくださるのであります。 クリスチャンは人生の種々の要求に応じるのに必要なあらゆる力を内側に持っているのであります。もう一つは、

ピリピ4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

すなわち、

b) 神は栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださるので あります。

「栄光の富をもって」という意味は、その持っておられる無尽蔵な富をもって、あなたがたのその時その時の必要に応じて、相応に満たしてくださるということであります。それ以上に、栄光の富をもってあなたがたの人生の中で必要とされるすべてのことに、すべて例外なく満たして下さる との全体的な意味があるのです。

「神のみわざは、神の栄光のために神のみこころに適って行なわれる時、神の供給が不足することはない」とハドソン・テーラーが言っています。

5.しめくくり−今週の適用

ではしめくくります。一つは、

(1) 真のキリスト経験を持とう!ということであります。

代用品でなく、徹底的なキリスト経験−主イエス様がいかなるお方かを更に深く経験し、日々新しい経験をしていたらどんなに幸いなことでしょうか。妻が夫のことを、夫が妻のことを同じように知ることはどうでしょうか。

もうひとつは、

(2) お互い、クリスチャンらしい物の見方・考え方をしよう!ということであります。

きょうは満ち足りたことを学びました。パウロが、ローマの獄中の中で、あるいは先ほどのコリント人への手紙第二にあったような経験を経て、福音の前進がなされ、証しされています。主イエス様が私の命であるのであります。

主任牧師の竿代先生は、ある方のご葬儀で、生まれつき目が不自由であるのは誰のせいでもなく、神の栄光が現わされるためであったとメッセージで仰っていました。

病気や経済的困難の時、「あのせい、このせい、どのせい……」と考えるのではなく、福音を前進し、主イエス様が証しされ、神の栄光が現わされるためと考えるのが秘訣−免許皆伝であります。

「どんな境遇にあっても満ち足りる」、これが今日のメッセージです。ご一緒にお祈りしましょう。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa, pastor of IGM Tokyo Central Church  

Compiled by K.Otsuka,Feb23ed,2003