礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年3月23日

年会前の聖餐式に臨む

「生命(いのち)を捨てる羊飼い」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書10章1〜18節

中心聖句

10:11  わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

(11節)


はじめに

1.年会前の「送別聖餐」の意味

 今日は年会年度の最終礼拝です。牧師達は一年の任期を終え、務めの報告を行い、新しい任命を受けるために年会に参ります。そのこともあって、この教会では伝統的に送別聖餐礼拝とも呼ばれています。それは、聖餐式が主イエスが十字架につく前日、送別の夕食として始められた事と重ね合わされているのでしょう。たとい年会任命で同じ場所に戻って来るにしても、一年ごとに送別するというところに厳粛さがあります。

2.四旬節(レント)

 加えて、その主のご受難を記念するのが教会暦で言えば今週からということになります。カトリック教会では十字架の金曜日の40日前からの季節をレント(四旬節、又は受難節)といって一切肉食を断ち、主のご受難を偲ぶ期間に入ります。私達プロテスタントはそれ程律法的に守りませんが、スピリットに於いてはそれに負けないくらいの慎み深さをもってこの季節を送りたいと思います。

3.ヨハネ10章:「良き羊飼い」vs当時の利己主義的な宗教指導者

 そのような意味合いを込めつつ、今日はヨハネ10章を選びました。この章は「良き羊飼い」の章として有名です。良き羊飼いとは、当時の利己主義的で、民を思わず、自分の利益だけを求めていた宗教指導者との対比で述べられている訳なのです。

 エゼキエル書34章には羊を食い物にする利己的動機で働く偽預言者のことが描かれています。しかし良き羊飼いは、人々を活かします。旧約時代のように、人を縛るような宗教ではなく、いきいきした命を私達にあたえるのがイエスの福音です。

 今日のテキストから、良き羊飼いの特色の幾つかを拾い、そしてその中でも命を捨てるという大切な側面に焦点を当てて学びたいと思います。


A.キリストは良い牧者

 ここで描かれている羊飼いの姿を見たいと思います。

1.名前を呼ぶ=個人的関心

10:3 彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

 主が私達一人一人の名前を呼び、関心を持ち、理解をし、守り育んで下さるという事実は驚くべきことです。私のすきな聖句ですが、詩篇147:4に「主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。」にありますように、主は私達に名を付け、名を持って呼んで下さいます。

 名を呼ぶということは私達を個別的に知り、個別的な関心を持ち、個別的な救いを講じておられるという保証です。私達を十把一からげではなく、「ザアカイよ」と個別的関心を持って呼びなさいます。

 先週高橋神学生の証を伺いました。救われてはいたものの人生に疲れ、教会生活にも疲れ、何もする元気もなく、自らの命を断とうとさえ思っていた時に、「香世(かよ)」(編者注:高橋神学生の名)という一声を聞いただけで、それまでの一切の疑問が解消して、明るい信仰に回復したというものでした。

 肉の声では聞かなくても、主はご自身のものを知り給うという事実を確信したいものです。主は一人一人を、特別注文の洋服を作るように、その実状に合わせ、性格に合わせ、能力に応じて丁寧に導いて下さいます。何と大きな感謝でしょう。

2.先頭に立つ=指導

10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

 詩篇23:3に「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」とある通りです。主は私達を鞭を持って逐い続けなさる方ではなく、先頭に立って道を造りなさるお方です。私達はそれについて行けば良いのです。

 ありとあらゆる人生経験や苦しみを嘗められたお方として、主は苦難にあって喜ぶ道を開いて下さいました。私達はその模範について行くだけなのです。

3.羊を活かす=養い

10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

10:10 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

 詩篇23:1、2には「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」と豊かな養いを約束して下さいます。魂を活かし、豊かな魂の状態を保たせて下さいます。もっと内容的に言いますならば、贖いを通して(最初に人類が持っていた)神の像が私達の内に回復されることです。キリストの内住によって、キリストらしさが生まれてくることです。

 そしてその命の賦与は、キリストが命を捨てることによって私達が得ることのできる永遠の命です。命とひきかえに新しい命が生まれる、ということがヨハネ12:24にも記されています。

ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 キリストが命を捨て、それによって私達が命を得るのです。そこに良き羊飼いが羊のために命を捨てるという必要性があり、美しさがあるのです。


B.良い牧者はいのちを捨てる

 「いのちを捨てる」という表現はこのテキストの中に、三回でて来ます。その三回の前後関係を注意深く見て、その意味を探りましょう。

1.羊を守る為に体を張る⇒それで命を捨てる

10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。

10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

 これは偽りの宗教指導者との対比で語られています。彼等は自己保身しか考えませんから、狼でもライオンでも羊を狙う獣が襲ってくると、真っ先に逃げてしまいます。しかし、良き羊飼いは羊の為に体を張って戦います。

 これは、ダビデがライオンに襲われた彼の羊を取り戻そうとして戦った記事を思い出させます。

 自分と羊を区別しないで一体と考える所が、羊のために命を捨てることが言わば自然にできるのでしょう。

 私達を愛し、私達を一体の者と考えて下さるのです。ですから命を捨てて下さったのです。私達はサタンと呼ばれるライオンの口に加えられ、死を待つ外無かった程の情けない、惨めな存在でした。主は大きな命という代価を払って私達をサタンの口から救い出して下さいました。主を賛美しましょう。

2.羊飼いと羊は愛の絆で結ばれている⇒それで命を捨てる

10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

 羊と羊飼いは相互の知識と愛情で結ばれています。その関係はキリストと父なる神との関係と同じです。その愛情に基づいて主は私達のために命を捨てて下さったのです。もっと言いますならば、命を捨てることによって愛情を示して下さいました。

第1ヨハネ3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

3.羊飼いは自発的に命を捨てる

10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

1)復活によって報われた死

 命を捨てるのは、無駄死にではありません。多くの魂に益を与え、自らも命を獲得する道でありました。

 これはキリストの復活の預言と見ることが出来ます。多くの人に自分の命を犠牲にして命を与えたのち、ご自分も甦り、贖いの業の確かさを証明されました。

2)自発的な犠牲

 キリストは十字架にかかられたのですが、運命だからとか、宗教指導者の嫉妬や陰謀の故にやむをえずという受け身的で消極的なものではなく、主は喜んで、自発的に命を捨てられました。

 十字架の物語の中で印象的なのはこの自発性です。キリストは、他に道があったのにも拘わらず、そしてエルサレムに行けば十字架が待っているということを知っておられたにも拘わらず、御顔を固くエルサレムに向けて入京をされました。

 ルカ9:51には「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられたのです。」(ルカ9:51)と記されています。さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられたのです。「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(ルカ13:33)

 主が十字架に付けられる時、「彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。」(マタイ27:34)と麻酔をもたらせる苦みを混ぜたぶどう酒を拒否なさったのです。

 17節を解説してアダム・クラークはこう言っています、「まもなく十字架に架かるが、それを父なる神からの棄却と考えないで欲しい。父のご愛は特にこの時にあらわれる。しかし、私は自分から自発的に命を捨てるのだ。しっかり覚えて欲しい、私は指導者によって捕縛され、裁かれるだろうが、それは自分が無力であるからではない。全く逆だ。私は喜んで、自発的に十字架の道を選ぶのだ。その証拠が復活なのだ。」と。


C.私達も良い牧者にならう者に

1.主の愛を心から感謝して受けよう!

 主が私達の為に命を捨てて下さった、その犠牲があって始めて私の今の命があるのだと言うことを覚え、心からの感謝を主に捧げましょう

2.主の愛を誰かに与えよう!

 主が命を捨てて下さったと同じ程度の献身的な心をもって神に仕え、人々のために生きるものとなりましょう。

 私達の命は私自身の勝手な目的のためにあるのではなく、命の与え主の御目的のために使う為にあるのです。今日、主が喜んでおられる内容と質における献身を告白し、その信仰に立ち、立ち続けましょう。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.3.23